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嘘吐き

作者: 不動 啓人

「裏切り者、覚悟!」

「はっはっは、裏切り者とは片腹痛し!大嘘吐きの狸とは、お主らの主人の事じゃ!!」

「なにを!!」

 白銀に輝く刃を手に、3人の刺客が小笠原長忠おがさわらながただを襲った。

 長忠も刀を手に猛然と立ち向かったが、刺客は手練れ揃い。3合ばかり刃を交わした後に長忠は斬られ、黒光りする板床の上に伏した。

 薄れゆく記憶の中、長忠は微かに呟いた。

「嘘吐きは嫌いじゃ。なぁ、月若つきわか……」


 天正2年(1574)5月、武田勝頼たけだかつより率いる1万5千の武田勢は、徳川家康とくがわいえやす傘下にある遠州えんしゅう高天神城たかてんじんじょうを包囲した。前年に巨星、信玄しんげんが逝去したとはいえ、武田家の威勢は衰えるところを知らなかった。

 一方の城兵は、家康が家臣、城主の小笠原長忠を筆頭とするおよそ2千。

 長忠は武田軍来襲を知ると、すぐさま篭城の構えを見せた。兵数の差を見ても分かる通りであったが、なによりも高天神城は遠州一の要害として知られ、守るにはうってつけの城だったからだ。

 さらに長忠は浜松の家康の元に援軍の要請をし、断固として城を守る気概でいた。

 戦いは18日、武田軍の猛攻によって始まった。しかし、城兵はこれを良く凌ぎ、戦況は予想通りの長期化の様相を呈した。

 だが1ヶ月も経つと、戦況は守勢に不利となってきた。武田家の戦意は衰える事無く、西の丸をはじめとし、曲輪を次々に奪われていった。そして何よりの誤算は、浜松の家康が、一兵たりとも援軍を送ってこないのだ。

 長忠は再三に渡り使者を家康の元に遣わすが、家康はのらりくらりと答えをはぐらかすばかり。例え援軍を承諾しても、口ばかりで一切行動に移そうとはしなかった。

――まさか、家康殿はこの私を疑っているのか?

 そんな考えが長忠の脳裏を過ぎった。小笠原家は甲斐源氏の出自であり、武田家とは同族で疑われる余地もあるだろうが、

――掛川天王山かけがわてんのうざんに始まり、江州姉川ごうしゅうあねがわ江州観音寺ごうしゅうかんのんじ越後えちご金ヶかながさきと緒戦において力の及ぶ限り戦ってきたではないか!

 誠意は充分に示してきた筈だ。なのに……

 さらに武田軍からは降伏勧告の使者が城内を訪れ、

「開城なされるなら、城中の者を残らず助命し、長忠殿には1万貫(10万石)を差し上げる」

 長忠の心は大きく揺れた。

――我等を見捨てた家康に、これ以上の義理立てが必要であろうか。むざむざと多くの者の命を捨てさせていいのであろうか……

 しかし、城兵の中には家康に人質を出している者もあり、また、『義』という武士の面目にこだわり続ける者もおり、そう単純に降伏という訳にもいかなかった。

 思い悩む長忠。

 そんなある日、決着の見えぬ評定を終えて1人大広間にて思いに耽る長忠の元へ、末弟の月若が侍女に伴われ、たどたどしい足取りでやってきた。この時月若4歳。

「月若、どうしたのだ、このような所に」

「申し訳ありませぬ。若様がどうしても長忠様にお会いしたいと」

 侍女の口上に頷くと、長忠は月若を膝の上に抱いた。父親の顔を知らぬ月若にとって、19歳離れた長忠は父親のようなものであった。長忠もそのつもりで月若の成長を今日まで見守ってきた。

「兄上、戦は勝っておいでなのですか?」

 世の中の事など何も知らぬといった純粋さで、月若は長忠に尋ねた。

 長忠は静かに微笑むと、ゆっくりと首を横に振り、言い聞かせるように月若に戦況を聞かせた。

 それは教えるというよりは、むしろ長忠の愚痴だったのかもしれない。可愛い弟に会ったために生まれたちょっとした心の緩み。

「兄上はどうしたらいいだろうか、なぁ、月若?」

 藁にも縋る想い、そんなつもりはなかった。ただ話の流れの結末として月若に話を振ったのだ。4歳の幼子にどんな判断が下せよう。

 月若は不思議そうに首を傾げた。そのしぐさが愛らしくて長忠は微笑む。

 そして――

「私は、嘘吐きは嫌いです」

 幼さの中に潜んでいた凛とした言葉。真っ正直な、本当に真っ正直な――

 突然、長忠の眼に涙が溢れた。どうしたのか、自分でも分からない。なぜ自分は泣いているのだろうか?

「どうしたの、兄上?」

 つぶらな瞳が長忠を見詰めていた。

 長忠は直垂ひたたれの袖で涙を拭き取ると、笑顔で月若に答えた。

「なんでもない、なんでもない。そうか、月若は嘘吐きが嫌いか」

 そう言っては月若を抱き上げ、強く抱き締めた。再び長忠の眼から涙が零れ落ちる。もしかしたらこれは、安心の涙だったのかもしれない。決断を下した、安心の涙。

――義に背いたのはどっちだ! 大嘘吐きはどっちだ!

 純粋な幼子の言葉は、意外と大人の言葉よりも真実なのかもしれない。

 長忠は月若をもう一度抱き上げ、その視線を合わせると、

「儂も、嘘吐きは大嫌いじゃ!」

 大いに笑い、再び月若を抱き締めた。

 長忠は思わぬ月若の言葉に真実を見出し、決断を下したのである。

――嘘吐きの者に立てる義理はなし。武田家に降ろう。

 こうして小笠原長忠は武田家に降伏し、後に、約束通り勝頼から与えられた新地へと赴いた。


 それから16年後の天正18年、徳川家康によって1つの命令が下された。

「裏切り者、小笠原長忠を討て」

 と――

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