20 葛湯をはさんで(1)
本当は振りほどいて逃げ出したかった。その場で立村先輩を階段から突き落として飛び出したかった。それができなかったのが公共の空間たるところだった。梨南が立村先輩と一緒に「あおがたいこいの家」を出た時、すでに夕暮れも終わりに近づいていた。
「もう遅いので帰ります」
「うちまで送るから、一緒に来てほしいんだ。ちゃんと杉本の家の人に俺も説明するから」
しつこく言い募る立村先輩も、自転車を押したまま全く退こうとしない。険しい顔をしているのが珍しい。いったい何をはるみに吹き込まれたのだろう。本来ならきっちり説明してやるのが義務だが、立村先輩ひとり相手では一方的になりすぎる。どうせ立村先輩は口先では信じるとか言いながら本心はきっぱり切り捨てる人なのだからしょうがない。
「佐賀さんから何を聞かれたかは存じませんが」
立村先輩の歩いていく方向に仕方なくあわせる。雑木林方向へと向かう。
「私は決して他人に迷惑をかけるようなことは一切おこなっておりません」
「わかってる」
目線を合わせず立村先輩は即答した。
「俺が話したいのはその先のことであって、事実かどうかって話はどうでもいい」
いったん立ち止まり、立村先輩がじっと梨南の横顔を見つめている。何か言いたいのならはっきりすればいい。梨南には怖いものなどなにもない。
「たぶん、杉本が知らないことももしかしたら俺が知っているかもしれないしさ」
そのまま梨南を置くようにして立村先輩はいつもの和洋折衷な和風茶房「おちうど」前へ自転車をつけた。
──何も知らないくせに。
学校祭二日目の学内演奏会でも聞かれたことをまた繰り返せというのだろうか。梨南は最低限伝えるべきことを伝えたと思うし立村先輩もある程度は把握しているはずだ。なぜ梨南がふたたびE組流しにあわねばならなかったかということや、覚悟もすでにできていること、最後の奇跡は信じていることなどなど。
──でも立村先輩は、まさか私と霧島くんが同じ教室で勉強することになることは知らなかったはず。
かろうじて菱本先生がE組を統括するらしいというところまでは伝えたが。学校祭後も立村先輩の方から一方的に梨南を訪ねてはくるけれども、ほとんどの場合霧島が割り込んできてまともに話すとなどほとんどない。たぶん、そういうことなのだろう。
「ああら、かあさくんたちお久しぶりね。奥の暖かい席が空いているからどうぞ」
いつものおかみさんに笑顔で迎えられる。二年前から立村先輩に無理やり連れ込まれるのは大抵この店なのだから梨南も完全に顔なじみの部類に入る。立村先輩にとってはいわゆる「つけ」が利く店らしいが、中学生の頃から豪勢なご身分だとあきれたこともある。いつでもまとめて清算できるように財布にはその分すべてチェックして準備しておいているがかなりの額になるはずだ。支払いはできれば梨南が青潟にいる間に請求してほしいものだ。
「今日はね、おいしい葛湯があるからそちら用意するわね。食べられないものとかは?」
「いえ、特に。ありがとうございます」
お礼を言って、案内された席に向かい合って座る。梨南は奥のソファーに腰掛けた。おかみさんの言う通り今日は人もあまりなく、ほぼふたりの貸切と考えてよさそうだ。窓辺の透かし硝子に施された草木の柄も、臙脂色のビロードカーテンも、一階だけは洋風のしつらえも。本来ならば違和感があるはずなのにこの場では品よく整っていた。
お通しの番茶が運ばれてきた。立村先輩に合わせて口をつけた。
「ではお話とはなんでしょうか」
用件を手早く済ませてほしい。口を切った。
「うん、言うけどさ。その前にもうひとつ聞いていいかな」
「端的にお願いします」
「杉本は霧島と同じ教室で勉強しているんだろ」
「わかりきっていることではありませんか」
何を今更確認しようというのだろう。立村先輩は梨南から霧島のことを探ろうとしているのだろうか。もう一口飲んだ。
「霧島くんとも、ついでに申し上げれば菱本先生とも私は良好な関係を保っております。それほど時間は経っておりませんが学びたいことが同じであれば、愚かな同学年の男子どもと交流するよりははるかに実のある時を過ごしているという実感はございます」
「あ、そうか。それならいいんだけどさ。霧島とは話すのか」
「同じ教室にいれば当たり前のことです」
最初は霧島の立場や家庭事情も考えてあまり接するつもりもなかったのだが、共通言語としての「勉強」がうまくかみ合い現在ではそれなりにディスカッションするようにはなった。そのことをかいつまんで話すと立村先輩の表情がかすかに曇った。次に届いた葛湯をむやみにスプーンでかき回しているだけ。
「あのさ、ってことはわりと話をしているということだよな?」
「テレパシーを使えませんので」
「いや、そういうわけじゃなくて、普通に、たとえばさ今俺と話しているのと同じ感覚で」
「さようでございます」
梨南もそれなりに礼儀を守ってくれる男子にはきちんとした対応をとるくらいしている。何を下らぬことを口走っているのか理解ができない。すべての男子が新井林のような「顔だけまともで中身最低」とは思っていない。もっとも霧島についてはどうしても、女子に対するこだわりが気になるところもあるし内心は梨南を敵視しているのではと思う時もある。だがそんな裏事情など知っても意味はない。もう生徒会と関わることもない。
「立村先輩が何を想像なさってらっしゃるのか存じませんが、私はむやみやたらに男子だからといって噛みつくほど礼儀知らずではございません」
湯気の立った抹茶色の葛湯を前に梨南は立村先輩を見据えた。その目にびくついている様子が伺える。ざまあみろだ。さらに目へ力を込める。
「私も霧島先輩から事情をいろいろ伺っておりましたので霧島くんに先入観があったことは事実です。場合によっては再起不能になるまで叩きのめすつもりでもありました。しかし、少なくとも彼は普通に私へ接してくれていますし、一才年下ではありますけれども立村先輩と違って知性もございます。話す内容も整理されています。今日の立村先輩のように意味もなく私を連れ出すようなこともありませんでしょう」
「いや、それは杉本の思い込みじゃないかな。霧島の奴ああ見えて」
またわけのわからないことを口走る立村先輩に苛立ってくる。早く目の前の葛湯を口にしてみたいが言うことだけ言っておかないと落ち着かない。
「立村先輩、お聞きくださいませ。私は能力のある人間を称えたいと存じます。確かに霧島くんは最初持っていた印象とは違い優れた才能のある下級生ではあります。立村先輩の能力レベルとは大違いです。しかし、残念なことに」
「何が残念なわけ?」
語尾が震えている。また何か勘違いしているのだろうか。万が一霧島に逆襲されても叩きのめすだけの力を梨南は持っているつもりだ。静かに話を続けた。
「霧島くんは残念ながら美しい外見に恵まれておりません。いわば、立村先輩と同じ弱点です」
何度も立村先輩には話していることだから理解はしてもらえるだろう。立村先輩がスプーンを落としかけた。
「もしも霧島くんがあのお方と同じ気品と外見を保っていたら、もしくは新井林程度の運動能力を持っていたら話は別かもしれません。ですが残念なことに彼の外見はインパクトがあまりにも弱く、心をときめかす人もほとんどいないのではないでしょうか。巷では勘違いした情報が流れていますし、もしあの外見が女子に与えられていたのであれば話は別ですが」
立村先輩はしばらく俯いていたが、次に顔を上げた時には重たげな陰がすっかり消えうせていた。単純明快な微笑みのみ浮かんでいる。
「そうだよな、杉本の重視点はそこだよな、あの外見なら、ありえないよな、そうか、そうか」
気持ち悪いくらい軽やかな口調で立村先輩は梨南へ促した。
「葛湯おいしいよ。全然だまになっていないから、早く食べたほうがいい。それとあと何か頼もうか? 杉本の食べたいもの、何でも言ってくれれば」
──ご自身がおなかすいているだけなのね。
やたらと気持ちが高揚しているのは相当腹がすいているからだろう。立村先輩のために、梨南は酒饅頭をリクエストしておいた。




