06
朝の教室はいつも賑やかい。
挨拶や昨日のテレビの批評を交わし、仕入れてきた情報のやりとりでクラス内は活気付いている。それも担任教師が教室に入ってくるまでなので、皆時間を惜しむように口を開いては言葉や笑いを吐き出していく。
そんな明るさに満ちた教室内で、望は一人、憂鬱そうにうな顔で垂れ机に突っ伏していた。
智明が登校してきた事にも気付かないほどに、望は自分の世界に引きこもっていた。
声を掛けても反応がない、顔も見せない望を見下ろして、智明はため息をつく。
ちらりと視線を横へ向ければ、二席空けた横で大輝が気難しげな顔で黒板を睨んでいた。先ほどから、両者はピクリとも身体を動かさない。
智明はもう一度大きなため息を落とし、徐に拳を振り上げた。それほど力を込めずに、ためらうことなく拳を望の頭上に振り落とす。ゴンッと音を立てて、智明の拳は望の頭に命中した。
「おきろっ」
智明の声に、望はようやく重い頭を上げた。
「はよっ」
気を使って智明が明るい声を出した。
望は地を這うような低く擦れた声で挨拶を返してくる。
「朝から暗い奴だな」
智明は腰に手を当てて言った。
「何かあったのか?」
言って、智明はちらりと大輝を見た。
望が智明の視線を追う。大輝が視界に映ると、望は身体をびくりと震わせる。それを智明は目ざとく気が付いた。
絶対に何かあったのだと、智明は確信した。
ようやく以前のように三人で楽しくやれると思っていた矢先の事だ。自分が放課後のデートを楽しんでいる間にその期待が泡のように消え去ってしまったようで、その原因がいまいち把握しきれない事に智明は苛立ちを感じていた。だが、二人の状況から、今度は今まで以上に深刻な事態になっているらしい事は感じ取れていた。
とりあえず原因究明が第一だろう。智明は一番口を割りやすそうな望に的を絞り、何があったのかを聞き出そうと口を開いた。
「・・・一体」
「席に着けよ!」
智明の声を重なるように、担任教師のがなり声が聞こえた。
周囲は慌ただしく椅子を引き、それぞれの席へと戻っていく。
智明は軽く舌打ちをして、望の側から離れて自分の席へと戻っていった。
「んで?」
昼休み。
4限目が終わったと同時に智明は望を引っ立てるように中庭へと連行した。
行く途中で購買により、適当に智明は二人分の昼食を買い込んだ。それを目の前に広げながら、胡坐をかいた膝の上に手をのせて気合を入れる。
「何があったんだよ。お前も大輝も、今まで以上におかしいぞ」
大輝の名前が出た瞬間に、望はいっそう顔色を暗くさせた。
一体二人に何があったのか、智明は思い当たる事がなくて戸惑っていた。望の表情を見る限り、どうにもただの喧嘩ではない気がしてならない。
問いかけても望は押し黙ったままうつむくばかりだった。
智明は苛立ちを募らせながら、乱暴にパンの袋を破いた。大口を開けてパンにかじりつく。望は手に持ったパンを見下ろしたまま動かなかった。
(・・・持久戦か)
智明は心の中でため息を落とす。辛抱強く待つということが苦手な自分が何処まで望の言葉を待てるだろうか。すでに大輝を一発くらい殴ってでも口を割らせたい気分だった。だが、この昼休みくらいは待ってみるかと、智明は無言でパンを口の中に運んでいった。
「おっ、旨そうだな」
突然の背後からの声と、伸びてきた手に智明は振り返った。そこには敦が立っていて、顔を綻ばせながら足元に転がっているパンを見下ろしている。
智明が何かを言う前に、敦は勝手に智明と望の間に腰を下ろした。持参したパンを膝の上に置き、敦は手に持っていたコーヒー缶の蓋を開けた。
「三浦、悪いけど俺らちょっと話があるんだよ」
智明が声を低くして言った。暗に席を外せと伝えたはずなのだが、敦は知らぬ顔でパンの袋を開けると豪快に食べ始める。その様子に智明は苛付いた。
「三浦っ」
鋭く名前を呼ぶが、敦は智明を見ようとはしなかった。隣でうつむいて座る望に視線を定めている。
「朝倉に告白でもされたか?」
敦の言葉に、ようやく望が顔を上げた。驚いて目を見開いたまま敦を見る。
「・・・やっぱりか」
望の顔を見て、敦は笑みを引っ込めた。珍しく真面目な表情で姿勢を正す。
「え?何?告白って・・・え!?」
智明は混乱した頭で、望と敦とを交互に見比べていく。
「大輝が・・・告白、したのか?・・・望に?」
智明の言葉に、望が弱弱しく頷いた。そしてすがるような視線を向けてくる。
「何で・・・大輝が」
智明はまだ信じられないといった様子で呟いた。
それを望も知りたかった。どうして自分のことを「好きだ」と言ったのか。望には大輝の気持ちが信じられなかったのだ。
「池戸のことが好きだからだろ。ってか、好きじゃなきゃ告らないだろう」
当然とでも言うように敦が言った。最後の一口を口の中に放り込んで、飲み込んでいく。
「まあ、俺もちょこちょこと挑発はしていたし、友達ごっこも長くは持たないだろうと思っていたけどな。いやー、思った以上にあっけなかったな」
敦が笑う。
智明は、怪訝な顔つきで敦を見た。
「お前、知ってたのか?」
「ん?」
「大輝が・・・その、望の事を好きだって」
「ああ」
「・・・いつから」
「俺が気付いたのはゴールデンウィーク明けてくらいだな。なんとなくゲイだろうとは思っていたけど、あいつ結構分りやすいぜ。目がいつも池戸を追っているんだ。他の奴らとじゃれてる池戸を見てるときなんてかなり不機嫌そうだしな」
けたけたと敦が笑う。すぐに表情を引き締めると、敦は望を見た。
「朝倉は本気だと思うぞ」
敦は静かにそう言った。
望はびくりと肩を震わせる。恐る恐るといった様子で望は敦を見た。
「いきなりダチたと思っていた奴に告られれば、そりゃ戸惑うのが普通だろう。相手が同じ男なら、気持ち悪いって思うのも分らないでもない。でもな」
敦のまっすぐな視線が、望の心に突き刺さる。
「池戸が朝倉の事をダチにしろ別の存在として思っているにしろ、大切だと思うならちゃんと真剣に考えてやれよ。それが礼儀ってもんだ。朝倉の事を思うなら、はっきりとけじめはつけてやれ。気持ちを知った上で、良いお友達でいましょうねなんて女みたいに都合のいいこと抜かすなよ。それが一番朝倉にとって残酷な事だと俺は思う」
敦ははっきりと言い切った。冷たい言い方のようにも聞こえる敦の言い分に、智明は責めるような視線を送ってくる。それを敦は気付かない振りをした。
「・・・俺」
望は固く手を握り締めた。次の言葉が出てこない。頭の中には何も浮かんでは来なかった。
「とりあえず、お前がどうしたいかをまず考えてみろよ。その上で、ダチとしか思えないなら、そのダチのために一番いい方法を考えてみな」
「・・・でも、さ。俺、よく分らねーんだ」
ぽつりと、望は言った。
望の言葉に、敦は片方の眉を器用に上げる。
「何が分らないんだ?」
「・・・それが分らない」
望は意気消沈といった様子で肩を落としている。
敦と智明が目を見合わせた。
しばらくの沈黙の後で、ゆっくりと智明が口を開いた。
「望。お前さ、嫌じゃなかったのか?」
智明の言葉に、望は何を言われたのか理解できずに首をかしげた。
「だから、相手が大輝っていっても男なわけだろう。一度経験した俺から言わせてもらえれば、そういうことがだめなら絶対に嫌だって思うはずだ。俺は本気で気持ち悪かったぞ。張り倒して、二度とその面を見ないで済むように消し去ってしまいたくなるくらいに不快だった。そういうのが、ないのか?」
聞かれて、望は思案した。
「好きだ」といわれて、ただ驚いた。突然の事で、あの場では何も言う事が出来なかったのだが、こうして思い返してみると気持ち悪いといった感覚は望の中にはなかった。ただ、思い出すのは自分に背を向けた大輝の後姿だけだ。それが、どうしてだかとても悲しかった。
「・・・ないんだ」と呟いた智明の声は、望には届かなかった。
智明はもう一度、敦と顔を見合わせた。
「お前・・・」
智明が重い口を開く。苦悶の表情で望を見ていた。
「大輝が好きなのか?」
智明の言葉に、望は目を見開いた。その考えは望の中では一切なかったことだ。
「お友達って意味じゃねーぞ」
横から敦が言葉を付け足した。
「同性同士ってのは、まずそこに嫌悪感を持つかどうかが重要なんだ。もしそういった感情がなければ十分恋愛は成立すると俺は思うね。池戸が今嫌悪感を朝倉に対して持っていないのであれば、後は朝倉を恋愛の対象として見れるかどうかってことだな」
「そんな・・・急に言われても、大輝は俺にとってダチで・・・」
「朝倉が告った以上、恋人か赤の他人か、それをお前が選ぶんだよ」
「おいっ!」
敦の言葉に、智明が叫んだ。乱暴に敦の肩を掴む。
「やめろよ、そういう誘導尋問みたいなのっ」
智明の責める眼差しに、敦はへらりとする。
「悪い悪い、だけど間違ってはないだろう」
言われて、智明は言葉を詰まらせた。確かに、敦の言う事は一番現状を把握した上での正しい意見なのだろう。だが、それを今の望に平気で言える敦のことが智明には信じられなかった。杓子定規の考えを当てはめるには、人の心は曖昧すぎる。なにより、智明には敦が面白がっているとしか見えなかった。それが気に食わなくて、つい敦の意見と対立するような事を口にしてしまう。
「望、焦らなくても、ゆっくり考えればいいさ」
智明は望を慰めるように言った。
「だけど、ちゃんと答えだけは出してやれよ。お前は俺にとって大事なダチだけど、大輝も俺にとっては同じくらい大事なダチなんだ。ちゃんと二人が納得できるような結果を出さないと、絶対後悔すると思うから」
焦らなくてもいい、と智明は重ねて言った。
「あんまりもたもたしてると、どっちに転ぶにしろ修復が不可能になるぞ」
智明の言葉を茶化すように、敦が横槍を入れる。智明はじろりと敦を睨んだ。
「三浦は少し黙ってろよ。急いだってこういうことは仕方ないだろ」
「そう言っている間にも、どんどん溝は深くなっていくもんだ。時間が経てば経つほどにな。それこそ十年二十年経てばお友達の関係に戻れるかもしれないけど、そこまで気長にはしていられないだろう」
「・・・お前の言う事は極端なんだよ!」
「分りやすいじゃねーか」
「逆に分りにくい!」
「お前が分りたくないだけだろう」
敦がぴしりと言い放つ。
智明は敦を凝視し、その目を険しくさせていった。
「早瀬は、池戸もだろうけど、三人仲良くお友達でいたいんだよ。今までどおり何の変化もなく、な。それが一番当たり障りのない解決方法だって思ってるんだろ」
敦の言葉に、ピクリと望の肩が揺れる。
「だけどそれってさ、朝倉の気持ちは完全無視だろ。それでお友達とか言えるのかよ」
智明は奥歯を噛み締めた。
悔しい。言い返せない自分に智明は苛立っていた。
この男はどうしてこう人の神経を逆なでするような事ばかりを言うのだ。智明は忌々しげに敦を睨みつける。
望は、ゆっくりと頭を上げて敦を見た。すぐに、敦と目が合う。にやにやとした表情を浮かべていると思っていた望は、真剣な目をした敦を見て息を呑んだ。
敦は、望を見つめたままゆっくりと言った。
「少なくとも、朝倉の中ではもう答えが出ているはずだ」
敦の言葉に、望は怯えたように肩を震わせた。
頭を過ぎるのは、遠ざかっている大気の背中。
声を掛けても、それはどんどん小さくなっていく。
立ち止まってくれない。振り向いてもくれない。
大輝がどんな表情でいるのか、それが分らない。
望うつむいて唇を噛んだ。
ピリッとした痛みが回転の鈍くなっていく思考に刺激を与えていく。
考えろ、と望は自分に叱咤した。
好きか、と問われれば、分らないと答えるしかない。
だけど。
望は自分の中にある唯一確かな思いを、自覚した。
記憶の中にいる大輝の影に、言った。
なあ、大輝。
俺はお前の背中なんて見たくねーよ。
***
望と智明が中庭で向かい合っている頃、大輝は一人で廊下を歩いていた。
「朝倉っ」
声がして、大輝は立ち止まる。振り返ると、後ろから剣道部マネージャーの森が走り寄ってくるところだった。大輝の前に立つと、森は大輝よりも頭一つ低い位置で少し乱れた息を整えている。
「森先輩、どうしました?」
「これから昼か?」
「ええ、まあ」
「俺も何だ」
そう言って森は手に持っていた弁当袋を掲げた。
「一人か?」
「・・・まあ」
「珍しいな」
森は周囲を見回して言った。
「いつもつるんでいたのがいただろ。ほら、刃傷沙汰になりかけたっていう」
「早瀬、ですか」
「そうそう。あれも凄い奴だよな。噂が俺らの所まで来てるぞ」
森は笑った。以前智明のところに押しかけてきた男がちょうど森とクラスメイトだったのだ。乱闘騒ぎに森も駆けつけていて、一部始終を目撃していた。
「モテるってのは羨ましいけど、俺はどうにも・・・」
そこまでしゃべって、森は大輝に気付いて口を噤んだ。
大輝は森の気遣いに苦笑するしかなかった。
「気にしないでください」と言うと、森は少し安心したように息を吐いた。
「喧嘩か?」
「は?」
「いや、なんとなくさ。最近よく一人でよういるようだし、何かあったのかと思ってさ」
「・・・まあ」
大輝は言葉を濁す。簡単に「喧嘩」だと割り切れるような問題ではなかった。むしろ、ただの喧嘩であればどれほど良かったかと思ってしまう。「ごめん」「悪かった」のひと言で以前のように仲の良い友人に戻れるのなら、その方がずっと良い。そうすればまた望の側にいることが出来るのに、とそこまで考えて大輝は自嘲するように口元に笑みを浮かべた。今更言ったところでどうしようもないのだ。絶対に望にだけは伝えてはいけないことを言ってしまったのだから。一応「忘れてくれ」と言ってはおいたが、それで簡単に忘れられるほど望は割り切った考えをすることは出来ないだろう。簡単に忘れられることも、大輝にとっては嬉しくはないことだ。
煮え切らない大輝の受け答えに、森はそれ以上の追求をしなかった。
「飯、一緒にどうだ?」
明るい声で誘ってみれば、大輝は礼儀正しく頷いた。マネージャーといっても、森は大輝にとっては先輩だ。先輩からの誘いを断れるほど、運動部の上下関係は気安いものではない。そして、今の大輝には断る理由もなかった。どうせ望達とは一緒に昼を食べることが出来ないのだから。
昼食を用意していない大輝に合わせるように、森も購買へと寄っていく。生徒が群がる購買を遠目に見ながら、森は大輝を待っていた。
大輝は残りが少なくなった商品の中から適当にパンとおにぎりを選んで買った。
(・・・三浦っ)
群れの中からはい出るときに敦とすれ違った。一瞬、二人の目が合う。だが、大輝はすぐに視線を逸らした。一緒にいれば嫌な感情ばかりがわき出てきて気持ちが悪い。
大輝は急いで、自分を待っている森の元へと駆け寄っていった。
「お待たせしました」と頭を下げる大輝に、森は「早く行こう」と急かした。空腹を抱えたままで立ち話はしたくないということだろう。
敦の視線を感じながらも、大輝はその視線を無視して森の後へと続いていった。
森が食事をす場所として選んだのは、校舎の一階に置かれた書道教室だった。
そういえば、と大輝は思い出す。森は書道部員でもあったのだ。書道部自体は週に1回程度の活動しかしていないために、部活を掛け持ちすることも容易に出来てしまう。剣道の竹刀も握らない森が何故剣道部に所属しているかと言えば、幼なじみが剣道部に所属しているからだと以前聞いたことがあった。現在剣道部部長をしている幼なじみに巻き込まれる形で、入学時から森は剣道部でマネージャーをしているのだ。
「ほとんどあいつのお守りしかしてないけどな」とよく森は笑ってそう言っていた。剣道をしてみたらどうかと誘われても「俺は運痴だから」と絶対に竹刀を握ろうとはしない。それでもマネージャーとしての仕事は忠実にこなしてくれるので、剣道部員達は皆森の存在を重宝していた。
「今日は部長はいないんですね」
思い出したように、大輝は前に机をはさんで向かいに座る森を見ていった。
「ああ、今宮内先生と打合せ中なんだ」
宮内とは剣道部の顧問をしている社会科の教員だ。
「来週からやる武道館の工事のことですか?」
「そうそう。練習メニューとか考えないといけないからな」
森は口に放り込んだゆで卵を頬張りながら言った。
「工事は三週間だって聞いてるけど、その間武道館は全く使えないだろ。基礎練習とか自主練が主になってくるんだろうけど、身体をなまらせるわけにはいかないってずいぶん悩んでたな」
「何処か道場とか借りれると良いですね」
「そうだ!」
思い出したように森が叫ぶ。
大輝を見て嬉しそうに笑った。
「近くの公民館を借りれるらしいぞ。ダンスなんかもやってるらしくて、板張りの広い部屋があるんだってさ」
「そうですか。よかったです」
「まあな。でも、毎日って訳にはいかないみたいで、週に3日程度がいいとこだろうって言ってた」
「それでも十分ですよ」
「だな。さすがに教室内で竹刀を振り回すわけにはいかないしな。外っていうのも毎日になると嫌になるし」
「そうですね」
「柔道部なんかはこの1階の西にある空き教室があるだろ、そこを使うんだって言ってた。畳引けばどこでもできるからって」
「畳は持ち運べるやつですからね」
大輝の受け答えに、森は頷く。
「今回の工事に合わせてその畳も作り替えるんだってさ。いいよなー、俺らのところの板張りも新しくして欲しいよ」
森がぼやく。
「工事って言っても耐震補強だもんな。少しはリフォームもしてくれるらしいけど、確か・・・部室は綺麗にしてくれるとかいってたな。あとシャワー室も」
森は嬉しそうに言う。
「狭いのは変わらないんでしょうね」
「まあ、それは仕方ないんだろうな」
大輝と森は目を合わせて苦笑した。
「そういえばさ、柔道部で思い出した」
食べ終えた弁当箱を片付けながら、森は大輝を見た。
「お前さ、岡田と何かあったか?」
突然上げられた聞き覚えのある名前に、大輝は驚いたように森を見る。
落ち着けと自分に言い聞かせる。
頭の中には、望の首を絞める岡田の姿が蘇る。ざわりと、血が騒いだ。目の奥が熱くなり、あの時の怒りが蘇ってくる。それを悟られないようにと、大輝は静かに息を深く吸い込んだ。
森は、様子の変わった大輝に気付いて「やっぱりそうか」と心の中で頷く。
「何かって、何ですか?」そう言った大輝に、森はやれやれといった様子で肩をすくめた。努めて普段と変わらぬ口調で言葉を続けていく。
「それを俺が聞いてるんだよ」
押し黙ってしまった大輝を前に、森がどうしたものかと思案した。
「俺が何か聞いたわけじゃないけど、柔道部の部長から相談を受けたんだ。どうにも岡田の様子が最近おかしいんだってさ。お前の方をちらちら見てはこう・・・思い詰めているって感じの顔をしたりしてさ。向こうはもうすぐ北高との練習試合を控えてるだろ。北高はうちよりも成績が良いから、練習試合でも勝てると箔が付くっていうかさ、とにかく気合いが入ってるんだよ。それなのに岡田の調子は下降気味らしい。岡田は柔道部の大将だからな。あいつがこけると全体が共倒れになるんじゃないかって部長が心配してるんだってさ」
話自体は森も又聞きのようで、噂話のように大輝に話した。
大輝は、最後に見た岡田の顔を思い出していた。岡田は憎しみの篭もった目を望に向けていた。だが、岡田は決して馬鹿ではない。大輝はそう思っていた。時間を空けて冷静になれば、自分の愚かな行動にも気付くはずだ。智明のことにも自分なりに折り合いを付けられるだろう。ただ、それにはまだもう少しの時間が必要だということだ。
「俺が直接関係しているわけではないです」
「少なからず何かはあったわけだ」
「まあ、・・・揉めたのは早瀬とですから。そこら変で少し飛び火はしました」
「・・・また早瀬か」
森が顔をしかめた。大輝が苦笑する。
「すみません」と謝ると、森は慌てたように大輝の頭を上げさせた。
「原因は何なんだ?やっぱり、この前みたいなことなのか?」
「俺は当事者じゃないんで」
話すことは出来ないと大輝は首を横に振った。
「今回はどちらが悪いとかそういうものではないんです」
「・・・でもなあ、放っておく訳にもいかないだろ」
「放っておいた方がいいと俺は思います」
むしろ、部外者が手を出す方が事態を悪化させる原因となると大輝は思っている。
「時間が経てば、解決すると思いますから」
何もしないでくれと、大輝は森に目で訴えた。
「・・・わかった」
森は神妙な顔で頷く。
「練習試合までに解決してくれるといいんだけどな」大輝の言葉を受け入れたといえど納得しきれていない様子の森がぼやいた。
「じゃないと、柔道部の部長がいらんお節介を焼きそうだな」
「あの人は割と世話焼きですからね」
「暑苦しいほどに人情家だからな」
森が笑い、大輝もつられたように表情を和らげた。
不思議な感じだと、大輝は思う。
いつもなら隣には望がいて、智明もいる。大輝は二人の話を聞きながら昼休みを過ごすのだ。それが普通で、当たり前に訪れる日常だと思っていた。
こうして離れてみて、大輝は改めて二人が側にいることが自分の日常の一部となっていることに気付かされていた。一人になることの方が違和感を感じてしまう。
早くこれになれなければと思えば思うほど、焦りのような感情が押し寄せてくる。
(・・・望)
大輝は窓の外に目をやった。
きっと、望はいつものように中庭にいるのだろう。智明と二人か、それとも・・・。
大輝の頭の中に敦の顔が浮かび上がる。自分をあざ笑うかのような薄笑いを浮かべている。
突然望の側に近づいて、自分との間に割り込んできた男。大輝は敦の存在が目障りで仕方がなかった。だが、それを主張するには自分の立場が弱すぎる。気持ちを伝えてしまった今は、望の側に射られるかどうかも絶望的なのだ。
(今更友だちにも・・・なれないしな)
乾いた笑いが大輝の口から漏れた。自業自得だ。
大輝は握る手に力を込めた。
「おいっ、朝倉!」
突然の森の声に、大輝は我に返る。
見ると、森が慌てたようにポケットからハンカチを取り出していた。
「こぼれてる!」
そう叫んだ森の声で、大輝はようやく自分がカミパックのコーヒーを握りしめていたことに気がついた。ストローの口からコーヒーが溢れ出している。
森は大輝の手からコーヒーのパックを取り上げると、持っていたハンカチでコーヒーがこぼれた場所を拭いていった。袖口と胸元や膝にこぼれたところもあわただしく拭いていった。
「すみません」
恐縮するように大輝が言う。
森は手を止めて大輝を見上げ、微笑んだ。
「お前でもこういうドジを踏むんだな」
いいながら、森はまた手を動かし始める。その手を大輝が握った。森の手からハンカチを受け取ると、大輝は自分でこぼれたコーヒーを拭っていった。
その様子を、森は眺めている。
「朝倉はいつもそつなく何でもこなすから、俺らとはできが違うんじゃないかと思っていたけど、人間らしいとこもあるんだな。安心した」
「・・・けなされているように聞こえるんですけど」
「誉めてるよ、ちゃんと」
「・・・はあ」
納得できないと言いたげな大輝を見て、森が声を上げて笑った。
その笑顔には邪気がないために、大輝は文句を言うことも出来ずに黙々と森のハンカチで制服を拭いていった。
***
同じ頃、望は智明と敦を連れ立って中庭から教室に戻るところだった。
敦が近道をしようと言い出して、三人は1階の非常口から校舎へと入り、昇降口を目指して歩いていた。三人とも下靴を手に持っているために足音はほとんどなかった。
書道教室の前を通りかかったとき、不意に敦が足を止めた。
「朝倉!」と誰かの叫ぶ声が聞こえて、望と智明も足を止める。
窓硝子から教室の中を覗くと、そこには大輝がいた。目の前には望達に背を向けるようにして座る男子生徒がいた。男子生徒は立ち上がり、大輝に身を寄せていく。
望は息を殺すようにしてその様子を覗いてた。
大輝の手が、その男子生徒の手を掴む。二人は見つめ合うように視線を絡めていた。
(大輝!)
喉から出かかった声を無理やりに押さえつけて、望は唇をかんだ。手に持っていた下靴を握り締める。
そして、全てに背を向けるようにして望は走り出した。
突然の望の逃走に、同じように中を覗いていた智明が声を掛けようと口を開く。だが、それを敦が遮った。智明の肩に手を置いて、その場を離れるように促していく。
智明は書道教室にいる大輝と走り去っていった望の両方を気にするように視線を左右に振りながらも、敦と共に望の後を追っていった。
昇降口に来て、智明は望がまだここに来ていないことを知る。先に走っていったはずの望の下靴が下駄箱に収められてはいないのだ。代わりに、上靴が綺麗にそろえられて仕舞われている。
「何処いったんだ・・・」
探しに行こうとした智明を、敦が呼び止めた。
「授業が始まれば戻ってくるさ」
呑気に言う敦の声が、智明の苛立ちを煽っていく。
さっさと上履きに履き替えた敦の背中に、智明は冷たい声で言った。
「お前、知ってたのか?」
敦は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。へらりと笑う敦の表情からはその裏に隠された思いまでは読み取れない。何を考えているのか、こういう時の敦からは全く知り得ることが出来なかった。それが馬鹿にされているようにも感じてしまい、智明は更に苛立ちを募らせていく。
「何が?」
「とぼけるなよ」
「真面目に聞いてるんだけどな」
「なら真面目に答えろ。お前、大輝が書道教室にいること知っていてわざとあそこを通るように仕向けただろ」
智明の強い視線を受けて、敦はにやりとする。
やはり、と智明は確信を持った。だが、敦の返答は智明の期待通りのものではなかった。
「知っていた訳じゃない」
「はあ?嘘付くなっ」
「嘘じゃない。ただ、あそこにいるかもしれないという予想はしていたけどな」
「だからわざと通らせたのか」
「それは偶然だろ」
「お前が非常口から入ろうって言ったんだろうが!」
「それを拒否れば、俺はそれ以上は言おうとは思っていなかった」
敦の言葉に、智明は顔をしかめた。
「無理強いするつもりもなかった。だけど、お前らはすぐに俺の提案に乗ってきた。俺が仕組んだ事じゃない」
「お前がそんな提案をしなければ余計なものを見ずにすんだんだよ!」
「それこそ偶然だ。俺が狙っていた訳じゃない」
敦と智明がにらみ合う。先に力を抜いたのは敦の方だった。
「なあ、こういうのを水掛け論って言うんじゃないのか?」
「・・・お前さ」
智明は未だに敦を睨んだまま、唸るような声を上げる。
「一体何がしたいんだよ」
智明の言葉に、敦は口元に浮かべていた薄ら笑いを消した。
「急に望の側に張り付きだして、大輝を挑発したかと思えば牽制したりして。意味わかんねーよ」
吐き捨てるような智明の言葉に、敦は笑った。その場を取り繕うような調子の良い笑みではなく、智明の初めて見る冷たい笑みだった。高飛車に、人を見下すような目で、敦は智明を見る。だが、その表情もすぐに消えてしまい、残ったのはへらりと笑ういつもの敦だった。
「人にはそれぞれ思うところがあるんだよ」
敦の言葉に、智明は目を見張る。
「お前・・・」
智明は言葉を詰まらせた。「何だ?」と聞き返す敦から目をそらす。
「何でもない」
「そっか。とりあえず、教室に戻らねーか?」
「望は・・・」
「頭が冷えたら戻ってくるって」
「でも」
「今俺らが何かしたって、役には立たねーよ」
敦の言葉に、智明は黙り込んでしまった。確かに、今望を探し出したとしても掛ける言葉は見つからない。望の気持ちがよく分からない今は、アドバイスのしようもないのだ。
「行こう」と言って歩き出した敦を見やり、渋々といった様子で智明は後を付いていった。
(もしかして・・・)
ひっそりと心の中で疑問を繰り返しながら、智明は先を歩く敦の背中を見た。
(三浦って望のことを・・・)
今までの敦の行動を思い返してみながら、智明は考える。
(・・・まさかなー)
自分の考えに智明は苦笑した。
(そうごろごろとホモが転がってるわけないよな)
自分に言い聞かせるように、智明はそう結論づけていった。
特別教室へと続く階段の踊り場。
望は壁に背を付けて座り込んでいた。足下には持ってきた下靴が転がっている。
少し黒ずんだコンクリートの白い壁をぼんやりと眺めていた。
頭の中には先ほど見た大輝と男子学生の姿が浮かんでは消えていく。
望は無言で転がっていた下靴を掴む。徐に手を振り上げると、下靴を壁に投げつけた。バシッ音を立てて下靴は壁に叩きつけられ、床へと落ちていく。
その様子を眺めながら、望は噛み締めていた奥歯に力を込める。
「・・・なんだよ」
呟いた声は、静まり返った踊り場にやけに大きく響いていく。
大輝が誰と一緒にいたのかは知らない。だけど、先ほどの大輝が誰を見ていたのかは分る。それが自分ではなく大輝の前にいた男子学生だということは一目瞭然だった。
「俺が好きなんじゃなかったのかよ」
望はクシャリと顔を歪めた。鼻の奥に刺されたような痛みがあった。
ズズッと音を立てて望は鼻を啜った。
どうにも全てがはっきりとせず、あやふやなままの状態が気持ち悪い。
「もう・・・わけ分んなねー」
望は胸の辺りに手を添えると、制服を握り締めた。その辺りがむかついていて、吐き気がこみ上げてくる。
「どうすりゃいいんだよ」
望は額を折り曲げた肘の上につけた。うずくまるようにして身を縮める。
思い出すのは、視線を合わせようとはしない大輝の姿だけだ。いつから、自分の記憶がそんなものに摩り替わってしまったのか。
このままではいけないと、自分の声が叫んでいる。
自分以外の人を見る大輝を見せつけられたとき、望は息苦しさに眩暈がした。思い出しただけでもその時の苦しさが蘇ってくる。
「このままじゃあ・・・」
望は唇をかんだ。ゆっくりと頭を上げると、離れた場所に自分の下靴が片方転がっていた。
「・・・大輝のアホっ」
望は自分の膝を抱きこむようにして顔をうずめて呟いた。




