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42 山麓にて(3)

 吹雪の止む気配はなく、梨南は求められるがままに紅茶を準備した。きれいだがほとんど使われた感触のない台所……キッチンという言葉の方が自然……に入り、手付かずの紅茶缶を許可もらい開いた。隣りにジンジャーパウダーの瓶を見つけたので、

「お差支えなければ」

 と一緒に混ぜることにした。父は寒がりだし二杯目の紅茶には少しでも身体が温まるものの方がいいだろう。

「すごいわね。よくそんな風にできるのね。私思いつかないわよ」

 見ると、粉末タイプのレモンティー缶が蓋を開け放したままテーブルにおいてあった。なんとなく湿気のひどい部屋だし、急いで蓋を閉じた。出してくれた四人分のカップに注ぐのだが、茶渋がびっしりついているマグカップも混じっている。

 ──本当にここ飲食店なのかしら。

 また許可をもらうことにした。

「今から洗い直させていただきますがよろしいですか」

 その女性はきわめてシンプルな白いトレーナーに腰だけ覆う形のエプロンをジーンズの上に締めている。名前を直接聞いたほうがいいのか。いやそれはなれなれしすぎるか。少し迷った。最後の一滴まで注ぎきった後梨南がお盆を運ぼうとすると、

「そこまでしてもらえれば十分よ。ありがとう。さすが先生から噂に聞いていた通りね」

 茶色い髪をまとめるようにして微笑んだ。そのままお盆を手にした後、

「さっき呼び鈴が鳴ったからもう校長先生来てるわね。ゆっくりしましょう」

 ──気づかなかった。

 そのまま長い廊下を渡り、父の待つ部屋へと向かった。いったいこの家は喫茶店なのかそれとも別の集合所なのか。梨南にはわかりかねた。


「先生、お待たせしました。お連れしましたよ、梨南ちゃんを」

 彼女は梨南を前に押しやるようにして紅茶をテーブルの上に並べた。いきなりなぜ「ちゃん」付けで呼ぶのか戸惑う。急いで礼を校長先生にする。

「杉本梨南です、お久しゅうございます。本年もよろしくお願いいたします」

「梨南さん、どうぞ。お会いするのを楽しみにしていたわ」

 ──どこまで本当なのかしら。

 校長先生と直接言葉を交わしたのは夏休み以来だった。品のある女性でかつ梨南のような中学生に対しても礼を尽くした言葉をくれた人だ。印象はすこぶるよく残っている。青大附属にエレガントという言葉を身にまとった教師はひとりもいないからなおのことだった。細かなしわが目の回りに集まっているけれどもそれすらひとつのメイクアップに見える。

「香澄さんもどうぞ」

「では、先生のお隣に」

 父とその、香澄さんという名の女性が向かい合う形になる。改めて父がしゃちほこばった礼をした。同時に紅茶を口に運び、

「ああ」

 腹のそこから沸いてでたような吐息をついた。

「こちら、梨南ちゃんが入れてくださったのですよ」

「そうか、そうですか」

 梨南の顔をまじまじと見つめ、めがねを外して裸眼のままで、

「梨南は本当に、おいしい紅茶を入れるのが上手だね」

 ──先生たちの前でそんなたわけたこと話すのはよくないことだわ。

 父が平常心を失っていることだけは把握し、梨南は頷き静かに校長先生と対した。


「梨南さん、夏休みにお会いした時から比べると日に日に大人の顔つきになっていらっしゃるわね」

「恐れ入ります」

 きちんと答える。隣りの香澄さんもにこやかに梨南を見守っている。

「安心しました。お父さまにもお話させていただいたのだけど、あれから青大附中の殿池先生からは連絡をいただいておりまして、梨南さんが日々すくすく成長している様を伺っておりました」

「殿池先生が、ですか」

 いやな予感がする。窓辺が揺れる。身体を堅くする。父が尋ねる。

「うちの娘につきましてはいろいろとよくない評判なども、届いているのでしょうか」

 ──お父さま、もう少し言い方あるのじゃないのかしら。

 いらいらする。本当だったら厳しくたしなめたいがそれもためらわれる。ただじっと聞き入るのみ。校長先生はやわらかに首を振った。

「お父さま、ご心配なさる必要は一切ございません。確かに青潟大学附属中学の校風にそぐわない出来事が続いたことは確かにあるかもしれません。私も殿池先生とはもう女学生時代からの付き合いですけれども、彼女は嘘を申しません。事実を伝えてくれるのみです。その上で私も判断いたしました。何も、お困りになることなどございません」

「しかし、青大附属側のこの子に対する扱いは」

 なおも食い下がる父に、校長先生はゆっくりと、梨南を交互に見ながら、

「それぞれの学校にはそれぞれの価値観があります。青潟大学附属中学さんの校風には確かに梨南さんはそぐわなかったのでしょう。それだけのことですよ」

 ティーカップを口に運び、

「本当、こんなおいしい紅茶、久々にいただくわ。芯から温まるわね」

 香澄さんと顔を合わせて幸せそうに微笑んだ。


 ──私が、青大附属の校風にそぐわなかった?

 ティーカップの赤みが揺れる。

 ──どういう話が届いているのかしら? 確かに殿池先生は私をなずな女学院に入れたくてならないことをお父さまお母さまに伝え、口説いていたわ。高卒の学歴が手に入らないことを懸念するお父さまをもあっさり納得させてしまうくらいなんだから。

 夏休みの段階でおそらく、「修学旅行濡れ衣事件」が真実であるという形で伝わってはいるだろうし、今回はそれにプラスされて「E組送り」事件や「模範生徒表彰に対して物申す事件」などなどさまざまな情報も届けられているだろう。どの件も梨南にとっては後ろめたいことなど何一つないし、今ここで申し開きせよと言われたらすべて弁論する自信もある。ということはすでに青大附属からもたらされた情報を相手にする気もないということか。わからない。


「梨南さん、不安なのはわかります。あなたの顔にすべて書いてあります」

「別に、私は不安など」

 言いかけた梨南を遮るようにして校長先生は続けた。

「なぜ、周囲の人たちが梨南さんをなずな女学院に進学させようとしているか、戸惑うのは当然です。あなたは小さな頃から成績優秀で本来なら青潟大学附属高校にそのまま進学できるだけの能力も、いえそれ以上のレベルの学校に進学できる力もあります。成績だけで見れば、日本で最高学府と呼ばれる学校までも夢ではなかったでしょう。その道を進むのもひとつの方法です。でもね、梨南さん」

 まだ梨南が手付かずにしていたカップをじっと見つめ、小首をかしげて語りかけた。

「あなたの本当の才能は、極上のジンジャーティーの中に隠れている、と言ったら驚くかしら」



 


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