表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

08

 教室を出て、望は走り続けていた。

 剣道部のグラウンドである武闘館は立ち入り禁止の札が立っている。そういえば工事が始まるのだという事を思い出したて、望はすぐに昇降口へと向かった。だが、大樹の下駄箱には上靴しか入っていなかった。周囲に大樹らしき男はいない。望はどうしてすぐに追わなかったのかと、激しい後悔に襲われていた。校舎内で捕まえることが出来れば、話すことも出来たかもしれないのだ。

(いや、まだ・・・きっと間に合う)

 望は急いで靴を履き替えた。

 大樹は望と同じ電車通学だ。家の方向は正反対だが、学校を出て乗る駅は同じはずだった。大樹が学校を出てまだそれほど時間は経っていない。もしかしたら駅で捕まえることが出来るかもしれないというわずかな希望に、望は掛けてみた。

 ふと、教室に置きっぱなしにしてきた自分の鞄のことを思い出した。だが、教室に戻っている時間はない。制服のポケットには携帯と財布が入っている。とりあえずはこれだけあれば十分だった。鞄は、智明が気を利かせて保管してくれるだろう。

 望は勢いよく、学校を飛び出していった。


 100メートルも走ると、望の息が上がってきた。進むごとに足が重く感じてくる。

 上手く呼吸がしにくくなり息苦しさに弱音を吐きたくなってきた。そんな自分を叱咤しながら、望は走り続けていく。


 頼むから、間に合ってくれ!


 望は天に祈っていた。

 宗教とか神とか、そんなものを信じているわけではない。ただ、どうしても願わずにはいられなかったのだ。


 ようやく駅の外観が望の視界に映り、望はもう少しだと自分の身体に言い聞かせた。この足を止めたらどれだけ楽だろうか。誘惑が望を誘う。それを振り切るように、望はラストスパートをかけていった。


***


 同じ頃、駅構内では改札口を前に大樹が後ろを振り返った。

 構内は帰宅する学生の姿もちらほらと見受けられた。横を通り過ぎていく人たちの頭を通り越して、大輝は駅の外へと続く出入り口を見た。

 頭の中で思い描く人の姿は、何処にもない。

 自分を追ってくるはずがない。そう自分に言い聞かせて、大輝は目を細めた。

 大樹は望の顔を思い出していた。戸惑ったように見てくる視線が、苛立ちを生んでいく。望のすぐ側に立つ敦と、望の肩に置かれた手。敦の腕の中にいた望。

(・・・くそっ)

 大輝は顔を歪める。

 未練がましいにも程がある。大輝は自分自身をあざ笑った。望のことは諦めると決めたばかりなのだ。その矢先に望と敦が一緒にいる姿を見て、簡単に嫉妬してしまう。出来る事ならばあの場から望を奪ってしまいたかった。だが、それをしたところで望が自分と同じ感情を向けてくれる事はない。頭ではそれが分っているのだ。だが、心がついてこない。結局あの場所から逃げるように帰ってきてしまった自分を弱虫と罵るしか今の大輝には出来なかった。

 小さくため息を落とし、大輝は改札口に向き直った。視線を上へと向ける。そこに掲げられた電照掲示板には、大樹が乗る予定の電車の発車時刻が映し出されていた。

 次の電車が来るまであと10分と少し。

 大輝は鞄からポケットからカードケースを取り出すと改札口に向かって歩き出した。


 大輝は駅員の待機する一番端の改札口に向かう。

 手に持ったカードケースには、定期券が収められている。改札口の手前で大輝はその定期券を駅員に見せるように掲げた。小さく駅員が会釈をするのを確認して、歩き出す。

 すぐにカードケースをしまおうと大輝は手を下ろした。

 その腕を、突然につかまれて大輝は歩く足を止めた。

 振り返ると、そこには肩で苦しそうに息をしている望がいた。

「・・・望」

 望は酸素を求めるように激しい呼吸を繰り返していく。肉眼で確認できるほどに、望の額は汗で濡れていた。

「ハア、ハア、・・・やっと、追いついた」

 途切れ途切れに望は言った。

 大きく息を吸い込むと、まだ呼吸が荒いのだがそれでも望は背筋を伸ばして大輝の前に立った。

「ちょっと、話があるんだけど」

 そう言い出した望から、大輝は視線を逸らす。目線の先に、望につかまれた自分の腕があった。その箇所が、熱い。時間と共に熱を持っていくその箇所が、大輝の理性を焼いていく。

「通るの?通らないなら道空けてもらわないと」

 そう遠慮がちに駅員に言われて、望は慌ててズボンのポケットから財布を取り出した。その中に挟んでいた定期券を駅員に見せる。

 この場所にとどまることは出来ないだろうと、望は大輝を引っ張って改札口を抜けていった。


 駅は、改札口を抜けると上り線と下り線とで左右に道が分かれている。ホームに立つと、この上下線は線路を挟んで向かい合わせとなっている。

 望はその分かれ道の前で足を止めた。

 大輝の腕を掴んでいた手をゆっくりと離すと、改めて大輝と向き合った。

 さて、どんな言葉から切り出せばいいのか。望は未だに悩んでいた。

 思っていることを全部吐き出してこいと敦には言われているが、それを言葉で表現する事が上手く出来そうにない。

 これ以上大輝との距離を開けたくないと思っている望は、言葉選びも慎重になっていた。それ故に、最初の言葉がどうしても出てこなかった。

「三浦はいいのか?」

 ボソリと大輝が言った。

「え?」

「随分仲が良いんだな」

 知らなかった、と大輝は言う。大輝自身、捻くれた物言いだとは分っていた。だが、どうしても口をついて考えるよりも先に言葉が出てきてしまう。敦のにやつく顔が頭を過ぎり、大輝は加速的に機嫌を悪くしていった。

「あいつならお前でも付き合えるのか」

「なっ!?違う!あれは、そんなんじゃなくて・・・」

「別に、俺に言い訳なんてする必要はないだろう」

「大輝!」

「お前が誰を好きになろうが俺には関係ないんだし」

「ちょっ・・・なんだよ、それっ」

「良かったじゃないか、彼氏が出来て」

 大輝は鼻を鳴らして笑った。


 違う、こんなことが言いたいんじゃない。


 大輝は自分の言葉をスピーカーから流れてくる音のように感じていた。

 目の前で顔色を悪くしていく望を見て、息苦しくなる。


「俺のことは気にせずに仲良くやれよ」

 冗談じゃないっ、と思いながらも、大輝は正反対の事を言っていた。

「お前・・・話を聞けよ!」

 望が叫ぶ。呼吸を荒くしながら、大輝を睨み上げた。

 望の目は、怒りのためか赤くなっている。

「あれはそんなんじゃないんだ!三浦が調子に乗ってて、俺はそんなつもりまったくないし、冗談というか」

「冗談であそこまでするかよ」

「だからっ!会話の流れでああなったのであってだな」

「どんな流れだよ」

 信じられないと言った様子で大輝が言った。

 望は言葉を詰まらせる。

 まさか、告白の仕方を教わっていたとはとてもじゃないが言えなかった。しかも、望が告白をしようかと思い悩んでいた相手は大輝なのだ。言えるわけがない。

 黙りこんでしまった望を見下ろしながら、大輝は悲壮感を募らせていった。

 早くこの場から立ち去りたい。そうしなければ自分を保つ事が出来そうになかった。

 できることならば、力ずくで望を腕の中に閉じ込めたい。無理やりにでも自分のものにしてしまいたい。大気は荒れ狂う感情からめを逸らす事に必死だった。

「望、変に気を使わなくてもいい」

 静かに、僅かに残った理性を総動員して大輝は冷静さを取り戻す。

「ちゃんと・・・分ってるから」

 望は大輝の気持ちに答えることはない。普通の人ならば、同性からの告白を受け入れるだけの寛容さは持ち合わせていない。そして、望は自分とは違い普通の恋愛感を持っているのだ。この気持ちを受け入れてもらえるはずはない、と大輝は思っていた。

「大輝、・・・だから、俺は・・・」

「もういい」

 大輝の言い放った一言に、望は目を丸くする。

「もういいんだ。お前は友人だった俺を失うのが怖いんだろ。嫌なんだろう。だからこんなふうに追ってくるんだ」

 それくらい分っている、と大輝は態度で示した。だから、これ以上期待させないでくれと願う。追いかけてこられると、勘違いをしてしまう。都合の良い方へと考えてしまいたくなる。それが後、更に自分を傷つけ追い詰めてしまうだろうことを考えると、大輝は恐ろしかった。

 大輝は逃げるように望から視線を逸らす。

「俺も、すぐには無理だろうけど前みたいな友人としての関係に戻れるように努力する。だから、少しの間俺のことは放っておいてくれ。時間が欲しいんだ」

 望を諦める時間がなければ、自分はきっと暴走してしまう。こうして手の届く距離に望がいると、どうしても気持ちが高ぶってしまうのだ。自分が何をしでかすのか分らない事が、大輝には恐ろしかった。

「じゃあな」

 大輝は望に背中を向ける。

 望が何かを言う前に、足早に歩き出した。望の来ない上り線のホームに向かっていった。


 これでいい。

 振り返りたい衝動を必死で押さえ込み、大輝は足を止めることなく歩き続けた。

 階段を上っていく。

 一人の時間を持てば、この気持ちを忘れる事が出来るかもしれない。そうすれば、また以前のように望の側にいられるようになるのかもしれない。

 それだけが、大輝にとっての希望だった。


 取り残された望は、ただじっと、その場に立ち尽くしていた。

 固く握り締められた拳が、感情の高ぶりによって震えている。

(・・・くそ!)

 望は大輝が歩いていった先を睨む。すでに大輝の姿は何処にもない。

 徐に振り上げられた望の拳が、近くにあったコンクリートの壁に叩きつけられた。

「ふざけんなっ」

 周囲の目も何もかも、望の意識の中からは除外されていた。

 あるのはただ一つ、大輝が向かっていた先に続く道だけだ。


『上り線、間もなく発射いたします』

 駅員のアナウンスが、駅のホームに響き渡る。殆どに乗客がすでに電車に乗っていた。ホームに立つ人影は、駅員のものだけだ。

 大輝は電車に乗り込んですぐの場所に立っていた。ぼんやりと、車内に張られた広告を眺めていく。だが、そこに書かれた文字も絵も、なにも頭の中には入ってこなかった。

 駅員の吹く笛の音と共に、電車のドアがゆっくりと閉まっていく。

 これで、終わりだ。大輝は閉まったドアを見ながら思っていた。このドアが、大輝と望とを隔てる壁のように思えて仕様がない。

 一人、落ち着いて考えてみればみるほどに、大輝は昔のように友達として望の側にいられるようになるとは思えなかった。友達のふりを続けていく事も出来ないだろう。それほどまでに望の事を好きになっていた事に、大輝自身を多少の驚きを感じていた。

 過去、これほどまでに誰かを思ったことなどなかったのかもしれない。不毛な片思いはいくつもしてきた。友人であった男を好きになった事もあった。だが、自分の感情は常に隠し続けてこられたのだ。今でも友人として彼らと接することはできる。

(・・・なんで望なんだよ)

 望を好きにならなければ、今も望の側にいられたのに。

 その思い自体が望を好きだという証拠なのだ。ただの友人ならば、側にいたいとこれほどまでに強く願う事はないだろう。好きだからこそ、誰よりも近い場所で、触れられる距離にいたいと思ってしまうのだ。この想いが望を傷つけることになるだろうことは最初から予想できていた。本当は、それだけはしたくなかったのだ。離れたくなくて、傷つけたくなくて、頑なに自分の想いを隠し続けてきたというのに、そうやって築いてきた友人という立場がいまや瓦礫のように崩れ去っている。

 自分はどうすればよかったのか。大輝は誰にともなく問いかけていた。

(こんなにも好きになるとは思わなかった)

 大輝は自嘲気味に笑った。

(こんなはずじゃなかったんだ)

 過去と同じように、ただ見ているだけで終わるはずの恋だったのだ。

(俺は・・・ただ)

「大輝」

(そう呼んでもらえるだけで嬉しかったんだけどな)

「おいっ」

(側にいられるだけでいいと思っていたはずなのに、いつの間にか足りなくなって、もっと欲しくなって・・・)

「大輝!」

 突然腕を捕まれて、大輝は我に返った。名前を呼ばれたことにようやく気付いて振り返ると、そこには望がいた。睨み上げてくる視線がすぐ近くにあり、大輝の胸を締め付けていく。

「・・・なんで」

 大輝は動揺を隠せずにいた。見開いた目で望を食い入るように見つめる。

 電車はすでに動き出し、窓の外に見える風景はスピードを上げて横へと流れている。下り線に乗らないと家に帰れない望が、上り線の電車に乗っているはずはないのだ。大輝は駅構内で望と別れたのだ。いるはずのない望を前に、大輝は呆然としていた。

「俺はお前に話があったんだよっ。それなのに勝手に帰られたら学校からわざわざ追いかけてきた俺の苦労の意味がなくなるだろうがっ」

 不機嫌そうに望が言った。

 とりあえず逃げようとしない大輝を確認して、望は大輝の腕を掴んでいた手をゆっくりと離していった。

「俺さ」

 望が口を開く。

「いろいろ考えたんだけどさ」

 望の言葉が続いていくたびに、大輝の頭の中は冷水を浴びたように冷たく冷め、不思議なほど冷静になって言った。

 最後の審判が下される。

 大輝はごくりと唾を飲み込んだ。望の口からはっきりとした回答を今まで聞いてきたわけではない。意図的に大輝はそれを避けていた。うやむやのまま自分から区切りをつければ、これ以上傷つかずに済むと心のどこかで思っていたからだろう。

 緊張のためか、大輝の喉が渇いてきた。身体は硬直し、手は汗ばんでいる。

 それ以上は言わないでくれ!そう心の中で叫びながらも、大輝は無言で望の言葉を聞いていた。

「これでもかなり悩んだんだ。正直どうすりゃいいのかさっぱり分らなくてさ。俺は・・・こういうことには慣れてないんだよっ」

「・・・」

「それで、結論から言うとだな」

 望の目が泳いだ。次に続く言葉を言う事をためらっているように大輝には見えた。

 やはり、ここで引導が渡されるのだろう。二度と近づくなといわれるのだろうか、それとも異常だ変態だと罵られるのだろうか。

(別にいいさ。どうせもう側にはいられないんだ)

 大輝はそう思うと心が少しだけ落ち着いてきた。

(どうせ側にいられないなら、一回くらい押し倒しておけばよかった)

 そんなふうに大輝が考えを巡らせていることなど望はまったく知らない。今は自分のことだけで精一杯で、大輝の顔を正面からまっすぐ見ることすら出来ていなかった。

 望は、自分を奮い立たせるように大きく息を吸い込んだ。

「俺は・・・」

 望は勇気を振り絞って大輝を見た。視線が合う。大輝の瞳に自分の影が揺れ、それを見つけたとき無性に喜びがこみ上げてきた。大輝が自分を見ている。そう思うと重苦しかった心が少しずつ軽くなっていった。

(・・・やっぱり俺は)

「お前と離れるのは嫌だ」

 きっぱりと、望が言い切った。自分の言葉を反芻して、言えたことに満足するように方から力を少しだけ抜く。

「三浦に言われたんだ。こうなった以上、前みたいなただのダチっていう関係には戻れないって。それならさ、俺は他の方法を考える。その・・・付き合う、とか・・・さ」

 望の言葉に、しばし大輝は声を失った。

 今、望は何といった?記憶の中に残る望の言葉を思い返し、大輝は表情を曇らせた。

「・・・本気で言っているのか?」

「おう」

「望は分ってない」

 ため息と一緒に吐き出された大輝の言葉に、望は反射的に噛み付いてきた。

「なっ、何だよそれ!」

「俺はこういう冗談は嫌いだ」

「冗談じゃない!俺は真剣に考えて、そう思ったんだ!」

 望の言葉に、大輝は疑いの目を向けた。

「何も知らないからそんな事がいえるんだ。付き合うってことがどういうことなのか、本当に分ってるのか?俺はお前が好きなんだぞ」

「うお!?お前っ、そんなことをはっきり言うなよ!」

 望の顔が、恥ずかしさでほんのりと赤みを帯びていった。その表情が可愛いと、大輝の目には映っていた。

 触れたい。その衝動に駆られるように大輝の指先が震えた。だが、どうにかして自分の欲を押さえつけながら、大輝は絞るように声を出した。

「俺は、ガキじゃない。お手て繋いで散歩するだけで満足できるほど聖人じゃない。望に触りたいし、キスしたい」

 大輝はいっそう声を低くして言った。

「SEXだってしたい」

「っ!?」

 望は金魚のように口を開閉しながら大輝を見た。みるみるまに赤く染まっていく望の顔を見て、大輝は耐え切れないといった様子で視線を逸らした。

「望は・・・望の気持ちは俺とは違うだろ」

 言われて、望はうつむいた。

 大輝が離れていくという事にばかり意識が向き、肝心な事を見落としていたという事に今になって気が付いた。ここにきてようやく、望は大輝の気持ちに付いて考えてみる。「好きだ」とは言われたが、具体的にどうしたいのかが今まではさっぱり分らなかったのだ。男同士なのだから、友達という関係とどう違うのかも想像すら出来なかった。女の子とすら付き合ったことのない望にとっては、未知の世界といってもいいくらいだ。

「・・・分らない」

 表情を固くしたまま望は小さく言った。

「大輝の気持ちと俺の気持ちが同じなのか違うのか・・・分らない。どうやって比べればいいのかも分らないし、俺の気持ちとかってのもいまいち分らないというか・・・だけど!これだけはいえるぞっ。俺はお前が離れていくのが嫌なんだよ!」

 子供が駄々をこねるように望は言った。それだけは絶対に嫌なのだと、目に強い意志を込める。だがそれも、すぐに萎んでいってしまった。

「頼むから、離れていくなよ。今までみたいにさ、一緒にいたいんだよ。ちゃんと考えるから。お前の気持ちとか俺の気持ちとか、ちゃんと考えるから、だからもう少し時間が・・・欲しいんだ」

 望はすがるような視線を大輝に向ける。遠慮がちに、大輝の制服の袖を握った。


(・・・なんでこんな事になったんだ)

 大輝は眩暈を感じていた。

 目の前には捨てられた子犬のような目をした望が自分を見上げている。それだけでも理性が崩れてしまうかもしれないという危険な状態な上に、あろうことか望が自分の袖を掴んできた。僅かに感じる望の体温に、大輝の中の血液は一気に温度を上げていった。

 ようやく望みのない恋から開放されるかもしれないと思ったのだ。少なくとも望を傷つけずに済みそうだと安堵していたのだ。惚れた男が側にいて何も出来ないという生き地獄のような日々が終わると思っていたのだ。それなのに、自分がたどり着いた場所はどうやら地獄の入り口だったらしい。

 そう分っているのなら今望を突き放せばいい、と心の奥で自分が叫ぶ。

 だが、惚れた弱みなのか、すがってくる望を突き放す事など大輝には到底出来る事ではなかった。

 最後の足掻きとでも言うように、大輝は聞いた。

「時間ってどれくらいだ?」

「えっと、・・・一年、とか?」

「・・・」

 望の遠慮がちな答えに、大輝は眉間にくっきりと皺を寄せる。望は慌てたように言葉を付け足した。

「なるべく早く!・・・頑張るから」

 何をどう頑張っていこうとしているのか大輝には理解できない。望自身もこれからどうして行けばいいのかがさっぱり分らなかった。だが、今この手を離さないで済むならばどんな事でもしてやる、という意気込みだけはあった。

 神妙な顔で望は大輝の返事を待った。大輝の眉間に作られた縦皺は今もくっきりとその存在を主張している。望は不安で押しつぶされそうな心持を抱えたまま、大輝を見つめていた。

 大輝は、少しの間望を見つめ、そして深くため息を落とした。

 好きな相手にすがるように見つめられて、どうして突き放す事が出来るだろうか。そうできたのなら、きっと自分は新しいスタート地点に立てるかもしれない。だが、望を傷つけてまでその地点に立ちたいと思い切ることが大輝には出来なかった。

「・・・分った」

 苦渋の決断といった様子で大輝は頷いた。

 途端に望の表情が、まるで花を咲かせたように明るいものへと変わっていった。その笑顔に、大輝は今日何度目かの眩暈を感じていた。

 これから先もまたこの無防備な笑顔を前に指をくわえていなければならない日々が続くのかと思うと、大輝は選択を早まったのではないかと疑ってしまう。

「なるべく望が答えを出してくれるまで、俺は待つ。だけど、どうなるか知らんぞ。俺の我慢はすでに限界なんだ。もしかしたら俺は、お前を傷つけるようなことをしてしまうかもしれない」

「いいよ」

 念押しとばかりに言った大輝の忠告も、あっさりと望は受け入れた。その潔さに大輝は驚いて目を丸くする。やはり望は自分の気持ちを理解しきれていないのだろうと大輝は疑った。その大輝の訝しげな視線を受けて、望は口の端を上げる。

「大輝が何をしたっていいさ。俺を傷つけようと思ってすることではないんだろ。俺だって、お前を傷つけたいとは思わないし。それに、俺は嫌だと思うことは黙って受けたりしない。全力で抵抗する。お前を殴ってでも止めてやる。だから、そんなことは気にするな」

 望はにんまりとする。

 大輝の肩から力が抜けて言った。

「勇ましいな」

 感嘆の声を大輝は漏らす。望は嬉しそうに笑った。

「男らしいだろ」

「・・・だな」

(こういう馬鹿みたいにまっすぐなところを好きになったんだ)

 大輝は改めて、望を好きだという気持ちと向き合っていた。諦める事など出来ない。望という存在を知ってしまった今、望以外の人を好きになる事など想像する事も出来なかった。それだけ、大輝にとっての望という存在は魅力的過ぎたのだ。

「ってことで、これからもよろしくな!」

 望は拳を上げて、にやりとした。

 大輝も拳を作り、軽く望の拳に当てた。


 これからもずっと一緒だ。


 二人はあわせた拳に誓いを込める。


 望は嬉しそうに笑っている。

 大輝はまぶしそうに目を細めると、望の姿を見つめていた。

(・・・ここが電車の中だってことは、完全に忘れているよな)

 ようやくといったように思い出した大輝は、ひっそりと心の中で呟いた。

(忘れているならそのままにしておくか)

 周囲の目に気付いてしまったら、望はきっと恥ずかしさで走っている電車から飛び降りようとするほどに動揺することだろう。この穏やかな時間がもう少し続くように、大輝は向けられる好奇な視線から望を隠すように身体を傾けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ