28 最終的対話(1)
化学の答案をなんとか半分埋めた。前回はその二分の一だったことを考えると進歩したと言ってよいだろう。期末試験最終日、鐘が鳴り答案を後ろから回収されるのを待ちつつ上総は全身から力が抜けていくのを感じた。ついでに言うならついさっきまで酷使していた脳みそからも。
──これで復活なるか、だよな。どうだろう。
手ごたえとしては文系科目ならなんとかなりそうだが、それ以外の理系科目がかなり厳しい。野々村先生の力を借りてそれなりに積み重ねた努力だけれども結果は果たしてどうだろう。自信はない。
──でも、たぶん、中間よりはましだと信じるしかない。
国語と社会で落とさなければ最低でも文系のトップテンにはもぐりこめるはずだ。答案返却に備えて心の準備だけはしておかねばなるまい。場合によってはまた親呼び出しにならないとも限らない。
上総はかばんに筆記道具一式を詰め込んだ。試験期間はさほど荷物を持ち歩く必要もないので軽くてすむが、本日はさらにもう一袋ぶら下げねばならないものがある。それほど重くはないけれども、目立つことは目立つ。
帰りのホームルームを終えてから上総はすぐに教室を抜け出した。誰かに声をかけられるのも面倒だった。別に隠す必要はないけれども、しがらみを考えるといろいろ面倒ではある。人波の荒い廊下で美里に後ろから声をかけられた。
「立村くん、今日の試験、どうだった?」
答える前にさらなる後ろから羽飛が追いついてきた。早い。
「中間よりはましという程度だけど、結局まだまだだな」
「でも、前よりよかったらならいいよ! そうだ、立村くん今度の休みなんだけどまた貴史と一緒に冬休みの自由研究のこと、相談しない?」
「もうそんな時期なんだ」
ひとりごちた。あっという間の二学期だったとつくづく思う。美里や羽飛と一緒に語り合った自由研究の時間も気づけば第二弾へ突入する時期と来た。確かにそろそろ考えておかねばならない時期だが、どうなんだろう、実際のところまたグループ研究推奨になるんだろうか。
上総がその点を問うと羽飛も首をひねった。
「どうなんだろうなあ。俺も担任にそのあたり確認しねえとなんも言えねえけどな。だがやるんだったらやっぱやるしかねえだろ」
「もしひとりひとりでやってもいいんだったら、テーマだけ一緒にして提出は各個人で、というのもいいかもね。立村くんは翻訳か小説か、貴史は絵の分析オンリー、私はそれにまつわるなんかの研究」
「いいなそれ、やろうやろう」
一瞬三人で盛り上がるも、すぐ現実に立ち返る。美里たちには悪いのだがこれから大仕事が待っているので油を売ってはいられない、というわけだ。
「ごめん、日曜の二時ごろでどうかな。午前中は習い事の関係で出かけてるから、その後なら大丈夫」
「そっかそうだよね、立村くんピアノ続けてるんだよね」
ふたりにも「ピアノを習い続けている」ことだけは伝えてある。まさか美里の担任と肩を並べて語らっているなんてことは口が裂けても言えはしないが。
「じゃあ、用事終わったらお前のほうから俺ん家に電話よこせ。それが合図でどっかで待ち合わせだな。俺が美里を迎えにいきゃあいいだろ」
「そうね。それで決まり! あ、でも立村くんこれからどこか行くの?」
あせっているのを見透かされただろうか。まあいい、答えた。
「うん、中学校舎で狩野先生と会って、いろいろ話をしようかなと思って。中学も期末試験今日で終わりだろ。タイミング的にもどうかなとは思うんだけどさ」
「採点の邪魔になるかもよ。でもまいっか。じゃあね、まああとでね!」
「走りすぎてけがすんなよ!」
見送られて気づく。もう上総の全身から早く向かいたいオーラが漂いすぎていたようだ。ふたりには悪いことをした。日曜会う時には何かお土産持っていったほうがよさそうだ。
──生徒会も順調なようでよかったよ。
生徒玄関で靴を履き替え外に出る。天気は決して悪くないのだがやはり十二月。初雪は十一月末にちらついたのだが根雪にはならずに終わり、今は土の上をスニーカーで普通に歩くことが出来る。青潟の気候を考えるとおそらくあと一週間ほどで本気の雪が降り積もりがっちり踏みしめて歩かないとまずい時期に突入する。すでにコートも厚みのあるものをクローゼットに準備してある。母が丈を少しだけ出してくれた。
──関崎ともうまくいっているようだし、それに難波と更科も。
一番の不安材料だった関崎と難波たちとの相性も、今のところは特別にトラブルが起きたということもなさそうだ。どちらにせよ今度の日曜にもう少し詳しく聞きたいのが正直なところではあるが、たぶん大丈夫だろう。
当選が決まった段階で美里と羽飛、あと古川の四人で学食お祝い会を開いた。本当は古川邸でもう少し華やかに正式なものを行いたいという意向もあるのだがいかんせん生徒会は忙しい。美里も生徒会長に就任してしまった以上はあいさつ回りやら先輩たちからのレクチャーで苦労しているようだった。評議委員会とは全く勝手が違うようだがそれでも弱音を吐かないところは相変わらずのようだ。
──あとはなんとか、関崎がな。
どうするつもりなのかはこれ以上考えないことにする。上総はすでにバトンを手渡した。美里が関崎への気持ちをどう整理するのか。羽飛がそれを見据えてどう動くのか。上総はもう、傍観するしかない。
中学校舎に到着した。まだ校内に生徒たちはたくさんうろついている。職員玄関から入っていき、霧島がいないかどうかをまず確認した。もちろん杉本に気づかれるのが一番まずいのだが、まだ言い訳はできる。もっと恐ろしいのはかの天敵との対面だがすべては運に任せるしかないと思う。幸い、三階に上がるまでの間はなんとか知り合いと顔を合わせずにすんだ。
──たぶん生徒会室にいるんだろうな。
生徒会長に就任してから間もない霧島のことだ。やりたいこともたくさんあるのだろう。副会長経験もあることだしそのあたりは想像がつく。他のメンバーがどういう奴なのかまでは聞いていないが、少なくとも渋谷さんのようないろいろ問題のありげな生徒は混じっていないようだ。たぶんやりたいようにあいつもやるだろう。中学の学校祭は結局、先生たちの希望に沿った無難なものにまとまったとのことで霧島がやたらと悔しがっていた。そうなると来年は見ものだ。あいつも和風のイベントを組み立てるつもりなのだろうか。霧島とまた顔を合わせたら聞いてみよう。
まっすぐ、生徒相談室へと向かう。
何度も足を運んだ場所だった。
息苦しくも、心許したことも、さまざまな記憶の問われる場。
視聴覚教室を右手に見ながら歩き、やがて見慣れた扉をノックする。
「どうぞ」
狩野先生の声がはっきり聞こえた。上総はすぐに中へと入った。一礼し、改めて立ち上がった狩野先生に挨拶をした。
「お久しぶりです。お忙しいなか、お時間をいただきありがとうございます」
「いいえ、僕もちょうど、君に話すべきことがありました。時間は定めてません。ゆっくり話しましょう」
最後に会った時と比べてやせ方が尋常でなかった。頬骨が浮き出ているのが気になった。上総はそのまま、ソファの奥に勧められるまま腰を下ろした。いつものように狩野先生は冷蔵庫を空けた。ペットボトルのウーロン茶が用意されていた。
「お茶のほうが落ち着きますね」
上総も頷いた。長時間の覚悟はある。




