26 師走の答え(3)
父が帰ってくるまで電子ピアノの前にいたが、さすがにまずい。すぐに蓋を閉めて勉強机の前に座りなおした。
「さすがに勉強しているのか」
安心したように父がつぶやく。
「もう少しで期末だから」
「ピアノは、休めないよな、仕方ないか」
印條先生とのつながりがある以上、本来は休ませるべき時期であってもそうはいかない。上総にとってそれはありがたいことだけれども父からしたら眉間にしわを寄せたくなる内容らしい。早く部屋を出ていってほしいのに父は上総のベッドにどっかり座り込み、
「気にするな。ちょっと父さんも休んでいるだけだ」
──休むなら居間か書斎かどっちか行けよ。
いかにも上総を見張ろうとしている気配がありありと伝わってくる。仕方がない。数学の教科書と問題集を広げて見せ付けてやる。
「学校で補習もしてもらっているんだろう」
「一応。週三回は」
野々村先生が担当ということには触れずにおく。上総の知る限り野々村先生は印條先生宅以外で父とさほど接触していないようだが果たして本当のところはどうなのだろう。興味はある。
「なら、挽回は可能だな」
「したいとは思ってる」
勉強させたいのなら早く部屋から出て行けと言いたい。
「それにしても、母さんも心配しているから今回は死に物狂いでやれよ。また学校からお呼び出しなんて冗談じゃないぞ」
「前回はたまたまだって」
自分でもなぜあんなひどい点数を獲ってしまったのかわからないが、とにかくなんとかしなくてはならないことくらいはわかっている。だからこうやって机にかじりついているわけだ。
しばらく父はそのままずっと上総の様子を観察していた。何もそうじろじろみなくたっていいだろうに。いい加減追い出そうと思った時だった。
「ところで上総」
「何」
「お前、この前『おちうど』に連れて行った女の子のことだが」
──なんだよいったい。
なぜ杉本のことを持ち出されるのか。明らかに父は気がついている。上総の反応を注意深く見守っている。ここでへまをしてはいけない。知らん振りを決め込む。
「『おちうど』には友だちとよく行くけど」
「おかみさんが言ってたぞ。お前が連れてくる女生徒はひとりだけだってな」
──おかみさんなんでそんな余計なことを!
盲点だった。『おちうど』のおかみさんは両親ともにつながりがあるから、連絡しようと思ったらすぐに伝わってしまうのだ。母にはもしかしたらとも思っていたけれど何も後ろめたいことをしたわけではない。確かに女子で連れてきたのは杉本だけだが、それはたまたまだと何故思ってくれないのだろう。男子だったら関崎と霧島のふたりくらいだ。なぜか本条先輩を連れてきたことはない。
黙りこくった上総に父はさらに追及を進めた。
「お前にそれなりの相手がいることは前から知っていたがな。最近は別れたとか寝ぼけたこと口走ってたが」
「そんなこと言ってない」
「いいや言ってただろ。お前のほうが振ったことになっているってな」
父は落ち着いて交わす。もしかしたらそんなことを口走ったことがあるかもしれないが少なくとも美里のことであり杉本とは違う。
「まあいい。どちらの恋人でもいいんだが、実を言うと最近父さんのところにいろいろなところから情報が入ってな」
──なんだよ、まさかあの担任かよ。
いやな予感がする。杉本の関係する話にいいことなてひとつもないのだが。うっかり口走って墓穴を掘りたくはない。
「どうした、後ろめたいことあるのか」
面白がっているようにも聞こえる。自分のひとり息子をからかって何が楽しいのか。悪趣味だ。
「別にない。探偵つけてもらってもいいよ」
「まあ探偵さん雇っているようなもんだが。とにかくそこでひとつ頼みがある」
「なんだよ」
父はいったん口を閉じ、上総の机に寄り添って立った。目を部屋の扉に向けたまま、
「この前『おちうど』帰りにお前がご自宅まで送っていったお嬢さん、あのお嬢さんとはしばらく距離を置いたほうがいいな。いや、そうしなさい」
のんびりした口調で告げた。
──父さん何言ってるんだよ?
自分でも父の話した意味がつかめなかった。「おちうど」の帰りに自宅まで送った女子といえば杉本梨南しかいない。「おちうど」に連れて行ったことのある女子といえば確かにひとりしかいない。
机に広げた空間図形のページが鋭く突き刺さる。父が続けた。
「上総、よく考えてもらいたいんだ。お前はまだ十六歳、お嬢さんは十五歳になるかならないか。お前たちはごく普通の友だちづきあいの延長で語り合っているだけだろうし、お相手さんが他の子だったら別に何も言わない。だが、今回のお嬢さんは少し違う」
「違うって何がだよ」
思わずきつく言い返してしまう。父は落ち着いて受けた。
「それはお前も知っているだろう。今の学校から別の学校に行くためにひたすら勉強している真っ最中だしそれを邪魔してはまずいだろう」
──だから行かないってわかっているから。
邪魔しているつもりなんてない。答えはしない。そのまま教科書に目線を置く。
「それにな、こういうのもなんだがお前たちはまだまだ親の庇護にある子どもだ。文句があるならあとで言えよ。どちらにしてもお前たちが学校の外で歩いていたりすると多くの人たちから誤解を招くことだってたくさんあるんだ」
「女子と外を歩くとそれだけでかよ」
思わず口からこぼれる。父はまた慌てずに受けた。
「いろいろなケースがある。遠足や社会見学、修学旅行で肩を並べる程度ならよくあることだし大人の目が行き届いた場であればかえってそれも楽しいことだ。だが、夕方、遅くにふたりだけで人気のない道を歩くというのは感心しない。もちろんお前なりに紳士としてうちに送り届けようとしたのであれば悪いことではないが、その前にまずはタクシーなりもしくは親御さんに連絡して『おちうど』まで迎えに来てもらうとかそうすべきだったね」
「連絡してたけど。ちゃんとうちから迎えの車が来ていたようだけど」
「それは心配だから当然だ。年頃の男女が暗闇を歩いていたら、可愛いお嬢さんをお持ちのお父さんはそりゃ慌てる」
「失礼だな」
「もっともだ、お前には幸い妹がいなかったから父さんもそういう経験はせずにすんだがな」
笑い事じゃないのにけらけら父は笑った。
「どちらにしてもだ、今はとにかく勉強に専念しなさい。うるさいと思うかもしれんがな、勉強は一度社会に出るとなかなかじっくり取り組む機会がなくなるんだ。そのことを考えてな。まあちゃんと成人して所帯を持つことができるようになればいくらでも好きな子と歩いたり手をつないだりその先のこともいくらでもできる。学校の中でも仲良い友だちは男女問わずいるだろ? そういう仲間とのんびり語らったりピクニックしたりするのならどんどんしてもいいんだがな」
上総の言い返したい気持ちから逃げ出すように父は立ち上がった。
「なお、母さんには何も言っていないから安心しろよ」
父が部屋を出て行ってから上総は数学の教科書を閉じた。しっかり目も閉じた。
──期末試験が終わったら一回でけりをつけろということだな。
約束しよう。もう「外」では会わないと。
だが、学校の中は治外法権だ。やりたいようにやらせてもらう。




