25 師走の答え(2)
──人そんなに乗り込んでこないよな。
今まではそれほど弓絵さんと一緒に行動することを見られずにすんだ。学校内であれば「補習」という葵の御紋が存在するわけだし多少噂になったとしても押し切ることはできる。しかし、休日でしかも外、となると言い訳のしようがない。弓絵さんは意に介さずふたり座る席に上総と並んで座りにこにこ微笑んでいる。
──頼みますうちの学校の人に見られませんように。
祈るしかない。最悪なのは美里に見つけられることだがそれはたぶん大丈夫だろうと思いたい。まだ雪も積もっていないので自転車で行動しているだろうから。また今日は生徒会室でなにやら話を詰めている可能性だってある。このバスは青大附属のバス停を通らないのでその点は安心している。
──けど、うちの学校は四方八方から通っているからな。
一番恐ろしいのはそこで、もし誰か上総の知らない相手に見つけられようものなら次の日あたりに噂が一人歩きしてしまう可能性だってある。もちろん言い訳はできるだろう。同じ先生のところへピアノを習いに通っているだけといえばごまかしもきくかもしれない。その言葉はおそらく美里に伝わり最後には、
「だからなんで最初っから言ってくれなかったの!」
絞られることは確実。ついでにただでさえ女子受けの悪い自分のこと、
「年上の先生と不潔な関係だなんて」
とありもしない濡れ衣を着せられるかもしれない。年上好みが悪いとは言えないが、少なくとも上総に更科のような趣味は持ち合わせていない。
「上総くん、どうしたの」
「車が苦手なだけです」
小声で答える。車酔いしやすいのは事実だ。
「気分が悪くなったら言ってね。すぐ降りますから」
──だったらすぐ降りてほしいんだけど。
とはいえ、だいぶ弓絵さんとも音楽中心に共通の話題が増えてきているのも事実。心得ていてかバスの中では学校の話題など持ち出さずにレコードやピアノの練習にまつわる話ばかりしてくれる。その点はありがたいと思う。
「今まであまりピアノの曲を聴く機会がなくて、どのレコードを買えばいいかわからないんです。印條先生のおっしゃるとおりレコード店で探してみたりするんですが」
「クラシックはあまり聴かないの?」
「FMで聴くには聴きますが、どういう指揮者がいいとかオーケストラがいいとか、そういうこだわりが一切ありません。イージーミュージックだと好きな楽団もそれなりにありますが」
上総の好きなイージーミュージックの楽団をいくつか挙げると弓絵さんは我が意をいたりといった風に小さく手を叩き、
「私も大好き。いつも休みの日はレコードで聴いているの。テープに落としたほうがレコードの持ちがよいとわかっているのだけれども、やはりかすかな針の音すらもいとしいの」
「なんとなくその感覚はわかります」
テープよりもレコードの音のほうがぴんとくる、のはよくわかる。うまく言えないが身体へ響いてくる感覚が違うのだ。
──音楽感性だけは合ってるんだけどな。
「それならいいこと思いついたわ。上総くん、今度のお稽古の時、私が今まで聴いてみて気に入ったクラシックの名盤をメモして持ってくるからそれを参考にしたらどうかしら」
「あの、でも、期末も近いですし」
妙に乗り気な弓絵さんの態度に少し腰が引ける。さすがに学校でという話ではないのが救いではある。
「大丈夫よ。来週はもう期末試験終わっているでしょう」
計算が苦手な自分の性格が泣けてくる。
「私も思うのだけど、初めてかじる趣味の場合は定番から始めたほうがいいの。特にクラシック音楽のようなものは歴史の中で淘汰されているものばかりだからなおのこと。今までお話した感じですと上総くんの好みは私と近いようだからきっと気に入ると思うのよ」
「ありがとうございます。甘えさせていただきます」
息がつまりそうになりつつもかろうじて答えた。
ピアノを基点にして音楽全般に興味が出てきたのがこの二学期の収穫だった。合唱コンクール以来、クラスの吹奏楽部男子グループと交流が深まりいつのまにか自分の日常ポジションが定められている。そのつながりで疋田さんともピアノの話もできるようになりつつある。気にかかるのはあれ以来学校に姿を見せない宇津木野さんのことだが、疋田さんが直接連絡を取っている限りだと「元気そう」とのことだった。もともと音楽に関しては目のない奴らとの会話なので自然と知識も増えていく。
「中学時代は欧州のポップミュージックやあと、友だちによく頼まれてライナーノートの訳をこしらえたりとか、そういう風に触れてきました。でも本当は歌詞がないほうが自分の好みです」
「歌詞が苦手だとするとオペラにはあまり興味ないのかしら」
弓絵さんがぐいぐい突っ込んでくる。
「関心がないわけではないです。ラジオでたまに曲の端々だけ聴きます。ただ、どれがいいのか分からない感じで、演目もそんなたくさん聴いているわけではなくて」
「たとえばどういう演目を聴いたりするのかしら」
「ワーグナーとか、です」
しばらく話に花が咲き盛り上がる中、気がつけば青潟駅前のバスターミナルへ到着した。運良く青大附属関係者とすれ違うこともなくほっとした。ここで品山行きの汽車に乗ればもう安心だ。下手にかんぐられる心配もない。
上総が胸撫で下ろしつつ降車口のタラップに立った時だった。
──おい、なんで、なぜ。
甘かった。青大附属経由のバスが停まる停留所にひとり、ポニーテールの女子が立っていた。真っ白いコートにほんのり赤らんだ頬が浮かび上がっているかのよう。じっと一点だけを見つめていた。上総たちが降りようとするバスのひとつ前に位置していた。杉本が待っているであろうバスはまだ来ない。
「どうしたの、上総くん、降りましょう」
促され、全身硬直したまま上総がバスを降りると同時に杉本がこちらをじっと見た。
明らかににらんでいる。杉本の日常パターンな眼差しだ。ついでに一緒にいる弓絵さんをもまじまじと観察しているのがわかる。興味は、持っている。確実だ。
──まずいよ、まずすぎる。絶対これだと誤解されてるよ。
本来ならすぐ杉本に駆け寄るだろう。しばらく顔を合わせていなかったのだからさりげなく声をかけても不思議はないだろう。しかし、一緒にいる女性が誰なのか問われたらどう答えるべきか。嘘は言えない。もしかしたらすでに杉本も「野々村先生」としての弓絵さんを知っている可能性もある。杉本は美里とも仲良しだ。自然と伝わる。
──説明しないとな、どうすればいいんだ。
そっと振り返ると弓絵さんも上総の思惑など知ったことかとばかりにやわらかく微笑んでいる。この人の目的はどう考えても父のはずであり、まかり間違っても教え子に対して興味を持つわけがないのだが。それをどうあの杉本に説明すればいいのか語彙がみつからない。
「どうしたの?」
「いえ、あの、ではここで失礼します。送っていただきありがとうございます」
きちんと一礼をし、上総はすばやく駅に向かう横断歩道を渡ろうとした。
「上総くん、そう急がないで、あぶないわよ」
高らかに弓絵さんが呼びかけてきた。なぜ、この場で、誰もが聞こえるように。
──杉本、絶対聞いてる、どうすればいいんだいったい。
上総が自分の名前を呼ばれることについて拒絶反応を持っていることを杉本はかなり早い段階で知っているはずだ。それなのに「上総くん」などと呼ばせる相手が家族以外に存在することを杉本はどう思うのか。まずい、完全に誤解されている。杉本の視線を確認する勇気がない。
「失礼しました!」
それだけ言い捨てて上総は全力で駅まで走った。弓絵さんが帰ったあとにもし杉本がバス停で待っていたらすぐに駆け寄って言い訳しなくてはならない。どう思われていようとも誤解だけは解かないとまずい。
駅で振り返った。笑顔で手を振る弓絵さんの姿しか見えなかった。
杉本の姿はすでにバス停にはなかった。




