『「君の執事役はもう辞める」とワガママ公爵令嬢に辞表を叩きつけた俺、隣国の聖女様に「是非うちへ」とヘッドハンティングされる
クズ令嬢 × 有能執事 × 聖女 ざまぁのち、ハッピーエンド。
【プロローグ:終わらない夜】
深夜2時。 王都の一等地に屋敷を構える、名門バーンスタイン公爵家。 その執務室には、まだ明かりが灯っていた。
「……ふぅ。領地の税収報告書の修正、完了。次は来週の舞踏会の招待客リストの整理か」
俺、シリル・アシュレイは、山積みになった書類の山を前に、一人ペンを走らせていた。 年齢は25歳。 15歳の時にこの屋敷に拾われて以来、10年間この家に仕えている。現在は若くして執事長という肩書きを背負っているが、実態は「何でも屋」に近い。
屋敷の管理、使用人の統括、財務処理、領地経営の代行、そして何より――この家の「お嬢様」のワガママの処理。 これら全てが、俺一人の肩にのしかかっている。
コンコン。 控えめなノックと共に、年配のメイド長が顔を出した。
「シリル様……まだお仕事中なのですか? もうお休みにならないと、お体が持ちませんよ」
「マーサか。ありがとう、だが大丈夫だ。これを終わらせておかないと、明日の朝、お嬢様が癇癪を起こされるからね」
俺は苦笑して答える。 本来、これらの業務は当主である公爵様や、家令がやるべき仕事だ。 だが、今の当主は病に伏せっており、実権は一人娘であるエリス嬢が握っている。そしてそのエリス嬢は、経営や実務には全く興味がない。
「シリルがいるのだから、シリルがやればいいじゃない。私のドレス代、もっと稼ぎなさいよ」
それが彼女の口癖だった。 俺のおかげで領地の収益が倍増し、彼女が湯水のように金を使えていることなど、彼女は露ほども理解していない。
「……よし、終わった」
最後の書類に印を押し、時計を見る。 もうすぐ4時だ。 6時にはお嬢様が起きる。それまでに朝食の準備と、ドレスのアイロンがけ、庭の手入れを済ませなければならない。
睡眠時間は2時間か。いつものことだ。 俺は伸びをして、重い体を椅子から引き剥がした。 10年。 恩義ある先代当主のために尽くしてきたが、最近ふと思うことがある。
――俺の人生は、これでいいのだろうか、と。
【第1章:傲慢なる百合】
朝6時。 俺は完璧に整えられたモーニングコートを纏い、最高級の紅茶と焼き立てのスコーンを載せたワゴンを押して、主の寝室へと入った。
「おはようございます、エリスお嬢様。お目覚めの時間です」
カーテンを開け、朝日を取り込む。 天蓋付きの豪奢なベッドで眠っていたのは、この世の春を体現したような美少女だった。 エリス・フォン・バーンスタイン。18歳。 燃えるような赤髪に、宝石のような翠の瞳。 黙っていれば国一番の美女と讃えられる公爵令嬢だ。
……黙っていれば、だが。
「んん……眩しいわね。閉めなさいよ、無能」
エリスは不機嫌そうに起き上がると、開口一番、罵声を浴びせてきた。
「申し訳ありません。ですが、本日は王立学園への登校日です。これ以上遅れますと……」 「うるさいわね! 私が眠いと言っているの! ああもう、朝からあんたの陰気な顔を見ると気分が悪いわ!」
彼女は枕元のクッションを俺に投げつけた。 俺はそれを片手で受け止め、表情を変えずに定位置に戻す。
「朝食をご用意しました。アッサムのセカンドフラッシュと、お好みのベリーのスコーンです」 「……チッ。気が利かないわね。今日はパンケーキの気分だったのよ」
昨晩、「明日は絶対にスコーンにして!」と言っていたのは彼女自身だ。 だが、それを指摘すれば火に油を注ぐだけだ。俺は静かに頭を下げる。
「直ちにご用意いたします。10分ほどお待ちください」 「5分よ。5分で作りなさい。1秒でも遅れたらクビにするわよ」
理不尽。 だが、俺は「かしこまりました」と一礼し、厨房へと急いだ。 身体強化魔法を使い、常人の数倍の速度で調理を行い、完璧なパンケーキを焼き上げる。 執事としてのスキルだけではない。魔法、剣術、事務処理。あらゆる能力を極めなければ、この屋敷の執事は務まらない。
再び部屋に戻ると、エリスは不満げにドレスを選んでいた。
「なによこれ。この青いドレス、先月の夜会で一度着たじゃない。私が同じ服を二度着ると思っているの?」 「……お嬢様、今月は既にドレスを10着新調されています。予算の都合上、少し控えていただかないと……」 「はあ? 予算? あんた、私の金を管理してる分際で、私に指図する気?」
エリスは俺に近づき、ヒールの爪先で俺の脛を蹴った。 痛みはない。俺は密かに防御魔法を展開しているからだ。だが、心はすり減っていく。
「いい? シリル。あんたは私の執事よ。つまり私の奴隷も同然なの。金がないなら、あんたが稼げばいいでしょう? 腎臓でも売ったらどう?」
彼女は残酷に笑う。 幼い頃は、もっと可愛げがあったはずだ。「シリル、シリル」と俺の後ろをついてきて、花冠を作ってくれたりした。 だが、両親が病に伏せり、彼女が権力を持ってから、彼女は変わってしまった。 いや、これが彼女の本性だったのかもしれない。
俺は黙って、新しいドレスの手配をするために頭を下げた。
【第2章:砕かれた思い出】
その日の夕方。 決定的な事件が起きた。
俺が学園から帰宅したエリスを出迎えると、彼女は機嫌が悪そうに玄関のホールを歩き回っていた。
「ああイライラする! なんで私がBクラスなのよ! あの平民上がりの女がAクラスで、なんで公爵令嬢の私が下なの!?」
どうやら学園の成績順位で、ライバルに負けたらしい。 それは彼女が勉強をせず、俺に課題を丸投げしているからなのだが……。
「ちょっと、シリル! 何か気晴らしになるものを持ってきなさい! 今すぐよ!」 「気晴らし、とおっしゃいましても……」
俺が困惑していると、彼女の視線が、俺の胸元に留まった。 俺の燕尾服の胸ポケット。そこには、古びた銀色の懐中時計が入っていた。
それは、10年前に亡くなった俺の両親の形見だ。 貧しかったが、愛情深く俺を育ててくれた両親。彼らが死ぬ間際、全財産をはたいて俺に遺してくれた、世界でたった一つの宝物。 俺はこれだけは肌身離さず持っていた。
「あら、それ。汚い時計ね」
エリスが手を伸ばし、俺の胸から時計をひったくった。
「あ、お嬢様! それは……」 「なによ、銀メッキも剥げてるし、傷だらけじゃない。バーンスタイン家の執事がこんなゴミを持ってるなんて、家の恥だわ」
彼女は時計を面白そうに弄ぶ。
「返してください。それは私の両親の……」 「両親? ああ、あの野垂れ死んだ貧乏人たちのこと?」
エリスは嘲笑った。
「あんたみたいな孤児を拾ってあげたお父様に感謝しなさいよね。……ねえ、これ、いい音がしそうじゃない?」
嫌な予感がした。 全身の血が凍るような感覚。
「おやめください!」
俺が叫んで手を伸ばした瞬間。 彼女はニヤリと笑い、その時計を――大理石の床に力いっぱい叩きつけた。
ガシャンッ!!
硬質な音がホールに響き渡った。 繊細な歯車が弾け飛び、ガラスの風防が粉々に砕け散る。 俺の10年間の心の支えが、無惨なガラクタへと変わった。
「あ……」
俺は膝をつき、震える手でその破片を拾い上げた。 もう直らない。 心臓の一部をえぐり取られたような喪失感。
「あはははは! いい音! ちょっとはスッとしたわ」
エリスは腹を抱えて笑っていた。 彼女にとっては、ただの気晴らし。壊れた玩具の一つに過ぎない。 俺の心など、最初から存在しないかのような振る舞い。
その瞬間。 俺の中で、張り詰めていた糸が――プツン、と切れた。
怒りではない。 悲しみでもない。 ただ、急速に冷えていく感情。 ああ、そうか。 俺は今まで、こんな女のために人生を捧げていたのか。 恩義? 忠誠? そんなものは、この砕けた時計と一緒に消え失せた。
俺は立ち上がった。 表情は、今までで一番穏やかだったかもしれない。
「……エリス様」
「なによ? まだ文句があるの? 文句があるなら……」
「辞めます」
「……は?」
エリスの笑い声が止まった。
「本日をもちまして、バーンスタイン家を退職させていただきます。辞表は後ほど、書面にて提出いたします」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。 エリスは数秒間ポカンとしていたが、やがて顔を真っ赤にして叫んだ。
「は、はあぁぁぁ!? 何言ってるの!? 辞めるですって!?」
「はい。これ以上、貴女にお仕えすることはできません」
「ふ、ふざけないでよ! あんたみたいな孤児、誰が雇うと思ってるの!? この家を出たら、また路頭に迷うだけよ!?」
「構いません。少なくとも、貴女の元にいるよりはマシですから」
俺は胸の執事バッジを外し、サイドテーブルに置いた。 それは、10年間の束縛からの解放の儀式だった。
「待ちなさいよ! 命令よ、辞めるなんて許さないわよ!」 「貴女の命令を聞く義務は、もうありません」
俺は踵を返した。 背後でエリスが喚き散らしている。
「いいわよ! 出て行きなさいよ! あんたなんて代わりはいくらでもいるんだから! 泣いて謝っても絶対に戻してあげないからね! 野垂れ死ねばいいわ!!」
その声を聞きながら、俺は自室に戻り、最低限の荷物(砕けた時計の部品を含む)をまとめた。 屋敷の使用人たちが、涙ながらに見送ってくれた。
「シリル様……本当に行ってしまわれるのですか?」 「すまない、みんな。後は頼んだ」 「そんな……シリル様がいなくなったら、この家は……」
メイド長のマーサが泣き崩れる。 彼女たちは分かっているのだ。この家が誰によって支えられていたのかを。
俺は夜の闇に紛れ、10年間過ごした屋敷を後にした。 二度と振り返ることはなかった。
【第3章:森の中の邂逅】
屋敷を出た俺は、王都を離れることにした。 この国にいる限り、バーンスタイン家の影響力からは逃れられない。エリスが妨害工作をしてくる可能性も高い。 ならば、隣国『聖レムリア王国』へ行こう。 あそこなら実力主義だと聞く。俺のスキルでも、何とか食い繋ぐことはできるだろう。
「さて……まずは宿場町まで歩くか」
俺は街道を歩き始めた。 所持金はわずか。退職金など出るはずもない。 だが、足取りは羽が生えたように軽かった。
夜風が心地よい。 誰にも命令されない。明日の朝、罵声で起こされることもない。 自由だ。 25歳にして初めて手に入れた、本当の自由。
「これから、何をしようか」
そんなことを考えながら、数日かけて国境付近の森を歩いていた時だった。
ギャアアアアッ!! キィィィィン!!
前方の街道から、激しい争う音と、女性の悲鳴が聞こえてきた。 魔物の咆哮も混じっている。
「……盗賊か? いや、オーガの群れか?」
関わりたくはない。 だが、悲鳴を聞いて無視できるほど、俺は落ちぶれてはいなかった。 それに、もし助ければ路銀くらいは貰えるかもしれない。
「……性分だな、俺も」
俺は苦笑し、荷物を木の陰に隠すと、腰に帯びていた護身用のレイピアを抜いた。 執事時代、暗殺者から主を守るために磨き上げた剣技。 それが、まさかこんな形で役に立つとは。
俺は音もなく森を駆け抜けた。 その先に、俺の運命を変える出会いが待っているとも知らずに。
視界が開けた先には、横転した豪華な白馬車と、それを囲む10体以上のオーガ。 そして、傷ついた護衛騎士たちに守られながら、必死に祈りを捧げる銀髪の少女の姿があった。
「――助太刀します!」
俺は戦場へと飛び込んだ。
「グガアアッ!?」
オーガの一体が振り返るより早く、俺のレイピアがその喉元を貫いた。 一撃必殺。 巨体が音を立てて倒れる。
「なっ……何者だ!?」
護衛の騎士が驚きの声を上げる。 俺は返事をする前に、次の獲物へと肉薄した。 身体強化魔法による高速移動。舞うような剣技。 10年間、あの公爵家で「完璧」を求められ続けた俺にとって、動きの鈍いオーガなど止まって見える。
「そこだ」
シュンッ、シュンッ。 鋭い突きが次々とオーガの急所を捉える。 わずか数分。 圧倒的なオーガの群れは、一人の「執事」によって全滅させられた。
俺はレイピアの血を払い、鞘に収めると、馬車の前に立つ少女に向き直った。 そして、染み付いた習慣で、優雅に一礼をした。
「お怪我はありませんか、お嬢様」
顔を上げた少女を見て、俺は息を呑んだ。 銀の髪に、アメジストのような紫の瞳。 その美しさは、エリスとは違う――どこか神聖で、心が洗われるような清廉さを持っていた。
「あ……はい、私は無事です。貴方様は……?」
少女の声は、鈴を転がすように澄んでいた。
「通りすがりの旅人です。シリルと申します」
「シリル様……。ありがとうございます。貴方が来てくださらなければ、どうなっていたか」
少女は安堵の表情を浮かべ、それから慌てて周囲を見回した。
「怪我をした騎士たちは!? 誰か、治療を!」 「お嬢様、ポーションが尽きております!」 「そんな……」
護衛騎士の数人が深手を負っている。 俺はため息をつき、自分の荷物から水筒と包帯を取り出した。
「失礼します。応急処置を」
俺は手際よく騎士たちの傷口を洗浄し、回復魔法をかけながら包帯を巻いていく。 戦場での治療も、執事の嗜みの一つだ(と、エリスに無理難題を言われて覚えさせられた)。
「す、すごい……魔法と医療技術を同時に……?」 「手際が良すぎる……王宮医師レベルだぞ……」
騎士たちが呆然としている。 治療を終えると、俺は携帯コンロでお湯を沸かし、なけなしの茶葉で紅茶を淹れた。 ショックを受けた時こそ、温かい飲み物が必要だ。
「どうぞ。安物の茶葉ですが」
差し出されたカップを、少女は両手で受け取った。
「……美味しい。こんなに優しい味の紅茶、初めて飲みました」
彼女は一口飲むと、張り詰めていた糸が切れたように、ポロポロと涙を流した。
「怖かった……。でも、貴方が助けてくれて……本当に、ありがとうございます」
その涙と、「ありがとう」という言葉。 俺の胸に、温かいものが込み上げてきた。 エリスからは一度も聞けなかった言葉。それを、出会ったばかりの少女が言ってくれた。
少女は涙を拭うと、改めて俺に向き直り、信じられないことを言った。
「私はソフィア。ソフィア・ド・レムリアと申します」
レムリア……? 俺は目を見開いた。
「隣国の……聖女、ソフィア様ですか?」 「はい。お忍びで薬草を採取に来ていたのですが……」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑み、それから俺の手を取った。
「シリル様。貴方のような素晴らしい方が、旅人だなんて信じられません。……もしよろしければ、我が国へいらっしゃいませんか?」
「え?」
「貴方の剣技、魔法、治療技術、そして何より……この紅茶の味。貴方のような方に、私の側近――筆頭執事になっていただきたいのです」
まさかのヘッドハンティング。 しかも相手は、大陸で最も尊敬される聖女様。 俺は戸惑った。
「ですが、私は先ほど前の主を辞めたばかりの、ただの失業者です。それに……」 「関係ありません。私は貴方がいいのです」
ソフィア様は、俺の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「貴方の瞳は、とても綺麗だから。……どうか、私を助けてくれませんか?」
その言葉に、俺の迷いは消えた。 この方になら。この方の為になら、俺の全てを捧げてもいい。 そう思えたのだ。
「……謹んで、お受けいたします。我が主」
俺は片膝をつき、彼女の手の甲に口づけをした。 それが、俺と聖女様との、新しい契約の証だった。
【第4章:ホワイトな職場、ブラックな古巣】
それから一ヶ月。 俺は隣国レムリアの王城で、聖女ソフィア様の筆頭執事として働いていた。
そこは、まさに天国だった。
「シリル、今日は少し働きすぎではありませんか? もう休んでください」 「ですがソフィア様、まだ書類が……」 「ダメです。貴方の体が心配なのです。これは聖女命令ですよ? さあ、一緒にお茶にしましょう」
ソフィア様は、常に俺の体調を気遣ってくれる。 罵声など一度もない。 何かをすれば「ありがとう」「すごいですね」と褒めてくれる。 時には、彼女の手作りクッキーを差し入れしてくれることさえあった。
「(……こんなに優しくされて、いいのだろうか)」
最初は戸惑っていた俺も、次第に本来の笑顔を取り戻していった。 俺の能力は遺憾なく発揮され、ソフィア様の公務は円滑に進み、彼女の評判はさらに上がっていった。 俺たちは、誰が見ても理想の主従――いや、それ以上の信頼関係で結ばれていた。
一方その頃。 国境を越えたバーンスタイン公爵家では、地獄のような日々が始まっていた。
「な、なによこれぇぇぇ!」
エリスの悲鳴が屋敷に響く。 彼女の部屋はゴミ屋敷と化していた。 服は脱ぎっぱなし、食事は冷え切ったまま。 新しい執事を雇っても、誰もシリルのようには動けず、エリスの癇癪に耐えきれずに三日で辞めていく。
「ドレスが破れてるじゃない! 朝食が不味い! 庭が雑草だらけよ! ああもう、どいつもこいつも無能ばっかり!」
さらに深刻なのは、財政面だった。 シリルが裏で回していた領地経営がストップしたことで、不正が横行し、税収が激減。 エリスの浪費癖だけは変わらないため、公爵家はあっという間に借金まみれになっていた。
「シリル……シリルはどこなのよ! あいつを連れ戻してきなさい!」
エリスは爪を噛みながら叫ぶ。 だが、もう遅い。 彼女が捨てた「無能な執事」は、今や隣国の聖女の隣で、誰よりも輝いているのだから。
そして運命の日。 各国の貴族が集まる『大舞踏会』が開催されることになった。
【第5章:星と泥】
その夜、聖レムリア王国の王宮では、各国から貴族を招いた『大舞踏会』が華やかに開催されていた。 シャンデリアが煌めき、オーケストラの生演奏が響くホール。 着飾った貴族たちが談笑する中、会場の空気が一変する瞬間があった。
「あの方は……聖女ソフィア様?」 「なんてお美しい……隣にいるのは誰だ?」
大階段から降りてきたのは、純白のドレスを纏ったソフィア様と、彼女をエスコートするシリル――俺だった。 俺はソフィア様に仕立てていただいた、夜空のような深い蒼色の燕尾服を着ている。 「シリル、緊張していませんか?」 「いえ。ソフィア様こそ、足元にお気をつけください。……貴女は今夜、誰よりも美しい」 「ふふ、貴方にそう言われると、自信が持てます」
ソフィア様が頬を染めて微笑む。 その光景は、まるで絵画のように美しく、周囲の視線を独占していた。
だが、その光の輪の外に、憎悪に満ちた視線を向ける者がいた。
「なによ……なによ、あれ……」
ホールの隅で、グラスを握りしめて震えていたのは、エリス・フォン・バーンスタインだった。 かつての栄華は見る影もない。 着ているドレスは流行遅れで、手入れもされていないため皺が目立つ。肌は荒れ、化粧は濃く、焦りと苛立ちが全身から滲み出ている。
借金取りに追われ、社交界での立場も失った彼女は、この夜会で金持ちの婚約者を見つけるために、招待状を金で買って潜り込んでいたのだ。
だというのに。 自分が捨てたはずの「ゴミ」が、自分よりも遥かに高い場所で、自分よりも高貴な女性に愛されている。
「許せない……。あいつは私の執事よ……私の奴隷なのよ!」
エリスのプライドは、どす黒い嫉妬となって爆発した。
【第6章:愚か者の叫び】
俺とソフィア様が国王陛下への挨拶を終え、バルコニーで風に当たっていた時だった。
「ちょっと! 待ちなさいよシリル!」
ヒステリックな声と共に、エリスがドカドカと歩み寄ってきた。 周囲の貴族たちが眉をひそめる。
「……エリス様」
俺は静かに振り返った。 1ヶ月ぶりの再会。だが、俺の心は驚くほど凪いでいた。 かつて恐怖と義務感の対象だった彼女が、今はただの「品のない他人」にしか見えない。
「なによその格好! 生意気よ! 私の金で買った服なの!?」 「いいえ。これはソフィア様が贈ってくださったものです」 「うるさい! ……あんた、いいご身分ね。私がこんなに苦労してるのに、新しい女とよろしくやってるわけ?」
エリスはソフィア様を睨みつける。
「そこの泥棒猫! 返しなさいよ! そいつは私の執事なの! 私が拾ってやった恩知らずの孤児なんだから!」
あまりの暴言に、会場がざわつく。 だが、ソフィア様は一歩も引かなかった。彼女は俺を背に庇うように前に出ると、凛とした声で言った。
「言葉を慎みなさい、バーンスタイン公爵令嬢。シリルは『物』ではありません。彼は私の大切なパートナーであり、私の心を支えてくれる、かけがえのない男性です」
「はっ! 何がパートナーよ! そいつはただの道具よ! 私がいないと何もできない無能なんだから!」
エリスは鼻で笑い、俺に向かって手を差し出した。
「ねえシリル。もういいわ、許してあげる。今すぐ戻ってきなさい。屋敷が汚いのよ、掃除して。あと肩も凝ってるの。今すぐ揉みなさい」
彼女は本気で信じていた。 命令すれば、俺が尻尾を振って戻ってくると。 なぜなら、自分は選ばれた公爵令嬢で、俺は卑しい使用人だから。
その傲慢さが、今はただ哀れだった。
俺はソフィア様の隣に並び、エリスの目を真っ直ぐに見て告げた。
「お断りします」
「……は?」
「私は既に、ソフィア様に忠誠を誓いました。それに……貴女は勘違いされている」
俺は懐から、あの日砕かれた懐中時計の破片を取り出した。 それをハンカチに包んで持っていたのだ。
「私が貴女に仕えていたのは、先代様への恩義と、幼い日の貴女への情があったからです。ですが、貴女はそれを自ら砕いた。……あの日、貴女がこれを床に叩きつけた瞬間、私の中の『エリスお嬢様』は死んだのです」
「な、なによそれ……たかが時計じゃない! 新しいのを買ってあげるわよ!」
「そういうところですよ」
俺は冷たく言い放った。
「貴女には、人の心が分からない。だから誰もついてこない。……さようなら、エリス様。どうかお元気で」
【第7章:新しい時間】
「ま、待ちなさいよ! 誰が帰っていいと言ったの! 命令よ! 止まれぇぇぇ!」
エリスが俺の袖を掴もうとした、その時。
ガシッ。
王宮の衛兵たちが、エリスの腕を取り押さえた。
「無礼者! 聖女殿下の御前であるぞ!」 「離しなさい! 私は公爵令嬢よ!」 「バーンスタイン家には、多額の負債と横領の容疑がかかっている。ご同行願おう」
「え……うそ、やだ、離して! シリル! 助けて! 助けなさいよぉぉぉ!」
エリスは暴れながら引きずられていく。 その悲鳴は、誰の同情も引くことなく、遠ざかっていった。 俺は一度も振り返らなかった。
静寂が戻ったバルコニー。 ソフィア様が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「シリル……大丈夫ですか?」 「はい。……不思議ですね。もっと胸が痛むかと思いましたが、今はただ、肩の荷が下りた気分です」
俺が苦笑すると、ソフィア様はゴソゴソと何かを取り出した。 それは、新品の懐中時計だった。 プラチナで作られ、聖レムリアの国章が刻まれた、最高級の品。
「あの……これ。ずっと渡したかったんです」
彼女は顔を真っ赤にして、時計を俺の手に押し付けた。
「貴方の壊れた時間は、もう戻らないかもしれません。でも……これからの時間は、私と一緒に刻んでくれませんか?」
その言葉は、どんなプロポーズよりも俺の心に響いた。 俺は時計を胸ポケットにしまい、彼女の手を取って、深く口づけをした。
「……喜んで。我が愛しき主。私の生涯は、貴女と共にあります」
月明かりの下、俺たちは誓いのキスを交わした。 過去の鎖は断ち切られた。 ここから始まるのは、最高の聖女と、彼女を溺愛する執事の、甘く幸せな物語だ。
最後までお読みいただきありがとうございます!
「執事かっこいい!」 「ソフィア様最高!」 「エリスの自業自得!」
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