1 演奏会の夕べ
──春夏秋冬、そして冬
──季節は巡るはずなのに
──ひとりとりのこされてゆく
なぜ立村先輩は高校の学校祭なのに暇を持て余しているのだろう。本当ならクラスの模擬店なり企画なりで手伝いをしなければならないはずなのに、なぜ今こんなところで油を売っていなくてはならないのだろう。
「だからさ、さっき言っただろ。高校の学校祭はほとんど一年生がすることないんだよ」
立村先輩は大学講堂に設置された椅子に座り、梨南の隣りで説明を繰り返した。
「去年までは学校祭実行委員を学内から公募して、そのメンバー中心で運営していたらしいんだけど今年から大幅に変わったんだ。先輩たちが言ってたよ。いろいろ問題が起きたらしくて結局委員会の人間が手足になって生徒会がまとめて、最終的には先生たちが仕切るって形になったらしいんだ」
「それでも人が足りるわけないのでは」
仮にも学校祭だ。こんな暇を持て余していいはずがない。橙色に色づいた講堂の明かりを見上げながら梨南は何度も食い下がった。
「わからない。ただ無理やり工面してなんとか間に合うようにはしたみたいだよ。委員やっている友だちから聞いたところによると運営の大元は全部先生がやってくれるから言われたことだけ委員会が担当すればいいだけらしいし」
「それは生徒の手による学校祭ではありません。自主性を放棄しているとしか思えません」
「杉本の言いたいことはわかる。俺も同じ立場だったらそう思う。けどさ」
立村先輩はそっと講堂に設置されたグランドピアノに目を向けた。口もとがほころんでいる。一重に見えるけれど実は二重な眼差しも、気持ち悪いくらい白い頬も、きちんとしているように見えて実は結構揃っていない前髪とか。じっと梨南は見つめた。中学時代と全く変わっていない。まだ卒業してから一年も経っていないというのに。
「だからこうやってゆっくり聴くことできるというわけだしさ。そうだろ、杉本」
「私は好き好んでこちらにまいったわけではございません」
「ああそう」
あっさり聞き流されたようで、梨南は羽織っていた黒いショールをひざ掛け替わりにした。厚めのコートを着るには早すぎるけれども帰りはきっと寒くなる。梨南たちが座っている席の近くには誰も人が寄り付かないのはきっと避けているからだろう。決して席の配置が広がり過ぎていて空席が目立つからではない。青潟大学主催学内演奏会開始まであと五分を切ったというのに、まだ観客は揃っていないようだった。
「立村先輩、よろしいですか」
「何」
「こんな広い講堂で音楽会を行うのに聴衆がこれだけでいいのでしょうか」
プログラムを広げて立村先輩は考え込み、首を傾げた。
「たぶん、全部聴くのは時間的にもみな厳しいから、お目当ての人だけ聴きたいんだと思うんだ。うちのクラスの女子でものすごくピアノが上手な人、今回出るけどクラスのみんながたぶん来るって言ってたからな。一時間くらい後になるよきっと」
そこまで口にした立村先輩は、ふっと何か気づいたように言葉を止めた。
「どうなさったのですか」
「いや、杉本ももし途中で退屈だったら、言ってくれればちゃんと立つからさ」
「失礼なことを!」
何を勘違いしたこと言い出すのだろう。立村先輩はいつもこういった非常識なことを口走る。梨南もいつもは腹が立つのを我慢して飲み込んでいるつもりなのだが。今の発言は梨南の音楽に対する態度に対して侮辱していることになる。
「立村先輩、お分かりですか? 私はそういうことは考えておりません!」
「ごめん、ごめん、俺が悪かった」
「よろしいですか立村先輩。今回出演なさるみなさまは全身全霊で音楽に打ち込んでこられたはずです。一瞬たりとも手抜きなどなさってらっしゃらないはずでございます。それは立村先輩もよくご存知のはずです」
「わかってる。そうだよ」
「でしょう? その一瞬を私たちが真剣に受け止めないでどうするというのですか。立村先輩のクラスの方々にとってはクラスメートを応援する目的なのですから途中で抜けるのもひとつの判断になるでしょう。しかし、私は本日、素晴らしき音楽を堪能するために参りました。途中で立つなどそのピアノを演奏している人々を侮辱することになります。さらに申し上げれば」
梨南は立村先輩の顔にまっすぐ指を差した。
「私がそういう失礼なことをするような人間とお思いですか」
「いや、思ってない。思ってるわけないだろ」
「いいえ、先ほど立村先輩はそうおっしゃいました」
「ごめん、だから謝ってるだろ。いい加減機嫌直してくれよ」
「全く何様のおつもりですか。だいたいいつも立村先輩は」
ここまで梨南が立村先輩を説教したところで、講堂内でベルがなった。同時に館内放送おも流れ、あと数分で最初に中学一年の生徒が「月光」を演奏する旨の案内があった。
「言いたいことあったら後で聞くから」
──大抵忘れているくせに。
また流されてしまいそうな気はしたけれど、芸術の神の前でこれ以上見苦しい行動をさらけ出したくはない。梨南は改めて自分の手元にあるプログラムを開いた。
──青潟大学主催・学内音楽発表会
立村先輩から何度も聞いた通り今年より学祭イベントの一環として行われることになったのがこの発表会だった。もともと青潟大学および附属中・高ともに音楽絡みのイベントはあまり存在しなかった。せいぜい合唱コンクールだが中学の場合は二年の時のみ。高校では毎年行われるが学校外の人々には公開していない。
いったいどういう経緯でこの広い大学講堂をめいっぱい使う形での音楽発表会が行われることになったのかは詳細不明だ。梨南が知っているのは対象者が中学、高校、および大学に渡るすべての学年に在籍する生徒であることと、ある程度の技量を持つ者というハードルがある、この二点だけだ。今回はピアノ演奏のみだが今後は持ち込み可能な楽器であれば幅ひろいジャンルも受け入れる余地があるという。この辺は立村先輩からの受け売りだ。
──でも、高校の学校祭の中日に行うべきことかしら。
梨南が納得いかないのはそこだった。
学校祭の仕様がだいぶ変わったとは言え、クラスの行事が全くないとは考えられない。立村先輩も委員に入っていないからすることがないという表現をしていたけれども、曲がりなりにもこの人は元評議委員長なのだ。青大附高の中で「全く仕事をしない」なんてことが許されていいわけがない。間違ってもこうやって学校祭二日目夕方に梨南を迎えに来て強引に大学講堂へ引きずり込むようなことは、普通ありえない話なのだ。
それに、とも思う。
──立村先輩と同じクラスの人たちも来るというのであれば。
なおのこと、本当はここにいてはいけないのではないか。
隣りで立村先輩は鞄から小箱らしきものを取り出し、
「ほら」
そっと差し出した。何気なく受け取ったが、すぐ押し戻した。
「立村先輩! 何お考えなのですか!」
「そんな、何、ただのキャラメルだよ」
「音楽を聴くために集中しているというのになぜ飲食しようとなさるのですか! 音楽会は通常飲食禁止でございます! なんと非常識なことおっしゃるのですか!」
「ごめん、悪かった。常識をわきまえない俺が悪かったから、頼む少し落ち着いてくれ」
言いかけた言葉が消えるのと一緒に、講堂内のライトがゆっくりと薄暗く落ち始めた。もうシルエットしか見えない。梨南の手の奥に小さなキャラメルの箱を押し付ける気配だけを感じた。仕方なく握り締めるしかなかった。もう、曲が終わるまで誰とも口を利く気もない。