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ひと匙ぶんの優しさ

ほどよいざわめきに包まれた、午後のマルグ市。

商店の幟が揺れ、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。

観光客の歩く足音と、日常の暮らしの音が入り混じる時間帯。


そんな町の一角、茶館「匙屋」は、外の喧騒からわずかに距離を置いたように、静かに営業していた。

扉の中は、木の香りと茶葉の匂いが混じった、落ち着いた空気で満ちている。


席にはちらほらと客の姿。

誰もが読書をしていたり、窓の外を眺めていたり。

店主のミナは、カウンターの奥で、器具の音を立てずに手を動かしていた。


* * *


そんな午後の静けさの中に、ひときわ明るい声が差し込んできた。


「こんにちはーっ!」


扉を開けたのは、旅の青年だった。

よく通る声が、匙屋の空気を少しだけ揺らす。


「コーヒー、角砂糖四つで!」


ミナは笑顔で軽くうなずく。

青年はすでに何度かこの町を訪れている常連だ。どうやらこの店を気に入っているらしく、いつも滞在中はよく来店する。


今日も青年はカウンター席に座ると、ひと呼吸置いて、ふうっとため息をついた。


「昨日の灯りの花、すごかったっすよね。あれ、反則っすよ。もう、あんなの見せられたら、帰れないでしょ。いや帰りますけど」


ミナは静かにドリップの準備を始める。

応える言葉はない。ただ手元の所作が、聞いていることをそっと伝えていた。


「帰ったら仕事たまってるんですよ。先輩はぜんぜん人の話聞かないし、取引先は『今回は見送ります』ばっかだし、後輩は『自分は私生活優先なんで』って……なんかズルいっすよね」


言葉は軽い調子だったが、その奥にある疲れは隠しきれていなかった。


「っていうか、俺も疲れてんすよ。灯りの花、綺麗だったけど、昨日はちょっと泣きそうになりましたもん。まあ、ボロ泣きしましたけど。てか、甘くしないとやってらんないっすよね、現実ってやつは」


コーヒーが淹れられ、角砂糖が四つ、小皿に添えられて出された。


青年は軽く会釈してからそれを手にとって、一つはそのまま口に放り込み、残りを指でしばらく転がしてから、カップに落とした。


「でも、帰るんすよ。仕事あるし。俺みたいなやつ、頑張るしかないんで」


ミナはカウンターの端に積まれた器を拭いている。

振り返りもせずに。けれど、その横顔には穏やかな表情が浮かんでいた。


青年はコーヒーをかき混ぜて、ひと口飲んだ。

甘さが広がって、わずかに眉がゆるむ。


「……うん、ほっとする」


少しの沈黙があった。

匙屋の午後の光が、カウンターの縁に差し込んでいる。


青年は残りのコーヒーを飲み干し、椅子を引いて立ち上がった。


「さて、帰ってまた頑張りますか。

なんだかんだ言っても、やるしかないっすからねー」


そう言って、軽く背伸びをする。

肩の力は、来たときより少しだけ抜けていた。


会計を済ませ、ミナに向かって軽く頭を下げる。

ミナはそれに、小さな微笑みで返した。


そして――

手元にあった焼き菓子をひとつ、手早く小さな紙で包んで差し出した。


言葉はない。ただ、そっと、両手で渡される。


「……え、マジすか」


青年は驚いたように受け取り、それから少し照れくさそうに笑った。


「ほんと、ずるいっすよ。……俺、また来ますから」


ドアが開き、また閉まる。

午後の光が一瞬揺れて、やがて落ち着いた空気に戻る。


* * *


ミナは、焼き菓子の並ぶ木箱の位置を少し整え、それから別の客のティーカップを下げにいった。


匙屋の空気は変わらない。

けれど、誰かが一人、ここで少しだけ力を抜いて、そして前を向いて出て行った。


カウンターの上には、甘さの余韻だけが、ひと匙ぶんだけ残っていた。

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