第五話
疲れを癒すためにのんびり湯船に浸かっていたい気分だったけど、なるべく早く出ることにした。森崎さんを一人にしておいたら可哀想だ。今の彼女は誰かとメールをすることはおろか、漫画を読むことさえできない。
「ただいま」
部屋に戻ると、ドアを開くのに連動した仕掛けのように、ベッドに寝転がっていた森崎さんが飛び起きた。夜になっても制服姿。
「おかえり」
森崎さんはすぐさま「思い付いたよ」と言ってくる。
「何が?」
「簡単に会話できるツール」
そういえばご飯を食べる前にそんな話をしていた。
「ルーズリーフある?それとボールペン。定規もあるといいんだけど」
定規もすぐに見つかる。彼女が指示する通りに線を引いていく。五十音表を作った。「が行とかもあると便利かも」と言うので、それも追加する。小さい「つ」や「あ」なども。それから数字も。
「よく使う言葉も用意しとこう」
頻発する言葉が特に思い付かなかったので「イエス」と「ノー」だけ作る。これで完成、と森崎さんは言った。
「それじゃあコイン用意して。十円玉がいいかな」
もう読めた。しかし付き合うことにする。「指乗せて」と言うので人差し指を添えた。空いたスペースに森崎さんも指を置く。肩が触れそうになる。すり抜けてしまったのを見ると悲しくなるから、触れないように数センチ離れる。
「小池君、小池君。私の声が聞こえていますか」
俺は「はい」の所に十円玉を移動させる。森崎さんの指がそれをおどおどしながら硬貨から離れないように追ってきた。
「ほら、こうやれば簡単に会話できるというわけ」
「これさ、十円玉を動かすのは普通そっちなんじゃ」
森崎さんはわざとらしく舌を出した。その舌をつまんでみたかった。
「それにこんなこと授業中にできないし」
「そっか。残念」
「イエスノーくらいならできるかな」
俺は紙にYとNを書いた。これに指を乗せて返答する。ノートの端にアルファベットが二つ書いてあっても、教師はそこまで不審には思わないだろう。そう説明すると森崎さんは「なるほどね」と言って頷いた。
「でもこれも面白いと思うんだけどなあ」
森崎さんは十円玉に指を乗せた。
「それなら今日はこれで遊ぼうか」
俺も指を乗せる。それじゃあ、と森崎さんは質問を言った。
「私のこと好きって本当?」
イエス。
「どうして私なんか好きになったの?」
難しい質問だ。これで答えるとなると硬貨を動かすのが手間で、長い文章にはしたくないから尚更。「よくわからぬ」と答える。
「変なの」
森崎さんは不服そうだった。でもわからないのは本当だ。思い当たるのは、オタク的な人の方が気が合いそうかな、ということくらいで。それを遊びのルールから外れて声で語ってはいけない気がした。本気になりすぎると空気が重くなる。
「まあいいや」と森崎さんは明るい声に切り替える。「それじゃあ失恋しちゃったわけだ」
相手が自殺してしまったわけだから。俺は十円玉をノーの所に動かした。
「え?」
まだみえるから、と動かしていく。死が恋の終わりになるのはそれによって関係が絶たれるから。両方生きていなければ恋は成立しないのだろうか。死んでいても彼女は見えるから、それならば、そうでもないんじゃないかって俺は思い始めている。生きているか死んでいるかじゃなくて、交流できるかが大事なのではないか。
「あは、は」
彼女は止まりかけている玩具のように笑った。そしてまた快活そうな声に切り替える。「質問を変えよっか」と言って。
それからは恋愛関係の話から大きくずれたから森崎さんが戸惑うことも無くなった。修学旅行の夜の、心の中にいる小さな自分が盆踊りをしているような楽しさ。あっという間に日付が変わってしまった。
「そろそろ寝ないと」
「今日は徹夜しない?」
恐ろしいことを躊躇せずに提案してきた。眉が寝られると困るといった気持ちを語っていた。
「休み明けたばっかなのに徹夜はきついでしょ」
「だよね。うん、わかるんだけど」
わかると言いつつも、もじもじしている。
「どしたの」
「なんか眠れないんだよね。というか、寝るって行為が存在しないみたい。だから深夜って凄く暇で」
幽霊なのに昼間にも活動してると思ったら、そもそも昼も夜も関係無かったのか。遊び相手が欲しい、というわけか。
「流石に寝ないのは無理だよ。テレビ付けたままにしておこうか?」
「ううん、いい」と断られる。そこらをぶらついて適当に時間を潰す、と森崎さんは言った。
「それじゃあ起きてる時にどんな話をするか、考えておくといいよ」
「そうだね。そうする」
寝る前に、俺も死ねば彼女を退屈させずにいられるのかもしれない、なんてことを少しだけ考えた。