6 閑話休題 ――空っぽの鳥籠と、記述するペン
ガイの記憶力には、致命的な欠陥がある。
正確には、彼の脳は「今、この瞬間」という爆発的な熱量の処理にすべてのリソースを割きすぎており、過去を保存するための倉庫が極端に狭いのだ。
それは、二人がまだ王都の掃き溜めで泥を啜っていた、十歳ばかりの頃の話である。
「なぁ。昨日のパン屋の親父、今日も同じ場所で寝てたな」
路地裏で震えていたガイに、リンが何気なく話しかけた時のことだ。ガイは不思議そうに小首をかしげ、こう答えた。
「パン屋? ……あのおじさん、パン屋なんだ? 今日初めて見たけど」
リンは凍りついた。
昨日の夕方、そのパン屋から一緒に石のようなパンを盗み出し、死に物狂いで逃げ回ったはずだった。
逃走経路も、隠れた樽の匂いも、リンはすべて覚えていた。だが、ガイの瞳には「昨日」の残滓がひとかけらも残っていなかったのである。
その日以来、観察を続けたリンが理解したことは、ガイという人間が、『超短期・高解像度スロット』というべき、呪いのような特異体質の持ち主であることだ。
ガイの脳は、見たものを「画像データ」として細部まで100%正確に再現する。
リンが数日かけて書き上げた数万行に及ぶ緻密な魔導式も、ガイは一瞬眺めるだけで、寸分違わず完璧に「写し取る」ことができた。
だが、その圧倒的なデータ量は、発動した瞬間に「使用済み」として脳から消去される。
あるいは数日が経過し、認識の継続が途絶えれば、脳が勝手に「不要なゴミ」として上書きしてしまうのだ。
最短五分。長くても一週間。
それがガイが「昨日」を繋ぎ止められる限界だった。
「……ガイ、お前。そのままだと、いつか自分の名前も忘れて野垂れ死ぬぞ」
「いいよ別に。今日、腹がいっぱいになればさ」
笑うガイの瞳は、何も書かれていない真っ白な画用紙のように美しく、そして空虚だった。
だが、リンは確信していた。
自分の「設計」を完璧に具現化できるガイの出力と、ガイを繋ぎ止める自分の「記録」があれば、この地獄のようなスラムから抜け出せる。
リンにとってガイは、このくそったれた毎日から逃げ出すための希望そのものだ。
「いいか。今日から俺がお前の『インデックス』だ。毎日、俺がお前の脳にパッチを当てる」
それ以来、二人が寝食を共にする傍らで、リンによる「メンテナンス」が始まった。
ガイは「見た目」で覚えたものはすぐに忘れるが、リンが与える「この人は味方」「この人は怖い」という意味や定義として情報を上書きされると、記憶の保持期間が劇的に延びるのだ。
リンが言葉で、あるいは魔道ペンで描いた人物相関図で、ガイの空っぽな鳥籠を埋めていく。
真っ白な画用紙に、リンだけが色を塗る。 それが二人の、生きるための儀式だった。
もっとも。
そんなガイの脳にも、リンが手を貸さずとも「魂に刻まれた」極少数の記憶がある。
初めてリンに声をかけられた時の感触。
騎士団長レオンにボコボコにされた時の消えない痛み。
そして――。
(……何があっても、リンだけは忘れない)
本人が無意識にそう決めたことだけは、たとえ世界が反転しても消えることはない。
だからこそ、リンの問いかけに応じるガイの「ありがとう」には、記憶の整合性などよりもずっと深い、絶対的な依存と信頼が宿っているのである。




