203氷らせた春(12)
━━しばらく待たされっぱなしなんだけどさ。
時計を何度か見直す。狩野先生が生徒相談室を出てからだいぶ経つが戻ってくる気配が全くないのはなぜなのか。
━━目的はまあ果たせたからいいのかな。
指折って数えてみる。
まず、杉本が進学した学校については殿池先生との異様な空間における説明によって把握することができた。これが一番の収穫だろう。父親の逮捕という悪夢が降りかかってきた杉本を少なくとも学校側はしっかりと守ろうとしてくれていること。青大附属のようにぽんと放り出すなんてことはない、それをを確認できれば十分だ。
次に、狩野先生ときっちり話ができたこと。どうして上総が青大附中の校舎に現れるかを予測していたのかはそれこそ第六感でしか説明できないけれども、十一月から引きずっていたしこりのようなものをこれで流すことができたのはありがたい。元々上総は狩野先生のような教師は嫌いではない。それこそ将来六年後、どこかでコーヒー飲みながら、なぜ西月さんを青大附中から追い出したのかその理由をのんびり語り合える日が来るような気がする。その頃であれば、たぶん上総と杉本との間もなんらかの決着がついているだろうから、それなりの報告はするだろう。
もちろん納得いかないところもある。杉本が出ていくよう促された理由がひとえに佐賀はるみに対する「いじめ」に集約されていることには頷けない。学校側で何度も立ち直るチャンスを与えたとは言うけれども、杉本側からしたらそれこそいやがらせにしか過ぎなかったのではないか。ただ杉本にとって、青大附属の校風が合わなかったのは認めざるを得ないので、今はなずな女学院に進んだことにほっとしているところもある。少なくとも、もう二度と、佐賀はるみには会わないですむ。これ以上杉本が「罪」を重ねないですむ。
━━あと霧島だよな。問題は。
霧島についても上総なりにいろいろ考えてはいたのだ。もちろん狩野先生は霧島の担任なので事情については深く把握しているのだろう。霧島の犯した罪をゼロにすることは残念ながらできない。上総もそれは認める。一方で霧島が退学寸前の崖っぷちにいる以上、兄貴分扱いされている自分がなにかをしなくてはならないことも覚悟している。役に立つかどうかは未知数だが。
━━でも、学校側のこしらえた台本には乗りたくないよな。
学校側は霧島をどう扱っていいか迷っている様子だ。本来であればさっさと公立中学に追い出せばいいものを、さまざまなしがらみ……グレーゾーンと狩野先生は言ったが……もあってか、とりあえずは被害者佐賀はるみと加害者霧島真を同じ学校内におかざるを得ない。杉本のように問題をたくさん押し付けて追い出すわけにはいかないのだろう。
━━霧島は狩野先生を嫌ってるけど、あれだけ心配してくれている人もそういないと思うよ。まあ俺も人のこと言えた義理じゃない。どちらにせよ、新学期の裏テーマは、霧島を無事に卒業させて、青大附高に迎え入れるかだな。あいつまで追い出されたら、それこそ佐川の思う壺だ。
佐川雅弘、その名を深く心に刻みこむ。
━━杉本の時は結局、俺がなんにもできないまま結果、ああなってしまったけれども同じ轍はもう踏まない。霧島のあの性格を叩き直すのははっきり言って今の俺には絶対無理だけど、それでもせめて、この学校で普通の生活を送らせたい。どういう修羅場がこれから待ち構えているかわからないけど。
佐川が愛しい佐賀はるみを守るために、どういう手を打ってくるのか正直読めない。霧島のしでかしたことを考えれば、彼氏の立場としたら当然だろうし上総も言い返すことができない。もし相手が新井林ならば霧島の代わりに土下座しても構わない。そのくらいの覚悟はある。だが、佐川にだけは屈するわけにはいかない。
「よお、いたかいたか、なによりだ!」
どこかで聞いたような能天気な声が扉開くと同時に響き渡った。振り向く前に激しく胃が痛み出したのは無意識の拒否反応か。肉体は正直だ。
「あ、お、お久しぶりです」
がしがしと肩を叩かれる。なんとも言えない悪夢の再現力。脇腹を押さえたいくらいだった。踏み込んできて上総の顔を覗きみつつ、
「立村、覚えているか、一年前のことだ。あの時は羽飛や清坂が死に物狂いでお前のことをかばってくれたんだ。お前と一緒に卒業したい、だからまかせてくれってな、泣きながら言ったんだぞあいつら。よかったよ、今度はやっと、お前が羽飛と清坂のふたりと同じ立場で覚悟を決めたんだな!」
━━そんなこと言ってないのに、なんだこの勘違い熱血教師は!
激しく心中罵るも、顔ひきつらせつつ微笑まざるを得ないのは相手の肩越しに狩野先生ともうひとり、白狐の化身がちょこんと顔を出していたからだった。上総の表情を全く読み取らずに勘違い熱血教師、もとい菱本先生はなおも語り続ける。頼むから扉だけは閉めてほしいと思うのだが、全く意に関せず。
「な、これでもう大丈夫だ、霧島、さっき話したことがすべてだ。もうこれから先は立村を頼っていけばいいぞ。理由はよくわかっただろ。絶対に俺はお前のことを見捨てたりしない。それは約束する、安心しろ!」
明らかにこれを他人に聞かれたらまずいんじゃないかということを、廊下に響き渡る大声でしゃべるその神経が上総には理解できない。
「扉を閉めていただけますか、菱本先生」
最優先しなくてはならない行為をまず上総は頼むことにした、狩野先生が後ろでしょんぼり突っ立っている霧島を促すようにして後ろ手で扉を閉めた。
「どのようなお話をなさったのかわかりませんが、狩野先生に僕が話したことと一緒であれば、その通りです」
とにかく一刻も早くこの暑苦しい一児の父から離れたい。ついでに霧島を引っ張り出して生徒相談室からも抜け出したい。さすがにもう狩野先生も許してくれるだろう。
「狩野先生からも聞いたぞ、つまり霧島を」
「その通りです。僕は霧島くんをどんなことあっても、青大附高に連れていきます。そのことも含めてこれから霧島くんとふたりで話をしたいので、ここで失礼してよろしいですか」
狩野先生にも目配せした。眼鏡の向こうからかすかに笑みがこぼれている。菱本先生も大きく頷き、
「よしわかった。教師の仕事はまずはここまでだ。あとは兄貴分の仕事をしっかりしてこい。それが羽飛や清坂、南雲や古川、その他いろいろな元三年B組の連中への恩返しになるんだからな。ああそれにしてもなあ、お前も成長したよ」
━━勝手にしみじみしてろ!
ポーカーフェイス、ポーカーフェイスと呟きつつそれぞれの先生に一礼し、霧島に外へ出るよう手で促した。素直に出ていく霧島を追う寸前、
「あの時は俺の許可なんて聞かないでさっさと杉本をさらっていきやがったが、ちちゃんと断り入れられるようになったんだよなあ、泣けてくるよ、まじでな、狩野先生、本当に俺は」
上総だけではなく、霧島の耳にもしっかり届く声で感慨をもらし、最後は涙声が聞こえてきた。
「立村先輩、なんですかあの、杉本先輩をさらったとおっしゃいますのは」
「知る必要ないだろそんなことは」
「いえ、さきほど、菱本先生から」
廊下をつっきり、三階の階段の踊り場でいったん足を止め霧島が上総をしっかと見た。背はほとんど同じという後輩だ。先生方の陰でうなだれていたくせに、一瞬にして勝ち誇った顔を見せるこの切り替わり。悔しいがこれが霧島の本性なのだとつくづく思う。
「立村先輩が中学三年の後半、どのような生活を送ってらしたのかを教えていただきました。よって、僕なりにすべて、立村先輩の知られたくない過去は把握しているということを、今のうちにお伝えしておきます」
人の弱味を針の先程度でも見つけたら最後、とことん高飛車にふんぞり返る。そのくせ自分の思い通りにならないと一瞬のうちにしぼんでいじけてしまう。これが霧島真という、上総の弟分なのだ。
今はただ、ひたすらに菱本先生を呪うのみ。
━━なんだよあの勘違い青春ドラマ教師、自分で霧島のことを頼むとか言っておきながら、俺が霧島に頭上がらないようなこと吹き込むなんてなに考えているんだよ! 銀河系が滅亡してもあの野郎、一生恨んでやる!




