第六話
携帯のアラームを止める。でもまだ眠い。ベッドに倒れたら声をかけられた。
「おはようございます」
森崎さんが顔を覗き込んできた。そうだった。彼女がいるのだった。寝るわけにはいかなくなる。
「おはよう」
「小池君はいつもこのくらいに起きるの?」
五時半。外はまだぼんやりと暗い。
「まあね。森崎さんは?」
「私はもうちょっと遅いかな。学校近いし。でも早すぎじゃない?」
「眠い時はもうちょっと寝る。そうじゃない時は、ゲームする」
「なるほど」
夜は無理せず、朝に余裕あれば遊ぶ。この生活リズムは結構気に入っている。授業中に寝てしまうことをあまり心配しなくていいし、健康にもよさそうで。健康にいいことは素晴らしい。一秒でも長く生きていたい。当たり前のことだが、死ぬのは怖い。
「そういえば森崎さん、そこらをぶらつくとか言ってたけど、実際何してたの?」
「よく聞いてくれました」
森崎さんはにんまりと笑った。
「一番楽しいのは、たぶん家に片っ端から侵入することだと思う」
「それは、ちょっと、どうかと」
「やったら人として終わりかなって思うからやってないけどね」
苦笑い。こちらはほっとする。やはり死んでいても人間のルールから外れてほしくはない。
「でもそうするとお散歩するくらいしかないんだよね。でも夜はあんま楽しくない」
「そうなの?」
「外暗いとなんか道を歩いてるだけって感じだし、お化け怖いし」
お化け怖いって。呆れてしまう。
「あんたね。自分がそのお化けみたいなのになってるのに、今更怖いとか」
自分自身が存在を証明しているようなものなのだから、幽霊が他にいたって普通のことじゃん、と俺は思うのだけど。
「生きてる時怖かったからその名残でちょっと」
そう言っている今も森崎さんは腰が引けていて、情けない感じだ。
「それじゃあずっとうちにいたの?」
「ううん。暗い所怖いから、コンビニで時間潰してたよ」
「なんだかなあ」
幽霊って感じじゃない。まだ死人としての生活に馴染んでいないというか。中途半端な彼女は、なんだか抱き締めたくさせるものがあった。「しょうもねえなあ」と笑っておく。それにつられたのか、森崎さんも「へへ」と照れ笑いを見せた。
制服を着ると、俺と森崎さんの間にあったずれが補正されたような気がした。好きな人と一緒に登校するなんてことが現実に起こるとは。だけど鞄を持っていない森崎さんは車道の真ん中で腕を広げて空を仰ぎ見ながら歩いている。やっぱり俺と森崎さんの間にはずれがある。普通に生活していると、空なんてあまり見ない。彼女に影響されて、俺も空を見上げてみる。綺麗ではあるが、ありふれていてどうでもよくて、つまらないものだった。そんな空を見ているこの瞬間だけ、自分も死んでいるのかもしれなかった。
駐車場で黒い野良猫と遭遇する。最近よく見るようになった猫。どうも飼い猫ではないみたいだが、人に慣れているのか、こちらをじっと見つめてきた。
「あの猫、私のこと見てない?」
「まさか」
森崎さんは「おうい、猫さあん」と呼びかけた。やっぱり反応は無い。
「あれって野良なんだよね」
「うん。たまに餌やる人いるみたいで、住み着いちゃってる」
「それってよくないことなんだよね」
「たぶん。なんか迷惑になったりするんだろうし。野良猫は野良猫なりに生きていった方がいいんじゃないの」
そうだよね、と森崎さんは言いながら、猫が自分のことを見えているのか確認しようと、手を振っていた。
「やっぱ見えてないのかなあ」
動物は時に人間より敏感だから、彼女もそれに期待していたのだろう。
そうか。猫にも見えないんだ。
森崎さんには悪いけど、気分がいい。まるで世界が自分の愛情を評価してくれているみたいだ。人気の少ない道から駅に近付いていくにつれて、人が増えてくる。赤の他人。曇った日の影みたいに気に留めない。自分以外の人は幽霊と大して変わらないんじゃないかってくらいだ。
「こうすると、凄く悪いことしてるみたいで、なんか楽しい」
改札を通る時、森崎さんは昨日のように俺のすぐ前を歩いた。電車の中では「ゲームみたい」と笑いながら、人とぶつからないようにしていた。車内はもっと気だるさが充満しているように見えるはずだった。
教室はいつもの活気を取り戻していて、既に森崎さんの件について表面には出なくなっているみたいだった。落ち着いちゃっている。後はもう各人の心の中で済んだことにするだけ、と。
「今日ってさ、何か宿題あった?」
「あった。英語のやつ」
「ああ、あれか。うわ、俺やってないんだけど。やった?」
昨日だって同じような会話があったはずなのに、今日はなんだか胸に刺激が来る。そりゃそうか。皆の言葉からは、森崎さんのことから目を逸らすようにひそひそと話す感じが失われていた。森崎さんが自殺してからまだ一週間も経っていないのに、と思ってしまう。それは心の止血が遅いということなのかもしれない。
「当然。ってか休みのうちに終わらせとけよ」
常識を語るような口調の後藤に斉藤が手を合わせた。
「お願い、見せて」
「やだ」
「頼むよ。今からやるとか超面倒じゃん」
「それならいい方法があるぞ。今すぐ飛び降りれば宿題しなくても大丈夫だ」
教室中の血の気が引いたような気がした。血液がコップを逆さまにしたみたいに頭部から無くなっていくのを予感させたところで、斉藤が「不謹慎だろ」と後藤の頭を叩いた。その行動が正解だったのか、一瞬だけ会話が途切れたが、教室は冷たくならずに済んだ。空気を読めない人には見えない緊張の糸。教室に張り巡らされていたそれが、今は誰にでも見えるくらいに光ってはいたが。
「気を付けろよ」
耳打ちをしながら、斉藤は強く言い聞かせた。「すまん」と後藤が謝る。
「ふふふ」
まだ笑える状況ではないのに、笑い声。俺の横で森崎さんが肩を震わせていた。その笑いが彼女の中で膨れ上がって「あっはっは」というものに変わるまで時間はかからなかった。「最高」と言って机を叩く。無論彼女の出したかった、ばんばん、という音はしなかった。たった一人だけ盛り上がっている。
何が死んだ人のためになるのかわかりゃしない。
森崎さんは爆笑していたぞ、と申し訳無さそうに周囲の様子をうかがっている後藤に教えてやりたかった。俺も含めて皆、神経質になりすぎているのかもしれないから。