16 学び舎それぞれ(3)
はるみの名前だけではなかった。桜田さんも名前の部分をもう一人指差して、
「もしかしてみよしも来てるの?」
顔を思わず見合わせた。「みよし」とは桜田さんの中学時代の友人だった。「だった」と過去形にしたのは桜田さんの語った事情からして当然だ。許せない事情がさまざまあり、それは梨南とはるみとの関係によく似ているという。
「そうね」
「ふざけるんじゃないわよね。何よあのいい子ぶりっこ! なあにが親友よ、なあにが助けたいよ。ちょっと待って、私追っ払ってくるから」
「私も行きます」
「ありがと」
短くやり取りをし、ふたりで階段を昇っていった。部屋は最奥の和室と先ほど説明されている。古い日本家屋の香りする廊下を並んで歩くと詩吟をうなる声など聞こえてくる。
「ひとつ気になったのだけど」
「なに?」
「私は何も知らされていないのだけど。伝えてもいいと先生たちには言われたの?」
桜田さんは一瞬立ち止まった。目をぐるぐるさせた。
「言われてないなあそういえば」
「では私は来るべきではなかったのかしら」
「そんなわけない!」
力強く桜田さんは言い切った。
「当たり前。駒方先生少しぼけてるだけに決まってる。杉本さんを呼ばないなんてありえない!」
「でも、私に伝えてとは言われなかったのよね?」
しつこく確認した。決して桜田さんを信用していないわけではないのだが実際梨南は駒方先生からも萩野先生からも話を聞いていない。桜田さんが連絡きたことを嬉々として梨南に伝えてくれて手を取り合い喜び合ったのみのこと。ただ、梨南が裏付けをとっていないのもまた事実ではある。
「厳密に言えばそうかもしれないけど、でも、絶対にそんなことない! 杉本さんがりんりん、あっこのことをかばってくれて、それで私たちの味方になってくれてってこと先生たちが知らないわけないよ。あのばかダーリンやほらあの評議委員長も」
「誤解を招くわ」
なぜ先生たちが立村先輩たちまで呼び寄せて夏休み終わりの模擬授業を見せつけようとしたのだろう。判断が難しいけれども少なくとも梨南の味方になるためとは思っていない。実際二ヶ月間梨南は凛子さんと晶子さんとの接触を断られている。今になってなぜ、と思わなくもない。梨南の進路が決まったから、安心して残りの時間を人の手伝いに回せばいいとでも思っていたのだろうか。
「遅くなりましたあ」
桜田さんが襖を開いた。同時に立ち止まった。
「あんたたち、なんでそこに来てるのよ!」
目の前でテーブルを並べ顔をつき合わせているのは駒方先生率いるふたりの女子、「りんりん」と「あっこ」。そして梨南のよく知る一人、まあふたりは、
「みよし、あんた何の用よ!」
まっすぐ怒鳴った声が廊下に響き渡った。同時にみよしさんのお母さんがきりりと制した。何度か顔を合わせて事のある、因縁の相手だ。・
「愛子ちゃんいらっしゃい。それと、杉本さん?」
疑問形でいぶかしげに梨南を見やった。明らかに梨南の読みが当たっていたのだろう。駒方先生も慌てて作り笑顔をこしらえて、
「おお、愛子に、梨南も来たのかい」
「お邪魔でしたでしょうか」
はっきり梨南も切り替えした。
「桜田さんより勉強会をこちらで再開できると伺いましたので当然私も一緒と思いましたが。確かに私はお声がけいただいてませんでした」
「ああ、梨南にはあとでいろいろと相談しようと思っていたんだよ。遅くなってごめんなあ。ほら、ふたりとも座りなさい。お茶でも飲むかい」
「いえ結構です」
すでに茶碗と急須が用意されている。茶葉を入れて新しくポットから継ぎ足そうとしているみよしさんのお母さんをにらみつけ、もう一度梨南は断った。
「やはり用がないようですので失礼します」
「梨南ちゃん、失礼よ」
すぐに声が飛んだ。目の前で耳の上にお団子をそれぞれこしらえて、おかっぱ髪のみよしさんと一緒に座っているはるみがすっと立ち上がった。
「今日、梨南ちゃんに声をかけなかったのは理由があったの。桜田さんとだけ話をする用事があったからなの。でも来ちゃったからにはしかたないわ」
「あんたにそんなこと命令される筋合いなんてない」
なぜ授業が終わるや否やここですでに勉強の準備などしているのだろう。肝心のりんりんとあっこ、梨南は凛子さんと晶子さんと呼んでいるふたり……はしゅんとおとなしく正座して座っている。桜田さんをちろっと見て身の置き場なさそうに縮こまっている。このふたりも犠牲者である可能性が高い。
「そうなんだよ、梨南、今日ばかりはなどうしても愛子とみよしさんのために時間が欲しくてな。梨南が心配してくれるのは申し訳ないんだがちょっと相談したかったんだよ」
「用事がないようであれば私は帰ります」
桜田さんも同時に立ち上がった。
「私も悪いけど。私、狩野先生から聞いてませんから。杉本さんには内緒で来てくださいなんてひとっことも聞いてないし」
「ごめんごめん、私も悪かったよ」
あわてて駒方先生が割り込もうとするのを、今度ははるみが静かに留めた。
「梨南ちゃんに、私の方から一通り説明させていただけますか先生。それとお願いなんですけど時間がもったいないのでみよしさん、は」
目と目でおかっぱ頭の彼女と目配せした。梨南もこのみよしさんと会うのは今回が初めてだが、見た感じ桜田さんの友だちとしては異質に思えた。少なくとも一緒に売春ごっこをしようとたくらむタイプではない。
みよしさんは頷いてすぐ、桜田さんに近づいた。
「愛子ちゃん、こっちに来て。私どうしても今日愛子ちゃんと話、したかったの。だからこうやってみんなに頼んできてもらったの。いつも愛子ちゃん、あの、あの子と」
ちらと梨南を見やる。明らかに敵視している眼差しだ。こちらも相手にする気はない。同時にはるみと顔を突合せるつもりもない。
「杉本さんのことをまたあの生徒会長と馬鹿にし合ってたってわけね。あんたのやりそうなことよね」
吐き出すように桜田さんはつぶやいた。目線で梨南に勇気付けの細い糸を送ってくれているのがわかる。
「あんたのお母さんにも話したことだけど、私は単純に、りんりんとあっこを応援したいだけ。杉本さんが手伝ってくれただけ。それをなんであんたたちに邪魔されなくちゃいけないのよ。それと佐賀さん、あんたも」
すごんでいる。パーマのかかった髪をふわふわさせてはるみにも対峙した。
「杉本さんをさんざん馬鹿にしておいて、嘘八百擦り付けておくだけでは満足できなくて、今度は私たちがしているまじめな仕事を邪魔しに来たってこと? ふざけるのもたいがいにしなさいよ!」
「愛子、違うんだ、よくよく話を聞いてほしいんだ。それとはるみも座りなさい。梨南も、ほら、おいしいお茶が入ったよ。ここの番茶はね香ばしいからね」
わざとらしい笑顔を貼り付けて、みよしさんのお母さんが茶碗をよこした。受け取った指先にはちりちりと痛いくらいの熱さが伝わってきた。はるみも梨南を静かに見つめて、
「今まで梨南ちゃんがいない間に起こったこと、すべて話すわ。だからここに座ってて」
座布団を押入れから出して進めるといったん襖を開けて外に出て行った。
──やはり、この二ヶ月間の間に何かが起きている。
気にはなっていたのだ。二ヶ月間一切接触を禁じられた以上梨南も身動きが取れなかったのは事実だし、その間の凛子さん、晶子さんの勉強の状況が進んでいるかも気になっていた。桜田さんは同じ小学校出身ということもあってそれなりに連絡を取り合おうとしていたようだが、いかんせん中学生売春事件に絡んだ仲間内ということもあってそれも難しい状態だったようだ。今になっていきなりなぜ、とは思っていたのだが、よりによってはるみまで絡んでいるとは思わなかった。
──自分のことだけで精一杯だったのがやはりいけかなったのね。
取り返しのつかない二ヶ月の不在。梨南は畳に正座した。座布団には手を触れずにいた。




