16 学び舎それぞれ(4)
はるみが戻ってくるまでの間、桜田さんとの言い合いがいつまで経っても終わらないまま時は過ぎた。
「りんりん! あっこ! あんたたちまさかこいつらの口車に乗せられたなんていうんじゃないでしょうね! そりゃ私だってこの二ヶ月、学校祭とかいろいろ忙しくて連絡取れなかったけど、いくらなんでもそりゃないよね!」
「ごめん、愛子、ごめん」
「何なの先生!」
「愛子、少し落ち着こうや。まず飲もうこれ」
またそこでみよしさんの母が茶を汲む。口をつけようとしないのは梨南と一緒だ。
「愛子ちゃん、説明聞いてくれれば絶対わかるはず、だから、お願い、みよしの話を聞いてちょうだい」
「そうやってまた私と杉本さんの間を邪魔しようっていうの? 悪いけど過去があるからって言ってすべて私たちがまた悪いことするんじゃないかって先入観よしてよね」
「愛子ちゃん、違うの、お願い、聞いて! 夏休み終わってからもう私たちも、凛子ちゃんも、晶子ちゃんも変わったの。知らないのは愛子ちゃんだけなの」
泣きそうな声で訴え続けるみよしさんを冷ややかに見つめつつ梨南は足を崩さずにいた。それにしてもはるみは遅い。手洗いに行ったにしては時間がかかり過ぎている。
「あのね、私、お母さんから愛子ちゃんがふたりのために一生懸命勉強を教えようとしているんだってこと聞いて、今ならまだ小学校時代と同じく仲良しに戻れるんじゃないかって思ったの! 一緒に修学旅行、夜いっぱいおしゃべりしたよね? 卒業式に書いてもらったサイン帳、いまでも持ってる。あの時愛子ちゃん、私のことを一生の友だち大好きだって書いてくれたよね! そうだよ、ほんとに!」
──しらじらしいことで泣き落とそうとするつもりかしら。
梨南のもっとも嫌いなバターンではある。こんな見え透いた嘘を見抜けないほど愚かな桜田さんではない。やはり桜田さんは反撃してくれた。
「あんなのとっくに捨てたわよ。ご愁傷さま! 悪いけど三年経てば考え方もがらっと変わるの。聞いてるでしょ、私が捕まったってこと。りんりんやあっこはかわいそうなことになったけど私は証拠がなくてこうやってのうのうとしてる。けどね、似たようなことしてる私を軽蔑してたくせにねえ」
──あなたは偉い。
大まかな事情は桜田さんから聞いている。凛子さんと晶子さん、そして桜田さんは中学一年から二年にかけて青潟駅裏でいわゆる「女子中学生売春」に近いことをおこなっていたという。奇麗事ではなくそれは事実で、実際行為は存在したとも言う。ラブホテルの中とかお風呂の独特な使い方についても梨南は話を聞かせてもらった。濡れ衣ではなく事実ではある。この点が梨南の修学旅行おねしょ濡れ衣事件とは違う。
他の生徒たちが色眼鏡で見る中、梨南は偶然桜田さんと話をする機会を得た。凛子さんと晶子さんが青大附中まで桜田さんを追いかけてきたときにいろいろあったのだ。そう、その時にはるみも一枚かんでいて、結局梨南は桜田さんと意気投合したきっかけを得た。学校を追い出される優等生と、教える能力抜群にも関わらず中学生売春の過去を持つ不良と。なかなかの組み合わせだが、梨南からすると別に驚くことではない。裏の全くない素直な桜田さんは梨南の言葉を「おもしろーい」とか「いいこと言ってる」とかあっさりと肯定してくれる。梨南からすると桜田さんは、過去に警察のごやっかいになったかもしれないが人に教えたり喜ばせたりといったことが大好きな心地よい女子だ。
──決して彼女は私を裏切ったりしない。
「いい? みよしと友だちだったことはあったよ。それは認めるさ。けどね今の友だちは杉本さんなの。なんでこの子が好きなのかはりんりんとあっこに聞けばわかるよ。杉本さんはね、全身全霊で私のことを信じてくれてるの。あんたたちみたいに私がいろいろな噂に巻き込まれていても全く態度変えないで友だちでいてくれてるの。それがどんなにすごいことかわかるよねえ。おっさんたちとエッチな場所行ったなんてねえ、聞いた時のあんたたちの顔見たらねえ」
「愛子、落ち着くんだ。ほらほら、ふたりとも勉強始めようか」
見るとまだ勉強も何も初めていない様子だ。何のためにここに来たのかわからない。駒方先生に梨南は声をかけた。
「先生、よろしいでしょうか」
「どうした梨南」
「本日の目的はおふたりの勉強をお手伝いすることではありませんか。こんなくだらないことを言いあっているうちに公立高校受験は迫ってきているのです。受験日は三月六日です」
駒方先生が何かを言いたげに口を開こうとするが、梨南はためらうことなく遮った。
「私が思うに、すぐに勉強を始めたらいかがでしょうか。今の時期必要なのは公立高校受験のための過去問題五年分のはずです。それをとことん解き直すことが必要なのではありませんか」
「梨南、それはそうなんだがな。実はそれよりももっと大切なことがあるんだよ」
そこまで駒方先生が梨南の側にきて語りかけると同時に、みよしさんのお母さんが梨南の脇においてある茶碗を回収し新しくお茶を入れなおし、そっと置いた。
「あのね、杉本さん、だったっけ?」
親のくせにずいぶん子どもっぽい言い方をする人だ。にらみつけた。
「その通りです」
「みんな興奮しちゃってて話が飲み込めないかもしれないんだけど実はね」
片手で自分の娘に落ち着くように合図をし、すっかり萎縮している凛子さんと晶子さんに対しても指で制し、駒方先生には何度も頷いてから、
「この二ヶ月、私たちが出来ることないかって一生懸命考えてたの。青大附中の先生たちと、みよしと、凛子ちゃん晶子ちゃんの担任の先生と、それから、はるみちゃんと」
「失礼ですが」
梨南は尋ね返した。最大の謎をここで問いたかった。
「なぜ佐賀はるみさんがここにいらっしゃるのですか。彼女との接点がどこから生まれたのかがわかりませんが」
「実はね、梨南」
駒方先生は梨南と同じ目線に胡坐をかいて座り、
「はるみは、春から梨南のことをものすごく心配していたんだよ。知らなかっただろ?」
「それはありえません」
きっぱり言い返した。断言できる内容だ。
「私は彼女と友人関係を持っておりません」
「違うんだよ梨南」
何か言いたげなみよしさんを制しつつ、穏やかな口調で、
「はるみはね、勘違いしていたんだ。梨南と愛子が仲良しになったのを見て、もしかしたら路を踏み外すんじゃなかろうかとね。実は全然そんなことはなく愛子のあったかい性格を知ることになったわけなんだが、いろいろはるみも考えたらしいんだよ。梨南のためにしてあげられることはないか、同時に愛子や、おふたりさんや、みよしさん、その他たくさんの人がみんな笑顔になる方法はないかとね」
「そんな大げさなことをしたことはございません。佐賀さんがなぜここに来る必要があるのでしょう。私と桜田さんはただ、仲良く勉強を教え合おうとしていただけですが」
「はるみはそれを代わりに、みよしさんと一緒にやろうと提案したんだよ」
──どういうこと?
桜田さんと顔を見合わせた。嘘ではない、初耳、聞いてない。そう言いたげな表情を浮かべている。首を激しく振っている。だが凛子さんと晶子さんは静かに俯き、みよしさんとその母が勝ち誇ったように微笑みを浮かべている。
「そうなの、杉本さん。実はね」
またあまったるい声でみよしさんのお母さんは続けた。
「夏休みの終わりにオリジナル教科書を作るという提案があったでしょう? あの方法は愛子ちゃんと杉本さんの提案だと聞いたけど少し難しすぎたようなの。だからみよしと、はるみちゃんと一緒に相談してせっかくだったらみんなでやろうよってことで、今うちの中学でどんどん進めてるの」
「うちの、中学で、進める?」
問い返すと今度はみよしさんが口角を無理やり上げて説明しだした。ただし梨南ではなく桜田さんに向かって。
「そうなの。愛子ちゃんが作った教科書、漫画の『舞姫』とか理科の漫画とか、小学校の時の愛子ちゃんとおんなじく、面白かったよ。私、あれ見て愛子ちゃん、絶対不良になんか染まってないって思ったもん! 私、愛子ちゃんと一緒にやりたい。そう思ったけど愛子ちゃんは私よりもあの、その」
「杉本さんが愛子ちゃんと一生懸命勉強を教えてあげてるのはわかるのよ。でもね」
みよしさんのお母さんの目は笑っていなかった。攻撃波が届いた。
「これは、同じ学校にいるみよしが代わりにやってあげたいことなの。離れたところにいる杉本さんの手をわずらわせなくても、みよしなら愛子ちゃんの手伝いがきっとできるし、きっと誤解も溶けるはずよ。それに、杉本さん、あなたも本当であればはるみちゃんみたいにいい子が」
──このままだと刺すかもしれない。
先のとがったものは見当たらないがシャープペンシルはかばんの筆箱に入っている。
身体中の力を自分の瞳にこめて、その力を放射した。届くわけなんてなくても、打ち抜きたかった。この瞬間、目に見えない力でもって喉を切り裂き血まみれにしてやりたい。そっと手を握り締めた。
襖が静かに開く音がした。
「梨南ちゃん、荷物を持ってきてほしいの」
入り口にはるみがスリッパのまま立っていた。
「あんたに呼ばれる筋合いはないわ」
「とにかく、来てちょうだい」
有無を言わさぬ口調だった。コートを抱えかばんを持ち、そのまま入り口に向かった。言いたいことがあるのだろう。言えばいい。スリッパにはきかえようとした時、前に回ったはるみが後ろ手でぴしゃりと戸を閉めた。
「何したいの」
「梨南ちゃん、今日のところはお願いだから帰って」
「あんたに命令される筋合いも」
「あるの、お願い。今日なんで梨南ちゃんを呼ばなかったのかはあとで説明します。けれど今必要なのは、桜田さんとみよしちゃんとをとことん話し合わせることなの。梨南ちゃんははっきり言って、じゃまなの」
きっぱりはるみは言い切り、そのまま梨南の腕を強引に引っ張った。そのまま引きずるように階段へと連れて行き降りるよう命令した。
「降りて」
「挨拶もしないで、失礼なことはできないわ」
「いいの。私がきちんと片付けます。梨南ちゃんには今、一番話をしなくてはならない相手がいるの。だからすぐに降りてちょうだい。降りなかったら私が引き摺り下ろします」
はるみは両手を腰にあて、梨南を凛とした眼差しで見据えた。
「あとできちんと、私とも話をしましょう」
絶対に降りはしない。そう発しようとした時、誰かが階段を上がってくるのが見えた。身体がこわばった。はるみがふっと微笑みを浮かべた。
「先ほどお話したとおりです。梨南ちゃんを、よろしくお願いします」
振り返った階段の踊り場には、立村先輩がコートを羽織ったまま立っていた。何かを答えるでもなくただはるみを見上げ、次に梨南へ呼びかけるのが聞こえた。
「杉本、行こう」
見送るしかなかった。一礼して去ったはるみを目で追う梨南の側に立村先輩はそっと昇ってきて、耳元でささやいた。
「これから『おちうど』に行こう」




