05
大輝の様子がおかしい。
望がそのことに気が付いたのは昼休みの最中だった。
いつものように智明と三人、中庭で昼食をとっていた。三人で話をして、笑いあう。いつもと同じ光景なのだが、大輝が自分を見ようとしない。
思い返してみると、朝から大輝は望と目を合わせようとはしなかった。
言葉は交わすのだ。大輝は目の前で笑みを見せている。だが、自分を見ない。智明のことは見るのに、望のことは見ようとはしない。
そのことに気付いたとき、望は心の中に一つ二つと小さな錘が積みあがっていくような感覚に襲われていた。
智明の様子は普段と代わりがないために、きっと大輝の異変には気づいていないのだろう。
伺うように大輝を見る望だったが、聞き出すきっかけをつかめずに、結局うやむやのまま昼休みを終えて教室へと戻る羽目になってしまった。
そんな状態が一日、二日と続いていくと、望の苛立ちも少しずつ表面化していくようになった。
無理やり大輝に話を振ってみては、反応を伺うように観察する。大輝は望を無視することもなく、普通に受け答えをしてきた。ただ、望を見ようとしないだけなのだ。それが望にとっては腹立たしいことだった。
「何かあったか?」とそれとなく聞いてみれば、「別に何も」とそっけない返事が帰ってくるだけだ。そのときすら、大輝は望から顔を背けていた。
「俺を見ろよ!」と怒鳴りたい衝動に駆られる事もあったのだが、どうにも恥ずかしい台詞のように思えて、とてもではないが望にはいえない言葉だった。
智明に救いを求めようにも、智明は気付いていないようだし、望にはどう説明していいのかも分らない。
「・・・どうすりゃいいんだよ」
放課後の誰もいない教室で、望は頭を抱えていた。
今日は特にすることがない。時間を持て余して、だが家に帰る気分にもなれずにこうして教室で時間を潰していたのだ。
やることがないと、考えてしまうのは大輝のことばかりだった。
突然のカミングアウトから全てが一変してしまったかのようだ。今まであれほど仲の良い友人だった大輝のことが、今では何を考えているのかさっぱり分らない。どこか遠くにいる人のように感じて仕方がなかった。
(元に戻るなんて、無理なのかな)
望は以前敦から言われた言葉を思い出していた。
「なんでこんなふうになっちまったんだろう」
声に出して、自分自身に聞いている。当然、返ってくる答えなどない。
だが、大輝との関係が変わってしまった瞬間は分っている。
「・・・ゲイ、か」
いまいち実感のない事実に、望は顔をしかめた。
男を好きになるということは、本当のところどういうことなのだろうか。女を好きになるのと同じ事なのだろうか。相手を人としてみれば、性別など関係ないのかもしれない。そう考える事も出来なくもないのだが、やはり感情が受け入れきれない部分が望の中にはあった。
「好きって・・・なんなんだろうな」
(大輝にもいるのかな、・・・そういう好きな人とか)
いたら、その相手は男なのだろう。それは友人とは違う立場になるものなのだろうか。違うのならば、自分とその相手はどう違うのだろうか。
(大輝に好きな人が出来たら、俺といるよりもそいつといたいと思うんだろうか・・・いないのかな、そういう人って・・・いたらどんな人なんだろう。大輝と並んでもきっと釣り合うぐらいの人かな。俺みたいにちびじゃなくて、かっこよくて・・・)
そこまで考えて、望は我に返った。
「・・・なんでっ」
(俺とそいつを比べないといけないんだよ!)
馬鹿か、と自分に悪態をつく。
「あー・・・もう!わけ分んなねーよ!」
望は降参とばかりに足を投げ出し、椅子の背もたれに体重を傾けた。
誰でもいいから助けてくれよ!
心の中で叫ぶ声は、誰も受け取ってはくれない。
「俺もゲイにでもなれば大輝の気持ちが少しは分るのかな・・・」
自分の言葉に、望は激しく頭を振った。
どうにも思考がおかしな方向へばかり向かってしまう。やはり疲れているのだと思った。だからくだらない事まで思い悩んでしまうのだ。
「はあー、・・・ったく、俺の気も知らないでさ」
ここにはいない大輝を思い、望はいっそう顔を曇らせていった。
「あれ?」
誰もいないはずの教室で、望は声を掛けられた。
びくりと肩を震わせて、望は振り返る。
丁度教室へと入ってきた敦と目が合って、「なんだ、三浦か」と望は肩から力を抜いていった。
「まだいたんだ」
望の前に立った敦が、見下ろしてくる。
「おう」
「どうした?」
敦が聞いてきた。最近そうやって敦に聞かれることが増えている気がした。
「朝倉とまた喧嘩でもしたのか?」
聞かれた言葉に、望はまじまじと敦を見た。
智明は気付いている様子を見せなかったのに、なぜか敦には大輝の異変が分っていたようだ。自分たちの関係が少しおかしい事も気づかれていたらしい。さすが「自称感受性豊かな男」だけのことはある。渡りに舟とばかりに望は敦の腕に飛びついた。
自分でも説明しきれないことなので、正直いって敦に全てを理解してもらえるとは望もそこまでは期待をしていなかった。だが、敦は望の言いたいことの要点を正確に聞き取っていく。それだけで、望は敦に対して信頼を深めていった。
「変だろ?」
真剣な顔で言ってくる望を前に、敦の表情は次第ににやついたものへと変わっていった。
敦の手が望の肩に置かれる。
「あいつにもいろいろあるんだよ」
「いろいろって何だよ」
「それは、まあ・・・想像の域をでないから、俺の口からは言えないけどな」
「意味分んねーよ」
「まあまあ」
敦が望の肩を軽く叩く。
「少し時間をやれよ」
「・・・」
「そうすりゃ、朝倉も少しは落ち着くだろうさ」
仏頂面の望を苦笑したように敦が見る。
「しかし、池戸っていつも朝倉の事考えてるよな」
「え!?」
驚いたように望は目を見張った。
「そうか?そんな事ないと思うけど」
「いいや、そうだね」
間違いなくそうだ、と敦が言葉を付け加える。
「池戸にとっての一番は、とりあえず朝倉なんだなとか思うよ」
「だって、・・・大輝は友達だし」
「ランク付けで言ったら一番が付くだろ」
敦の言葉に望は困ったように口元をひくりとさせる。
「早瀬もいるから、俺は池戸にとっては三番目以下ってことか」
「俺はっ、・・・ダチに順番なんてつけない!」
「それなら」と敦は望に身を寄せていく。
「俺も朝倉と同じ場所に置いてくれるか?」
敦の目が意外にも真剣で、望はその目に引き寄せられる。「だから、俺は・・・」と弱弱しい声で弁解しようとしても、はっきりと告げることは出来なかった。
確かに、望の中では敦よりも大輝の存在のほうが大きいのだ。それをランク付けと言われるとどう否定していいのかが分らない。
望は敦から逃れるように俯き、視線を逸らした。
「池戸」
敦が望を呼ぶ。
(何で俺、・・・こんな、ドキドキしてんだよ!?)
自分の中に渦巻く感情が理解できずに、その正体すらも分らずに望は困惑していた。
不意に、望は腕をつかまれて引き寄せられた。強引なその力に引きずられるように椅子から立ち上がり後ろへと倒れこむ。
何かにぶつかり、望は倒れずに済んだ。
恐る恐るといった様子で、望が振り返る。そこには大輝がいた。望の腕をしっかりと掴んだまま離さずに、大輝は敦を睨みつけていた。
突然の大輝の出現に、望は軽いパニックを起こしていた。先ほどの敦との会話を聞かれていたのではないかと思うと、どうにも顔をあわせるのがためらわれてしまう。
何も言わずにいる大輝の存在も、少し怖かった。つかまれた腕が痛い。
大輝の視線を受けて、敦の眉がピクリと動く。そしてにやりと口元を歪めた。
「どうした?朝倉」
明るい声で敦が話しかけた。
大輝は無言で、敦を睨む目を細めた。答えるつもりがないのか、大輝は掴んでいた望の腕を引いた。
「た、大輝?」
「望に近づくな」
大輝は敦だけを見て、言った。険を含むその声は、地の底を這うように低く冷たいものだった。
敦は何がおかしいのか、楽しげな表情で大輝を見ていた。にやりと口元を歪める。
「お前に言われる筋合いはないと思うけどな。保護者でもないのに、池戸の交友関係にまで口を出す権利がお前にあるのか?」
敦に問われて、大輝は忌々しいといったように表情を険しくさせていった。
「お友達に新しく仲の良い男が増えていくのが気に食わないのか?はっ、小学生の嫉妬かよ」
敦は嘲る様に大輝を見た。
何も答えないところを見ると、大輝は反論するだけの材料を持ち合わせてはいないのだろう。そのことが敦に勢いを付けていく。
「しかも、お前は自分勝手に池戸を振り回している。池戸が悩んでいるのをお前だって分っているだろう」
敦は大輝を追い詰めるように言葉を並べていく。
「友達のお前が勝手に怒ったり離れようとしたりするから、訳が分らずにいるんだ。なあ、いい加減にしろよ、朝倉。お前の勝手な都合で周りを振り回すんじゃねーよ。言いたい事があるならはっきり言えばいいだろ。友達なら悪いところは直して、また付き合っていけばいいじゃねーか。何も言わずに拒絶するだけってのは卑怯だろ」
敦の強い視線が大輝を捕らえる。
大輝は何も言わずに、敦から視線を逸らした。
「頭冷やして考えて、話し合えよ。池戸も、この際言いたいことは全部言っちまえ。それで朝倉が怒るようなら、こんな奴捨てちまえばいい」
言いたい事だけ言い終えると、敦は小さく息を吐いた。
「池戸、この馬鹿の席が空いたらそこに俺を入れてくれよ。俺は朝倉と違って後のフォローもマメだから」
敦の言葉に、大輝の表情がいっそう険しいものになっていく。それを鼻で笑い、敦は片手を振った。
「じゃあな」と、望の横を通り過ぎていく。
望は出て行く敦の背中に呼びかけてみたが、敦は振り借りもせずに片手を振って見せるだけだ。後を追おうと一歩足を踏み出して、いまだに大輝につかまれていたままの腕が望の歩みをさえぎった。
完全に敦の姿が教室から消えてしまうと、後に残ったのは怒ったような顔をした大輝と戸惑うだけの望の二人きりだった。
「あの・・・腕」
遠慮がちに、望が大輝に言った。
捕まれたままの腕と大輝との顔を交互に見る。
大輝ははっとしたように望の腕を開放した。
強く握られていたためか、突然開放された腕は血液が一気に流れ出し、じんわりとした痺れが広がっていく。その不快な感覚を紛らわすように望は腕を擦った。
その様子を見ていた大輝が、あからさまに顔を背けた。
「・・・悪い」と小さい声で謝られて、望は顔をしかめた。何に対しての謝罪なのかが分らない。確かに謝って欲しいこともあるのだが、どうにも素直に受け入れられる謝罪ではない気がしていた。
「何がだよ」
気が付けば、望は不機嫌な声を出していた。
「お前、最近そればっかだ」
望むの言葉に、大輝は視線を逸らしたままボソリと呟く。
「気持ち悪い、だろ」
望の腕を擦っている手をちらりと見る。
(・・・あっ)
望は息を呑んだ。自分がなぜだか大輝を傷つけてしまったということに気が付いた。 友人としての関係がどうにもぎこちなくなっている今、望はここで大輝を失ってしまうのではないかと思った。大輝は自分がゲイであるという事について、自分たちに引け目のようなことを感じているのだと望は思っていた。だから、これ以上そのことでお互いの間の溝が深くなってしまうと、本当に友人としての大輝を失ってしまうと思い至ることは当然の事だ。
(嫌だ!)
望は強い衝動に駆られていた。大輝を失いたくない、それだけの思いで望は大輝の右手を掴んだ。
「気持ち悪くなんてないぞ!」
大輝の手を強く握り締め、望は叫んだ。嘘じゃない事を分ってもらいたくて、望はまっすぐ大輝の目を見つめる。その強い眼差しに、握られた手の力強さに、大輝は息を呑む。驚いて見開かれた目が、つかまれた手を、そして望の目に向けられる。
二人の合わさった手の中が、じんわりと汗ばんでくる。それがどちらのものかは分らない。
大輝はごくりと唾を飲み込んだ。
徐に、つかまれていた手を引き寄せる。突然の事に、望は抵抗することなく引き寄せられ、気がつけば大輝の腕の中にいた。
大輝は左手を望の背中へとまわし、抱きしめた。握られていた手を、強く握り返す。
(え?・・・何?)
望は現状の把握が上手く出来ずに硬直していた。
抵抗しない望を、大輝は両手で強く抱きしめる。そっと顔を寄せて、大輝は望の耳元で囁いた。
「望」
熱を帯びた吐息が、望の耳元に吹きかけられる。
望の身体がしびれるように震えた。
抱きしめてくる腕が、自分とは比べ物にならないほど逞しく感じる。少し身体をよじり抱きしめる腕をはがそうとしても、大輝の腕はびくともしないのだ。ぴたりと張り付いた大輝の胸板が、熱い。自分のものか大輝のものかわからない心が耳に届く。
「た、・・・大輝」
弱弱しい声が、望の口からこぼれた。
すぐ側に感じる大輝が自分の知る大輝ではなくて、恐ろしさが生まれてくる。
名前を呼ばれ、大輝は我に返ったように望の身体を押しのけるように引き離した。触れていた手を引き込めて、固く拳を握る。
「大輝?」
望の声に、大輝は歪められた顔を向けた。
「悪い」と呟き、すぐに視線をそらされる。
大輝は何もない床を見つめていた。喉に力を込めて、声を振り絞る。
「やっぱり、・・・今までのようには出来ない。もう・・・限界なんだ」
大輝は固く瞼を閉じた。とても望の顔を見ることが出来なかったのだ。
「・・・大輝、・・・なんでだよ!お前、一体どうしちまったんだよ!」
「悪い」
「悪い、だけじゃ分んねーよ!分るかよっ、そんなんで納得なんて出来るわけないだろ!」
「好きなんだよ!」
望の畳み掛けるような言葉に押されるように、大輝が叫んだ。
何を言われたのか分らずに、望はきょとんとした顔をする。
大輝は相変わらず何処を見ているのか分らない目線だ。
「・・・何、言って・・・」
「好きなんだ」
静かに、大輝が繰り返した。
ゆっくりと大輝が望を見る。
望は息を呑んだ。
一体、大輝が何を言い出したのか望には分らなかった。言葉の意味は分っている。だが、それを理解できるだけの思考回路が望の中では働いていなかった。感覚が麻痺してしまったかのように、何も感じない。
「・・・誰を?」
「お前だよ」
「・・・冗談」
「なわけあるか。俺は、望が好きなんだ」
大輝の言葉に、望は息を呑んだ。
「好きなんだ。ずっと、好きだったんだ。だからお前と友達でいるのは・・・きつい。俺にはもう、それを続けていくのは無理だ」
大輝が奥歯を噛み締める。
(・・・こういうの、見たことあるな)
ぼんやりと、望は目の前にいる大輝を眺めていた。
今この状況が、まるでドラマか映画を見ているような錯覚を覚えていた。大輝の存在がスクリーン越しに映し出される俳優のように遠い存在に感じてしまう。大輝の声がスピーカーを通したような少しエコーの掛かった音に聞こえていた。
反応を示さない望に、大輝は乾いた笑みを浮かべた。
「別に返事を期待しているわけじゃない。俺の想いが叶うなんて、はじめから思ってないし、お前に無理強いするつもりもない。ただ・・・もう隠しているのが辛くて、何もないふりをして望の側にいるのが耐えられないんだ。いつか絶対に・・・限界が来る。いや、もう来てるんだ」
大輝がふっと、柔らかい笑みを見せる。
「ただ言ってしまいたかっただけなんだ。・・・忘れてくれ」
そう言い残して、大輝は教室から出て行った。
望の目が、大輝の背中を追う。
だが声を掛けることは出来なかった。呼び止めることが出来ず、ただ望は視界から消えていく大輝の背中だけを眺めていた。
夕暮れに染まる教室。
日は完全に落ち、室内に薄暗い闇が広がっていく。
一人残された望は、立ち尽くしたまま教室の入り口を見つめていた。
「・・・なんだよ」
ややあと、望が呟く。
力尽きたように、望は教室の床に座り込んでしまった。
「なんだよ、それ」
言葉を向ける相手は、すでに教室から姿を消している。
望は床に敷かれたタイルを見つめていた。
「忘れるって・・・なんだよ」
望の顔が歪む。気を抜いたら何を口走るか分らずに、望は唇を噛み締めた。




