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10 新生E組(2)

 悠々と授業準備を進める霧島を横目に梨南もノートを読み直すことに没頭した。去年の段階で中学のカリキュラムはほとんど終えていて、今年からは高校の授業を特別なテキスト利用の上で勉強している。青大附属の場合法的に「飛び級」は認められないが個人の意志として学ぶ分には消極的ならがらも奨励はしている形式を取っている。裏を返せば問題を起こす生徒を隔離する言い訳にもなるというわけだ。

 ──それにしてもなぜ。

 確認しなくてはならない。霧島の件しかり、今後の授業カリキュラムについても。

 梨南はじっと唇を噛んだ。血の味が広がりそうなほどかりかりと。


「よお、おっはよー!」

 ふたりきりの教室を一気にかき回すような声が扉から響いた。白いポロシャツに栗色のジャケットを羽織った菱本先生が現れたのはそれからまもなくだった。

「全員揃ってるな、よっしよし」

 初対面なのにずいぶんと慣れた態度だ。様子を伺うでもない。霧島が戸口できちんと背を伸ばしている。梨南も立ち上がりちらと確認して、一礼した。

「起立礼着席がいらないんだよな、そうだそうだ」

 にこやかな態度を崩さない菱本先生、手提げに重たげな本やプリントを詰込んできている。教卓に音立てて載せた後、

「ええとだ、もうふたりとも分かっているとは思うんだが、今日から来年までの半年近くこの教室でしっかりと特別な授業を続けていくことになった。菱本守と申します」

 少しおちゃらけるように頭を下げた。梨南も霧島も席についたままそれに倣った。

「それで杉本梨南、霧島真、おふたりにはこれから他の生徒たちとは数段レベルの違う勉強に没頭してもらうことになるわけなんだが、覚悟はいいかな?」

「覚悟は最初からしておりますがなにか」

 梨南なりにきちんと答えておく必要がある。菱本先生といえばつい最近まで女子の間でも人気の高い社会科教師で見るからに男前、去年の秋に結婚しすでに一児の父でもある。梨南の知る限り同級生で菱本先生に失恋した女子も数多く、子持ちでありながら本気の手作りバレンタインデーのチョコを渡した生徒も数名知っている。

 菱本先生は教壇から降りて梨南を面白そうに眺めた。

「そうか、そうだよなあ。杉本はこれから特別カリキュラムで勉強していくということをご家族から聞いているんだよな。大丈夫、わかってるよ。それと、霧島、君も」

 ここで少し間を置いた。霧島が高らかに告げる。

「はい、僕も出来るだけ早く高いレベルの勉強に勤しみたいと以前より考えておりました。特別な塾に通う以外方法はないのではとあきらめておりましたが、このような機会があるのであればぜひ参加したいと考えた次第です」

「そうか。ふたりとも勉強については熱心だし、さらに上を目指したいという気持ちはよくわかる。偉いぞ」

 さらりと褒め、さらに、

「まあ体育や理科の実験、技術家庭など全員参加の授業もあるからすべてこの教室で賄うわけにはいかないが、少なくとも五教科はここで徹底して学べる形式を取ることになるんだ。クラスメートがいなくて寂しいだろうががんばろうな」

「私はかえってせいせいします。集中できるのはよいことです」

 これも誤解されないように伝えておくべきだと思った。梨南なりに昨年ずっとE組流しにあった以上きちんと説明しておかないと誤解を招く。

「私は去年、同様の授業を受けましたが全く成績には影響を受けずにすみました。クラスで集団授業を受けることが望ましい人もいるかもしれませんが私には不要です。本とテキストさえあれば十分です」

「僕も同意です」

 含みを持たせ霧島も答えた。

「杉本、霧島、ふたりともやる気が万全なのは教師の俺としてもありがたい限りなんだがな、まずは今日先に、俺の話も聞いてやってくれないか」

 椅子を梨南の隣りから一脚引っ張り出して、霧島に向かい、

「お前もちょっと、もっと近くに来てくれないか。寒いだろ戸口だと」

 呼びかけた。霧島も最初は嫌そうな顔をしたが梨南の斜め後ろに席を替えた。

「勉強についてはこれからふたりのご両親とも相談してじっくり話し合うことになるんだがな。できたら俺としてはもっと別の話もできたらいいと思っている」

 ──駒方先生と似たようなことなのかしら。

 梨南はそっと気合を入れた。菱本先生はまだ下の名前で呼ばないだけ気を遣ってくれているのかもしれない。


「今回、俺がなぜ、お前たち専属のE組担当になったかの経緯なんだがな」

 穏やかに、それでも熱く、菱本先生は語り続けた。

「うちの学校はこういったらなんだが青潟でも成績優秀な生徒が集まってきているということになっている。文句があるかもしれないが、まずはそういうことになっている」

 霧島がかすかに顔をしかめるのが見えた。

「さまざまな個性の生徒たちが集まっている以上、それぞれの求めるものもどんどん変わってくる。杉本と霧島のように、もっと高いレベルの勉強を早くやりたいという生徒も実は昔からたくさんいたんだ」

 ──そんなの聞いたことがない。

「そう驚くな杉本。そうなんだよ。俺がここの生徒だった時からそういう奴はいたんだ。だが最大公約数とどうしても合わせなくてはならない以上それはあきらめてもらうしかなかった。もしくは自分で塾に通ってもらうかだ」

「僕もそのつもりでした」

 霧島が答える。菱本先生が笑顔で受け答える。

「最近になり少しずつ変わってきていて、たとえば特定の科目がずば抜けてよい成績の生徒は特別授業を大学で受けさせてもらえるようになってきている。単位にはならないが、趣味の範疇で、ということにはなるな」

 ──立村先輩のように。

 ちらりと菱本先生は梨南と霧島の顔を見つめ、言葉をつないだ。

「まだ日本の教育制度は発展途上だし、本来であれば諸外国のように飛び級も考えねばならない時も来ているのではと俺は思う。だが、勉強とプラスアルファで友だちとの交流やイベント、ほら学校祭とか球技大会とかいろいろあるだろ? ああいうのもものすごく大切だということも、分かってもらえるよな。霧島は立場上感じるだろう?」

 今年の学校祭では体育館で民族衣装をそろえて多くの人たちにまとってもらったり写真撮影をしたりと、かなり評判のよいイベントを行い生徒会メインで仕切った。梨南は一切参加していないけれども、いろいろな意味で盛り上がったとは聞いている。

「その通りと申し上げたいのですが、僕個人からするともっと別の方法があったのではとも思いますね」

 つんととがった口調は、反発の印か。

「ほう、どんなんだよ」

「中学だけでは広がりがありませんので、できれば高校、大学の諸先輩たちも含めて盛り上がるイベントにすればよかったのはと思います。中学だけで完結しているのはどうも物足りなく感じました。衣装にしても規律委員のみなさまがかなりがんばってくれましたが生地のレベルや衣装の着こなしなど、物足りなさが残ります。レベルの高いものを作るうえでは上級生の方々のお力も借りる必要があり、それは縦でのつながりも求められることではないでしょうかと」

 言っている意味がわかりづらいが、要するに中学の生徒だけで盛り上がるのではなく同じイベントを高校・大学共同で行いたいということなのだろう。わからなくもない。梨南から見たらどれもしょせん仮装大会に過ぎない。それをレベルアップするためには上級生たちの知識やそれにともなうネットワークが必要というのも理解できる。同時にクラス内という枠の中で縮こまるのはもっとむなしい。息苦しい。ゆえに菱本先生の言うクラスの団結など笑止千万といったところなのだろう。梨南も本来であれば賛成したいところだ。

「そうか、なるほどな。確かにうちの学校は中・高・大学と学校文化がまるっきり違うからなあ。お前らも高校の先輩たちから聞いているかもしれないが、高校は少し自由度が下がっていて委員会も今ののりではしづらくなっているのはわかっているよな?」

 梨南は首をはっきり振り、菱本先生をにらみつけた。

「いいえ、違います」

「ほうどうした杉本」

 同じことを担任だった桧山先生にすればまた上から見下げるような格好でねめつけられるのだろうが、菱本先生はずいぶんと器が大きい。どんと構えて膝を打った。

「ぜひ聞かせてもらいたいなあ」

 

「学校祭のお話が出てまいりましたが私も今回、高校の先輩たちに協力を依頼されました。あくまでも個人的なルートでございます」

 笑いをこらえるような表情なのがいらだたしいが、菱本先生は前かがみになりふむふむと聞き入っている様子だ。

「杉本は今年も、来賓用の喫茶店でお手伝いしてくれたんだよなあ。それ以外にも仕事してたのか? 聞きたいぞ」

「はい。厳密には私ではなく友人ですが、高校の規律委員会で学校祭にて『幻の制服』なるものをアピールすることになり、それに活用するためのマスコットを作る必要が出てまいりました」

「ああ、聞いたぞ。確か、青大附高で一時期候補に挙がったと言われる制服を規律委員が何名か着てアピールしつつ、制服をきちんと着ることの美しさを伝えていこうとする企画だな。規律委員会にしてはずいぶんと大胆な企画だったらしいが大成功したようだぞ。そうか、杉本もそれに関わっていたのか」

「はい、友人のお知り合いが規律委員の方で、そのフェルト製マスコットを短期間で大量にこしらえる必要がありました。その企画自体がかなり押し迫った時期に立ち上がったとのことで、ぜひ私たち後輩の力を借りたいとのご丁寧な依頼でした」

 霧島の目つきが険しい。いやな予感がするがさらに続ける。菱本先生の眼差しは優しいままだ。

「型紙とそのフェルト、およびパンヤ綿をいただきまして一体こしらえてみましたが、今ひとつインパクトにかけていましたので私たち二人で規律委員のみなさまにいくつか提案し、五十体のマスコットをすべて手縫いで作成し納品いたしました」

「五十体……」 

 あきれたような霧島のつぶやきが聞こえる。

「後日、高校の先輩たちから伺ったところ非常に評判がよいだけではなく、多くの青大附高OB・OGのみなさまから頒布のご希望をいただいたとのこと。私としましては型紙と作成方法を書いたものをまとめてお渡しいたしました。作るよりも手作りキットの方がよい記念になるのではと判断しました。非常によい反応が返ってきていると伺っております」

「それは知らなかったぞ。高校の規律委員といえば、そうだ清坂や東堂、あと南雲あたりか。あいつらに詳しく聞いてもいいか? ぜひ他の奴にもその話聞かせてやりたい」

 だんたん顔が紅潮してくる菱本先生、少し怖い。だが怒っているのではなく単純にわくわくしているだけのようだ。目が輝いている。

「清坂先輩のご提案で、後ほど感謝のお言葉をたくさんいただきました。きっかけは東堂先輩が私の友だちに代わりにマスコットを作ってくれないかと頼んだことでしたが、最初清坂先輩はそのことをご存知なかったようです。私たちに押し付けたと勘違いなさったようです。ですがきちんとそのあたりの誤解を解いた結果、東堂先輩も清坂先輩から深く感謝され、非常に喜んでおられたと伺っております」

「しかしだな、高校の規律委員会が仕事を杉本たちに押し付けたように見えてもしかたないと思うんだがなあ。いや、杉本が引き受けたのがまずいとは思わないんだが」

「私が申し上げたいのは、今回たまたま私がすべて引き受けましたけれどもそれを、先ほどの霧島くんの提案どおりすべての学年で担当することができれば、もっと幅広い提案ができたのではということです。私も手芸はそれなりに得意ですがはるかにお上手な方がもっといらっしゃいます。そういう方の力を借りることができればもっとマスコット作りも盛り上がったでしょうしさらに言うなら、マスコットだけではなく衣装ももう少したくさん用意できたのではないでしょうか。私の記憶する限り、幻の制服は男子二着、女子一着しかなかったと聞き及んでおります。他のみなさまはカーテンを切り刻んでマフラーを巻いただけとも。それはあまりにも寂しすぎます。いくらマスコットをこしらえたとはいえ、もっと華やいだものを用意することが、人手と時間さえあればできたのではと思わずにはおれません」

 一気に話した。桜田愛子が一方的彼氏である東堂先輩に、規律委員会用の制服マスコットを大量に作るよう頼まれた時、梨南もその作成に加わった。もちろん桜田も手が不器用ではないのだが量が多すぎる。だが作り方の手順を確認してみたところ無駄が多すぎたので梨南なりにいくつか提案をし、一気に簡単に作ることのできる方法を桜田愛子経由で伝え、ついでに全部梨南の手で完成させた。さほど苦労ではなかった。清坂先輩も最初は東堂先輩のやり方に怒っていたらしいが梨南の努力に免じて、

「仕方ないわ、杉本さんがこんなにたくさん素敵なマスコット作ってくれたんだもん! ありがとう、絶対に無駄になんかしないからね。できたらあとで私にもこのマスコットプレゼントしてもらえるとうれしいな」

 微笑んでくれた。もちろん梨南としては清坂先輩用にオリジナルでこしらえたかわいらしい制服人形をプレゼントさせていただくつもりだ。もう作成に入っている。


「杉本先輩、それはいつ頃持ちかけられたお話ですか」

 割って入ったのは霧島だった。見ると顔つきが完全に生徒会副会長の引き締まった表情に変わっている。

「つい二週間から三週間前、中間テストと実力テストの間です」

「もしそのような情報が僕たち生徒会にも入っていれば、それこそもっと別のお手伝いができたでしょう。さらに申し上げれば、中学の学校祭にもつながる、たとえば民族衣装マスコットつくりなどでクラス全員の参加も声かけできたでしょう。さらに杉本先輩のおっしゃった手作りマスコットキットなども頒布できればさらにOB・OBの方々にも喜んでいただけたでしょう。情報が流れてこなかったのが、心底残念です」

 ──なぜそんなに悔しがっているのかしら。

 全く理解しがたいところで霧島が唇を噛んでいた。

「よっしわかった。お前たちふたりは青大附中の類まれなる頭脳派だなこりゃ! 俺ももしお前らと同じ中学生だったら即、高校にその話持ちかけに行ってるな。いやあ楽しかった。杉本も霧島、俺はその気合に心底惚れた。よっし、新生E組、とことんやりたいようにやっていこう! よろしくな!」

 さらに理解しがたいのは菱本先生だった。話をしている間ひたすら首が折れるのではないかと思うくらい縦に振り続けていたのは見ていたからわかる。しかし、梨南のごく普通の意見に対し、まるで神からのお言葉扱いで大共感されるとは思ってもみなかった。一応この先生は、本来の担任である桧山先生と犬猿の仲とは聞いている。話が比較的分かる先生とも噂では聞いている。ただ立村先輩とのバトルも相当のものだったということもあり、信じがたいところも正直あった。用心をそれなりにしてもいた。なのに、なんなのだろう。

 ──立村先輩にあとで探りを入れたほうがいいかもしれない。

 どちらにせよ、立村先輩が新生E組について興味を示さないわけがない。とりいそぎあとで立村先輩に電話を入れておいたほうがよさそうだ。同時に霧島の件についても報告しておかねばなるまい。いろいろと面倒なことになりそうだ。


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