2 まどろみの音色
オーケストラやオペラには父に連れられて出かけることがある。最近はその回数もめっきり減ったけれども。それなりに音楽を聴くための耳は持っているつもりだった。
──立村先輩は、聴いているのかしら。
そっと横目で様子を覗き見る。薄暗い客席で自分たちを遠巻きにするような感じでみな座っている。側にいるのは立村先輩だけだった。表情までは伺えないが、背を伸ばし、膝に鞄を置いて身動きせずに耳を傾けているようだ。一曲目の「月光」が終わりその後数曲続いたが、特に感銘を受ける演奏はなかった。
──上手な人がいないのかもしれない。この学校には。
義務的に拍手はする。しかし平坦な音が立て続けに流れるのみで身体が少しだるい。
──立村先輩はどう思っているのかしら。
あとで灯りがついたら聞いてみようと思った。
高校の合唱コンクールが終わるまで立村先輩とほとんど話す機会もなく、唯一顔を合わせた古川先輩宅でのひと時のみ。その後も今度は梨南のほうでいろいろと進路慌ただしくすれ違うことが多かった。こちらから無理に会うこともないし、立村先輩が特に訪ねてこなければそれまでのこと。中学三年の秋はそれなりに片付けるべきことも溢れているというわけだ。
こうやってふたりきりで席に座ることによりまた誤解が周囲に生じるのだろう。わかっている。
──やっぱり杉本さんには、青大附中評議委員会を壊滅させた立村先輩のような無能人間が向いているのよ。自覚しろって感じよね。
陰で囁く声を何度も聴く。最初は梨南をせせら笑っている方面から。最近は以前仲良く話をしてくれた女子たちからも。言葉は柔らかいにせよ同じ意味合いだった。
──立村先輩は杉本さんのことが好きだから、元の彼女である清坂先輩と別れたんだよね。あんなに大切にしてくれるのなら杉本さんも諦めて立村先輩と付き合えばいいのに。もちろんプライドだってあるだろうけどそれが現実なんだから。
現実、そんなものに押し流されたくはない。
何がプライドだ。何が諦めてだ。
梨南はそこまで自分を価値がないと思ってはいないつもりだ。
隣りの立村先輩を、椅子に持たれたままもう一度見る。やはり頭が重い。背を伸ばしてきっちりと聴くのが義務だとはわかっていても、身体が言うことを聞いてくれない。
──合唱コンクールではいろいろな事件が起こったみたいだけど詳しいことを立村先輩はひとことも話してくれない。私も特に話すことはないし。そういう間柄なだけなのになぜ周囲の人たちは勝手にくっつけようとするのかしら。
「トッカータとフーガ」を弾く生徒がいる。この曲は梨南も好きだ。立村先輩もバロック音楽が好みだと話していたことがある。黙って聴き入る。チェンバロで演奏されたものをいつか生で聴けたらいいなと思う。
梨南は額に手をおいた。熱はない。風邪を引いているわけではない。ただただ、身体がだるいだけ。少しだけ力を抜いてもたれよう。少しだけまぶたを閉じよう。ほんの一瞬だ、闇だから誰にも気づかれないはずだ。
学校祭の前に行われた実力テストも一位で通過している。次点の新井林には三十点近く総合点で差をつけているはずだ。直接確認したわけではないけれども噂ではそういうことらしい。それほど力を入れて勉強したわけではないのにとは思う。
──本当なら、学校外の模擬試験もっと受けなくちゃいけないのに。
その予定も現在はない。去年の段階ではちゃんと梨南なりに公立高校受験計画を立てていた。毎月一回の学校外模擬試験の予定も組み込んでいた。しかしそれすら今は申し込むことすら許されない。
目を閉じたまま梨南は頭の中のカレンダーをめくった。学校祭が終われば附属高校進学に伴う三者面談が行われる。実際はこの前の実力試験が内部進学の有無を決める試金石とされていて、本来であれば梨南は余裕で合格出来るはずだった。それこそ文句言わせずに希望さえすれば英語科進学も可能だろう。内部進学ができない生徒はほとんどいないはずだが毎年数名、諸事情により他高校に進む人もいる。去年であれば霧島先輩や西月先輩、直接の面識はないが奈良岡先輩、水口先輩など。理由はさまざまだ。将来の夢に向かって進むためという人もいれば、学力足りずとか学内で傷害事件を起こしたためとか。
──まだわからない。状況が変わることもあるし。
ショパンの「華麗なる円舞曲」が演奏されている。もっと楽しいことを考えたい。目を堅くつぶった。
──公立高校受験願書提出日は二月十五日だったはず。それまでに奇跡が起こる可能性だってある。絶対に、起こして見せる。誰にも文句を言わせない成績をおさめてみせる。
何を言われようと、馬鹿にされようとも。そして、
──合格した暁にはあの方のもとへ。
するりと力が抜けていった。軽やかなショパンの調べに梨南は凛々しきかの人の横顔を思い浮かべようとした。その温もりはいつか自分に届くはずと信じていた。いつか、こうやってワーグナーの「ローエングリン」に聴き入りながらそっと微笑み合うはずだった。たぶん、吐息が近いくらいにこうやって。
「杉本、終わったよ」
邪魔された。聞きたくなかった。男臭くない柔らかさのある声だった。休憩だろうか。いつのまにかまどろんでいたのだろうか。身を起こす前にまっすぐ見下ろしている立村先輩と目が合った。怒ってはいなくてただ穏やかに微笑んでいるのみ。席の周辺を見渡すと、それぞれがグループを作ってわやわやと盛り上がっている様子のみ聞こえる。橙色の灯りに照らされて、立村先輩と梨南のみ離れ小島のようだった。
「立村先輩、あの」
「疲れてたんだろう」
優しく囁く。全く美意識を感じさせない痩せこけた顔に不釣り合いな穏やかな微笑みが浮かんでいる。
「休憩ですか」
「いや、全曲終わったってこと」
「それはどうして」
通路でちらりと梨南たちを見やる観客はいたけれども声をかける人は誰もいない。立村先輩は鞄を縦にかかえてさらに語りかけてきた。
「気持ちよさそうに寝てたから、起こすのもまずいかなと思って」
「私が、寝てた?」
まさか、ほんの一瞬だったはずだ。音楽会で居眠りしてしまうなんてことは音楽を愛するものとして決して許されざること。演奏者に対しての侮辱でしかない。絶対にそんなことをするわけがない。梨南は首を振った。
「いえ、私は少しだけ背に持たれただけです。居眠りなど」
「いいよ、もう起きてるから。とりあえずここを出ようか」
理詰めで説得するでもなく立村先輩は立ち上がり、そっと呼びかけた。
「うちまで送るよ。もうだいぶ暗いし、杉本の家は俺もだいたいわかるから」
「立村先輩今日は自転車でいらっしゃったのではないのですか」
「そうだよ。歩いて押してけばいいことだしさ」
梨南が立ち上がりショールをはおろうとした時、膝から何かが転げ落ちた。
「ほら、これ忘れるなよ」
拾った立村先輩から改めて手渡された。小さな箱入りのキャラメルの箱だった。さっき無理やり押し付けられたもの。押し返すか迷っているうちに立村先輩は、
「持って帰ればいいだろ。もう飲食禁止の場所出るし」
決して受け取らないという意思表示として梨南に背を向けた。振り返り、
「少し遠回りして帰ってもいいかな」
遠慮がちにまた尋ねた。立村先輩の眼差しがほんのわずか潤んでいるように見えて思わず梨南は頷いてしまった。