第一話
クラスの皆が森崎さんの席を見ていた。大人しいとよく言われている人だから、俺を除いて、誰かが彼女に視線を注ぐなんてことはほとんど無かった。そう考えると異様なまでに注目されているのであるが、そこに彼女はいない。森崎さんは校舎から飛び降りて自殺したから、いるわけがないのだ。
俺にとっては森崎さんがいた方が価値のある席。皆は彼女がいない方が価値を感じるみたいだ。そういうことを意識すると、教室の中にいる人が白黒に見える。真っ白で、目と口だけ真っ黒なクラスメイトたち。そして自分はその逆で真っ黒な体をしているように見える。いなくなった森崎さんの席が、俺たちのディテールを奪っていた。
「どうして死んじゃったんだろう」
女子の呟きが、俺の耳には自分の悪口のようにはっきりと聞こえてくる。テンション低めに調整された声には、化学で実験する時の調子が僅かに含まれていた。学生の自殺なんて珍しいことではない。そんな報道は年に何回か聞く。でも他人事だった。こんなに身近な場所で起こるなんて思っていなくて、たぶん皆も同じ心境だから、どうしても滲み出てしまう好奇心で彼女の席を見ているのだ。何も置かれていない机は無抵抗に太陽光を浴びている。
そこにチャイムが鳴って、ひそひそと賑やかだった会話を邪魔した。ポーカーフェイスで響く良心的な音。規律は正義だ。すぐに先生も入ってきて鎮火された。しかし静かになったようで、なっていない。会話が無くなっても物音がさっきまでの空気を引きずっていた。
授業は綺麗な文字をなぞるように行われた。数式を黒板に書く先生。彼が振り返ると視線は俺の斜め前の空席に向けられる。そういった挙動の一つ一つに苛立ちを覚えながら、俺は今朝の担任の言葉を思い出していた。ニュースで自分の学校で女子が自殺をしたことは知っていた。学校に来ると、自殺したのは森崎さんだ、という噂が広まっていた。いつになっても登校してこないから不安が募るばかりだったのに、全校集会の後に教室で担任から森崎さんが死んだことを告げられた瞬間、現実味は遠のいた。
明日になったらひょっこり登校してくるんじゃないか。そしてこれまでと変わらず読書をして休み時間を過ごすんじゃないか。
森崎さんのいない席はあまりにもさりげなくて、アニメで描かれるような衝撃なんてどこにも無かった。アニメやゲームならこれをきっかけに物語が新しい展開を見せてもおかしくない。なのに、ぼうっとしていると先生の解説がわけのわからない暗号めいてくるのも、授業中は時間の進みが遅く感じるのも、変わらない。ただ皆がちょっと騒いでいるだけで風邪で休んでいるのと大して変わらない教室は、もはやこの世にイベントなんて残されていないことを告げているみたいだった。
本当に死んじゃったのかな。
休日を経ているから、彼女の姿は校内に残っていない。二度と目を開けない彼女の顔を見れば涙が出てくるのかもしれないけれど、恋心は諦めてどうするとお気楽な様子だった。心の中にある鈍感な部分が、ここぞとばかりに前に出ている。
「遅れてすみません」
欠席者のいない教室にそんな台詞が入ってくる。その声に続くように、呆けているかのようにぽっかり開いているドアから恐る恐るといった感じで森崎さんが教室に入ってきた。誰も反応しない。台本に無視しろと書かれているのを皆があらかじめ頭に入れていたかのように。誰かが「ええ」と驚愕するだろうと反射的に思った俺はただ目を見開くだけだった。
「この度はご迷惑をおかけしました。森崎沙希です」
教壇に立って、森崎さんは頭を下げた。その一方で先生は黒板に問題を書いている。あまりの温度差に、二つの世界が同時に見えているみたいだ、と感じた。現実とファンタジーの二つが。あながち間違いではないのかも、と自分の直感に頷く。あれは所謂幽霊ではないのか。
「誰か私のこと見えてない?駄目?」
教室を見渡しながら森崎さんは手を振る。呆然としていたせいで目が合う。彼女は俺を見たまま手を振って反応を求めてきた。すぐに逸らしたら不自然だ。見えていない振りをするために視線を逸らすのに自然なタイミングを待って、それからゆっくりとノートに視線を落とす。他の人には見えていないみたいだ。幽霊なら他にも見える人がいるかもしれないが、あれが幻覚だとするなら俺にしか見えないわけで、それを考慮して何も無いように振る舞うことにした。
「見えてないのかな」
彼女は自分の机に座る。飛び上がりながら足を投げ出したりと挙動こそは乱暴だったが、重力を感じさせないなめらかな動きで音も無かった。
「ここの問題を、それじゃあ」
先生は左へ右へと顔を動かし、そして指名する。森崎さんの真後ろに座っている後藤だった。
休み時間になってもざわつくどころか自殺の件について話すことも無くなってきて、幽霊のことを触れないどころか森崎さんの話題が出ることさえ減っていた。触れず、離れ過ぎず。そんな意識が働いているのか、はしゃぐ人はおらず、そこかしこで「次の授業何だっけ」という会話があった。俺は自分の席から離れずにじっとして、森崎さんに話しかけたいのを我慢していた。
森崎さんは机に座り続けていた。きちんとした姿勢だが、座っているのは椅子ではなく机。それを咎める人はいない。授業が始まって先生が入ってきてもそのままだ。叱られることが無いように誰も彼も規律に従って頭を並べている中で、一人飛び出している森崎さんだけは気ままに青春を謳歌しているようにも見える。うらめしや、というイメージからは遠い。生きて学生をしているのなら授業は真面目に受けるべきだ。死んでいればそれはもう気楽なことだろう、なんて考えてしまう。ふわあ、と頭を低くして隠すこともせずに森崎さんは欠伸をした。そして授業の途中なのに教室から出て行ってしまった。
あれって幽霊だよな。
俺にだけ彼女が見えているわけだけど、どうしたらいいのやら。適切な困惑の仕方がわからない。こういうの、アニメやライトノベルで慣れてしまった。むしろこんなことが起こってほしいと思っていたから嬉しいくらいだった。やっぱり、非科学的だ、とか混乱するべきなのだろうか。でもそんなこと、フィクションの世界ではよくあることだし、現実で起きたってそこまで違和感があるわけじゃない。オタクってこういう時勿体無いのかな、と思った。普通の人ならもっと真っ当な反応をして、この異常な状況を存分に味わうことができたかもしれないから。
森崎さんは校内を歩き回っていたみたいだ。三十分くらいして帰ってきた。
「ただいま」
そんな場違いな台詞を吐いても誰も笑わない。授業中でも休み時間でもふらりと教室から出て行くことがあったが、昼休みにはこちらに戻ってきた。まるで試験中の先生みたいに教室内をうろつく。昼食の中身を見て回っているらしい。勘弁してくれ、と思う。観察されるのはとても恥ずかしく感じる。自分は大した人間ではない。注視されれば至らない部分を見られることになる。上手く隠せる自信も無いわけで、だから勘弁してくれなのだ。願いは届かない。幽霊なのだから察してくれてもいいだろうに。試験中よりもプレッシャーを感じた。通り過ぎてから三秒程間を置いて、やっと溜め息を吐き出す。再びこっちに来る前に食べ終えようと、ペースを上げる。
らしくない。もっと大人しい人だったのに。
そう思いながら俺は弁当箱をしまってすぐ机に突っ伏す。息苦しい教室から遠ざかるためにシャッターを閉じた。
予鈴に起こされる。ややぼんやりとした目で教室を見ると、あの位置に森崎さんが座っていた。机の上に座るだなんて、先週までの森崎さんなら絶対にしなかったことだ。でも脳みその中では上書きされていて、既に見慣れた姿になっていた。まるで人の本性を知った時のように、データは書き換わっている。
幽霊って、いるんだな。
直前まで何かの夢を見ていたはずなのにもう思い出せなくなっていた。授業が始まる。生きていた頃と同じように勉強はするつもりなのか。森崎さんは隣の席の教科書を見ている。
どうして自殺なんてしたんだ。
疑問を送信しようと念じてみるが、届かないみたいだ。幽霊なんて現在の科学では説明できないものになっているのだからテレパシーで通じ合えたっていいはずだ、なんて思うのだけどそこまで都合よく出来てはいないみたいだ。視線でのアプローチにも気付いてもらえない。こちらが投げる透明なボールはすり抜けていくばかりで、彼女が生きていた頃を思い出した。
森崎さんのことを、いいな、と思い始めたのは二学期になってからだった。魅力に気付いたのが出会ってから何ヶ月も経った後となると声を掛け辛いものだ。自分も周囲も行動パターンが決まっていて、そこから外れるには強い意志が必要になってしまう。だから見ているだけ。こちらの好意を察してくれないかな、と都合のいいことを思いつつ話をするチャンスをうかがっていた。結局一切の進展が無いまま彼女はこの世から去ってしまった。
死んでしまうのだったら、話しかけておけばよかった、と思う。放課後、一緒に帰ろうと話しかけてみるとか。自分の好意を伝えれば彼女も自殺しなかっただろう、というのは思い上がりだとしても、こんな後悔はしなくて済んだ。
そんな考えが渦巻いている中で、俺の目には森崎さんが映っている。回想の中の彼女ではなく、今ここにいる彼女。幽霊との恋愛ってどうなのだろう。そういうアニメを見た覚えは無いけど、よくある展開であるように思えて、それならいいのかな、なんて考える。姿が見えているせいか、死んでいる気がしない。声が伝わらなかったり物に触れられなかったりするだけで、生きているのと同じような。
その時になって、机に座っているのは椅子を動かすことができないからなのかもしれない、と気が付いた。