31 最終的対話(4)
──狩野先生の奥さんは近江さんのお姉さんなんだよな。
から揚げは冷凍食品独特の濃い味付けだった。おいしいといえばおいしいが上総の口には合わなかった。狩野先生が平気で食べているのが不思議だったが、やはり奥さんの手作りと考えれば味わいも変わるのだろう。
「おいしくいただきました」
手を合わせて食事を終え、いったん手を洗いに廊下へ出た。頭を整理しておきたかった。
──狩野先生はある程度事情を把握しているな。
霧島が集めてきた情報を整理して、おそらく狩野先生と駒方先生が仕組んだ内容ではないかと判断したのがつい一週間ほど前。断定したのはやはり、佐賀さんの「模範生徒表彰」情報を脳天気な霧島が嬉々として報告に来た時だった。霧島はまだ、佐賀さんを全身全霊で崇拝している。女神が表彰されるのは当然のことと誇っているのだろう。
──だが、実際の内容を知る限り本来表彰されるべきはどう考えても杉本だろう。
何度考えてもそこに行き着く。佐賀さんの言う通り、本来杉本との友情を復活させるべく他中学の友人と手を組んでこのようなからくりを組み立てたのであれば、見方にもよるけれども「模範生徒表彰」の対象にはなるだろう。しかし、それならば最初に困っている友達を助けようとして手作り教科書をこしらえた杉本と桜田さんの方こそもっと称えられるべきではないのか。このふたりが最初誤解されていたことは別にしてもだ。
百歩譲って杉本と桜田さん、そして佐賀さんが一緒ならまだわかる。
なぜ、佐賀さんだけなのか?
「立村くん、続きを始めましょう」
狩野先生も自分のグラスにウーロン茶を注ぎ、膝に手を置いた。
「食事前に君から聞かせてもらった内容がすべてとするならば、僕の立場からも一通り説明させてもらってもいいでしょうか?」
上総は頷いた。反論ももちろん準備してある。
「先ほど立村くんは杉本さん、そして桜田さんが夏休み前から行っている行為がなぜ、佐賀さんに横取りされなくてはならないのかと仰いましたね」
「はい。その通りです」
「実際、立村くんもその現場を見ていますし君が用意した教科書の写真も、確かなる証拠にはなるでしょう」
「そうです、だからそれのどこがおかしいと」
嘴はさみかけた上総を狩野先生は首を振って制止した。
「君には受け入れられないかもしれません。僕がこれから話すことは論理的にも整っていることとは言えませんし常識を逸していると思われても仕方がありません。ただ、僕たち教師側がどういう行動を望んでいてどういう生徒を求めているのか、そのことだけは伝えておきたいと考えています。きっと反論したいことも出てくるでしょうが、僕が話し終わるまで待っていただけますか」
──反論を封じるのか。
だんだん狩野先生が遠くなっていくようだ。窓辺の木立を眺める。なにひとつ守られるものがない。
「わかりました。よろしくお願いします」
上総は答え、膝にアルバムの函を乗せてかかえた。
「立村くんは今の話をまとまったひとつの物語として受け止めていますが、実際は二つの全く別の話が並列に存在しています。ひとつめは杉本さんと桜田さんが手と手を取り合って計画した私塾計画。もうひとつは佐賀さんともうおひとりの女子生徒さんが駒方先生を通じて知り合い、互いの友情を復活させるために行ったお手伝い計画。この違いがどこにあるかわかりますか」
「出所は同じではありませんか」
「いいえ、前者の私塾計画は桜田さんと杉本さんが大人の誰も含まずにこっそり始めたものであり、後者のお手伝い計画は駒方先生に相談し、さらにお相手の生徒さんの保護者の方も協力しそれぞれの学校で許可をもらって行ったもの。この差です」
「大人の差ですか」
内容なんてほとんど変わらないのに。言いたいが我慢する。
「そうです。立村くんもご存知の通り桜田さんと杉本さんはふたりでこっそり、子どもたちだけの部屋で初めていたことです。もちろん内容は素晴らしいことですがその一方で近所の人たちから注意されたり同時に先生たちからも指導を受けるような内容です。もし同じことを前もって親御さんなりもしくはそれぞれの学校の先生なりに許可をもらって行っていたのであれば、おそらく許されたことかもしれません。もっともそれは難しかったことでしょう。むしろ引き離す方向で動いたかと思われます」
「桜井さんやその他の人たちの、過去が原因ですか」
「そうとも言えません」
狩野先生は言葉を濁し、どんどん先へと進んだ。
「少なくとも杉本さんたちは自分たちだけで計画を立て、それが外部の人たちからは誤解を招き、学校側にも厳しい指導を受けるなどして決して褒められることをしたわけではありません。その行為がではなく、それを始める前の準備に不備があった、つまり教師を含む大人たちにその是が非を確認しなかったという上です」
「たとえ、勉強という大前提があってもですか」
「そうです。もしそのような打診があれば、僕であればおそらく制止したでしょう。桜田さんだけではなく杉本さんのためにもならないと理由でです」
「杉本のどこが?」
上総が語尾強く問うと、狩野先生もしっかり答えた。
「ご存知ですね、杉本さんが今、受験勉強に集中しなくてはならない時期ということを」
──もう解放されているとも知ってるよ。
「いいえ、すでに推薦で学校は決まっていると聞いています。あくまでも噂ですが」
会心の反撃。狩野先生は頷いた。
「杉本さんには勉強の他、もっとたくさん学ぶべきことが用意されていました。そのひとつが青大附中のクラスメートと落ち着いた友情を構築するということです。僕であれば外部の友だちよりもまず自分の学校内での生活を整えてほしいと願います。またその友だちがはたして杉本さんの教えた内容を理解しているか、そのことも把握してほしいと思います」
「把握ですか」
狩野先生はひと呼吸置いて続けた。
「杉本さんたちは、友だちふたりに読書感想文のテーマ本として森鴎外の『舞姫』を選び丹念に漫画化して説明していたそうです。もちろん杉本さんや桜田さんはしっかり把握した上での案内だったのでしょう。その他の勉強においても同様です。わかりずらい数学の方程式やさまざまな理科の実験などをわかりやすい漫画におとして楽しくレクチャーしていたようですが、はたしてそれで友だちふたりには伝わったのでしょうか」
「成績は上がったと、桜田さんが話していた記憶があります」
確かそうだった。八月の段階で桜田さんが威張っていたのを覚えている。
「それであれば、立村くん、君にはもうひとつ知ってほしいことがあります」
ぐっとグラスを両手に抱えるようにし、狩野先生は前かがみになり語り掛けた。
「九月以降のことです。きっかけは君が話してくれた通りで間違いはありません。駒方先生および、かつて桜田さんの友だちだった女子生徒さんとそのお母様、そして佐賀さん。じっくりそれぞれの想いをぶつけ合い始めた新たな、お手伝い企画ですがこれは、互いの中学の先生たちも巻き込んで大掛かりに行われました」
「互いの中学の?」
それは知らない。不意を突かれた。狩野先生は上総の動揺を読んだのかかすかに微笑んだ。
「まだ聞いていないかもしれませんが、駒方先生や桧山先生も協力して、結局この二ヶ月間は向こう様の学校で教科書をクラス全員で協力して作る作業を行いました。ふたりのためだけではなくみんなが協力して、です」
息が止まりそうで言葉が出ない。狩野先生は手を止めない。
「その上で、あのおふたり以外の授業についていくのに苦労している生徒たちのために同じような授業を、クラスのみな手分けして行ったということです。当然あのふたりも含まれています。その結果は詳しい内容をお話することはできませんが、比較的よいものだと伺っています。同時に、クラスの団結も図られよいこと尽くしという結論に達したそうです」
「ですが手作りのテキストは」
頭が朦朧としたまま上総が言い募るも狩野先生は留めを刺す。
「きっかけは確かに桜田さんや杉本さんがきっかけだったかもしれません。しかし、佐賀さんともうおひとりの女子生徒さんは一通りその内容を確認して、これでは伝わりづらい、最初からみんなで作り直したほうがよいと判断したようです。特に読書感想文用の漫画は絵そのものは素晴らしい出来ですが、読む彼女たちに『舞姫』はハードルが高すぎる。それなら太宰治の『走れメロス』もしくは宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシェ』あたりがよいのではという意見も出たそうです。僕は同席しておりませんが駒方先生と女子生徒さんのお母様も同意されたと伺っております」
──あれが、伝わりずらい? 杉本たちが懸命に作っていたものを、教えられていた生徒のふたり、喜んでたじゃないか。
「佐賀さんの助言もあり、その女子生徒さんは懸命にクラスメンバーに呼びかけ、受験を控えた中時間を作ってオリジナル教科書作りを全員で行いました。基本を振り返る意味でもきっと他の生徒にもプラスになったようでクラスは一丸となり、今までなじめずにいたあのふたりもやっと最後の最後で仲間になれたと喜んでいたようです」
「読書感想文用も、ですか」
信じたくない。上総の目の前でりんりん・あっこのふたりは「舞姫」のぶっこわれた桜田解説に腹を抱えて爆笑していたじゃないか。あれだけ楽しんでいたのに「難しすぎる」といっていいんだろうか。作品が堅すぎるからか。それをやわらかく調理したのが杉本と桜田さんとの腕の違いというのに。
狩野先生は頷き、手をテーブルにぺたりと置いた。
「これが違いです。杉本さんも桜田さんも成績優秀で知識も豊富ですから多少難しい内容もさらさらこなせてしまうでしょう。ですが本来の目的は高校受験でよい成績を上げることと、あの場にいたふたりのお友だちが中学で居心地よい生活を送ることでしょう。杉本さんと桜田さんにはその視点が欠けていました。だから、自分たちだけでまとまり他の人たちの助言にも耳を貸さず突っ走ってしまいました。それは、学校側として決して許されることではありません。一方、佐賀さんの行動大前提は、杉本さんを助けたいというその気持ち一本でした。その上で桧山先生をはじめたくさんの先生たちに相談し助けを求めそこから駒方先生につながり、他中学のルートにたどり着いたわけです。杉本さんだけを救うのではなく、他中学のクラスからはみ出しそうになっている生徒たちを手助けできるということに気づいて、大人たちの手を借りて、ひとつひとつ道を拓いていきました。最後には桜田さんとその女子生徒さんとの間を取り持ち、やっと心つながることができたとも聞いています。残念ながら杉本さんは受け入れてくれなかったようですがそれはまた別の問題でしょう。佐賀さんは、たくさんの人の手を借りることを恐れず一歩ずつ進んで確かな結果を出しました。その結果はさらに他中学へ漣のように広がっていきました」
「桜田さんが、結局受け入れた?」
もう頭は朦朧としていた。狩野先生の言葉は届かない。耳鳴りが響く。
「僕はまだ『模範生徒表彰』の件について把握はしていません。それは本当です。信じてください。ですがもし仮に、佐賀さんが表彰対象の候補に挙がったとしても不思議はないと考えています」
上総は立ち上がった。もうこの部屋に足を踏み入れることはないだろう。ウーロン茶を立ったまま飲み干し、しゃがまずにそのままテーブルに置いた。
「お時間、ありがとうございました。失礼します」
「立村くん、僕はまだ話が」
「いえ、結構です。よくわかりました」
失礼千万なのは分かっている。狩野先生が今まで上総にどれだけ目をかけてくれていたことかも痛いほど感じている。言葉の端々に上総が傷つかないようにと配慮してくれていることもよくよく伝わってくる。
──でも、許せることか? これが?
杉本梨南が大人の力を借りずに行っていたことは否定され、佐賀さんが教師や保護者他中学の生徒たちの協力を得て動いたことは「模範生徒表彰」の対象になるという。せめてその一端に杉本も存在してどこがいけないというのだろう。ひとりで戦ってきたからか? 誰の力も借りようとせずつっぱってきたからか?
一礼して扉を閉めた。立ち上がったまま見送る狩野先生の静かな佇まいにもう触れることもないと考えると、それが寂しいところもある。だが、もうこれ以上自分が頼るべき人ではないことも確かだった。
──狩野先生、いままで、ありがとうございました。失礼します。
上総はそのまままっすぐ階段を降りて職員玄関へと向かった。行きと同じく知っている顔誰にも会わなかったのが救いだった。




