45 冬休み瓶詰め(1)
母方の祖父母宅で年末年始を過ごすのは毎年恒例のことだが、
「今年はねえ、悪いけど私たち家族だけなのよね。それでも来いって言うんだから」
母の言う通り今回は赴きが変わっていた。父の運転する車に乗り込み、青潟近郊の祖父母宅に向かう中、上総は後部座席で靴を脱いだまま横たわっていた。酔い止めは飲んだ。対策はとっている。
「香港でハッピーニューイヤーか。海外旅行というのはまた豪勢だな」
「うちの親がそういうの好きなわけないじゃない。妹夫婦がたまにはのんびりしなさいよってことでくどき落として連れ出したのよ。全くね、支払いはうちの親、付き添いで家族もみんな。いいご身分よ」
──全くだな。
相槌を心の中で打っておく。
「でも年末に誰も人がいないのは物騒だってことで、じゃあ私たち家族の別荘として三日間自由に使いなさいな、ただし餅つきも部屋の掃除も全部しときなさいよ、というのが私たちに与えられたお仕事ってわけ。一応年始の挨拶周りくらいはしないとまずいけど、私は二日にもう仕事あるから戻るわね。上総も、確か冬期講習いつからだったかしら」
「四日からだけど、二日に友だちと初詣行くから早めに帰りたいよ」
「OK、じゃあ和也くん、さっさとお餅作って適当に正月したくしちゃいましょう。上総、あんたも労働力としてこき使うから覚悟しときなさいよ」
「わかってる」
青潟からさほど遠いわけではないのだが交通手段が限られていることもあり、たいていは泊りがけとなるのが常だった。両親はそれでも仕事の関係ですぐ戻るのだが、上総だけは長期間母の部屋に寝泊りすることが多い。その間、ピアノを弾いたり本を読んだりとひとりだけ好きなように過ごせることもあって気楽ではあった。祖父母からもさほど干渉されることもない。
ただ、元気一杯はしゃぎがちいとこたちとの交流は正直苦手だった。あえてそのあたりを酌んで両親も泊り込みの時期を調節してくれているらしいとは最近気づいたことだったが。
「出発したのは昨日か」
「そうよ。たぶん何にもしてないと思うわ。餅つき機も出してないって話してたし」
言いながら四角い建物の家に向かう。デザインに凝っている漢字はしない、箱のような建物だった。上総が母のトランクを抱えて車から降り、最後尾で入り口に向かうと、
「あら、不在者通知が届いてる。どうしたんでしょ」
驚く声が聞こえる。すぐ鍵を開けてはいり、母は改めてまじまじと手元の「不在者通知票」を眺めやった。
「もしかしてこれ、おせちの宅配注文してくれたの? いいところよここ。仕出屋さんのもの私たちのために用意してくれたみたいね」
「ほんと?」
上総も覗き込んだ。名前だけは知っている青潟の老舗料理店のものらしかった。この点はかなり重要で、三日間の自由時間が増えるかどうかのポイントになる。
「やはり気、遣ってくれたのよ。少し楽になるわ。さ、早く上総荷物置いて、地下においてある餅つき機出してきて。上の棚にわかるように置いてあるから。私もとりあえずはもち米うるかしたりしなくちゃならないから。さ、手を洗ってさっさと始めましょ」
どちらにしても楽出来そうにはない。この母のいる限り。
地下の駐車場に車を入れた父が戻ってきて、さっそく地下の部屋に古新聞を敷き詰める作業を始めた。餅つき機でもち米をついた後、父とふたりで餅をちぎっては丸め、粉をまぶした状態で平べったく伸ばし、並べて干す。一部の餅にはあんこも詰める。大量にこしらえておいて、餅が乾いたら冷蔵庫に保存しておく。年老いた祖父母には堪える作業ということもあり、上総たちが年末に向かう際には必ず行う仕事であった。手馴れてはいる。
「じゃあ和也くん、大根だけ買ってきてもらえる? 消化悪いもの食べるんだからそのくらいはないとね」
いきなり母が父に指示を出した。大抵おつかいは上総の役割で、父はその間餅つき機が正常に動くかを確認したり場合によっては洗ったりするものだったが、
「いいの、上総、あんたはここで小豆を煮てなさい。和也くん、あと何か必要なものがあったらよろしくね」
父も文句言わずおとなしく出て行った。母に逆らうべきではないということを身に染みて感じているのだろう。上総からすれば数少ない共同戦線の相手が消えたのは痛いところでもある。
──おせち一から作らなくてもいいなら、少しはピアノ弾いていられるかな。
この家で過ごせる一番の楽しみは、本物のピアノで思う存分弾いていられることだ。母が少女時代愛用していたピアノは部屋の中にあり、防音もしっかり利いている。電子ピアノの音色とは全く違うのだ。
「上総、もうそろそろ火を止めてちょうだい」
「わかった」
母とも料理の手順やり取りだけであればそれほど揉めることもない。余計なことさえ言わなければ何事もなくやり過ごせることを最近知った。単純にビジネスパートナーとして割り切るのが一番だ。母ももち米の準備を整えた後、ふと上総に問いかけた。
「あんた、最近ピアノまだやってるの」
「やってる」
短く答えた。今も印條先生の下に通っていることを、最近ようやく母は父から教えられたらしい。どれだけ揉めたかはわからないが上総に何も言わなかったところを見ると黙認されたと判断していいのだろう。もっとも文句言われたら全力で反撃する準備はできている。
「何を弾いてるの」
「『バッハ・インベンション』の一番」
「地味ね」
吐き出すようにつぶやき、母は冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。
「あの先生のお宅で、一緒にお稽古している女の子がいると聞いたんだけど」
「女の、子?」
一瞬誰のことを言われているのかわからず身体が硬直する。
「いないよそんな人」
「ああそうね。あんたにとって女の子は小学生イメージよね」
ひとりで母は納得した後、
「一緒に習っている、若い女の人、よ」
言い換えた。背を向けたまま、ずっと冷蔵庫の中ばかり見つめている。
「なんでも青大附属の先生だとか聞いたけど」
──野々村先生のことか!
冷蔵庫から流れてくる冷気が、ぞわりときた。
──いつか来るとは思ってたけどな、よりによって今かよ。
上総は小豆をざるにあげて水を切った。湯気が顔にかかる。
「国語の先生だけど俺は受け持ってもらってないよ」
「なにかやましいことあるんじゃないの。向こうさまはあんたのことをよくよく知ってたみたいだけど」
──まさか、もう顔合わせてるのか?
考えられないことではない。確かに野々村先生は英語科A組の授業を受け持つことはない。ただし上総の個人面談を担当してくれているし、期末試験の過程にいたってはここまでしてくれていいのかというくらい補習を手伝ってくれた。母が知らないとしたら確かにそれは不自然だ。
「それなりに。でもピアノの稽古場ではそういうつながりなしで接するようにと言われているから考えたことないよ」
できるだけ無難な言葉で交わしたつもりだった。
「ずいぶん意味ありげなこと言うのねえ。上総、何かあるんじゃないの」
──まずい、父さんとのことばれたらえらいことになるよ。
どこまで知っているのかがまず把握できていない。印條先生がいまだに父と野々村先生を娶わせることをあきらめていないのは確かに伝わってくる。野々村先生も、あくまでも上総の主観だが父のことを心憎からず感じているような気配はある。ただ肝心の父がこうやって、母の手下として嬉々としてこき使われている様を見る限り、大番狂わせはないような気がする。子どもの立場としては無難に過ぎて欲しいのだが、背中を向けたままの母にどう返事していいのかわからない。
「母さん、冷蔵庫の中の温度上がるから早く、戸、閉めたら」
なんとか思いついた言葉がその程度、情けない。




