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右手に箒、左手に塵取り、心に勇気  作者: かなえ ひでお


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6/6

橋の上に一人でいると誤解されましてよ

 ここのところ晴天が続いていたけれど、本日は生憎の曇天。雨が降りそうで降らない空の下、カトラは石造りの橋の真ん中辺りで物思いに耽っていた。この日は定休日なので、朝から晩まで彼女が黄昏ていても問題はない――いや、あるにはある。陰鬱な雰囲気を醸し出して川面を眺めること、凡そ二時間。彼女の近辺にいる人々が「若しかして、あの女性は身投げをしようとしているのではないか?」と疑い始めて、様子を窺っているのだ。因みにカトラは身投げなんて全く考えていない。


(まさか、あの場面を目撃されていたなんて想像もしなかったし、噂まで流されているなんて気がつくはずがないじゃないの……っ!)


 あれは不倶戴天の敵たる実父が、絶世の美丈夫ヘルギによって撃退された後のことだ。湧き上がってくる感情が抑えきれず悔し涙を見せたカトラをヘルギは優しく抱擁してきた。この時、菓子店の中には彼女と彼の二人しかいなかったのだが、店外にいた誰かが現場を目撃していたらしい。更には、その人物が事実確認もしないままに、その出来事を周囲に言いふらしてもいた。


『カトラさん、変な噂が流れているみたいよ?』

『変な噂ですか?』


 噂の内容はこうだ――如何なる美女にも靡かなかった輝きの貴公子ヘルギの心を射止めたのは、小太りの凡庸な女性だった!その女性とは、ディーサ・カトラ菓子店の店主カトラだ!

 菓子店の常連である老婦人はカトラの為人を知っている為、噂を耳にするなり心配になって様子を見に来てくれたのだ。

 ――煌びやかな美女ではなくて、小太りの凡庸な女性ですみませんでしたね。その前に、ヘルギの心を射止めた覚えは全くもって御座いませんが。

 ああ、それで近頃、妙なお客さんたちが増えたのね。と、納得がいったカトラは体から魂が抜け出る感覚に襲われたのだった。


(私が純粋無垢な少女だったなら、貴公子との噂を流されたら舞い上がって喜んだかもしれない。でもね、現実の私は得体のしれない恐怖で心臓が爆発寸前でしてよ……)


 常連客の多くは、男っ気がまるでないカトラに訪れた恋の噂を喜んでくれたり、或いは、噂が心労の原因となっているのではないかと気遣ってくれた。それは嬉しかったのだが、噂を耳にしてやって来た女性客が向けてくる敵意に晒されて、カトラの心はじりじりと疲弊していった。

 憧れの貴公子を射止めた女性を見る為だけに訪れる人々が作り出す異様な空間は、お菓子や本を買いたい人々の足を遠ざける要因となり、売り上げに影響が出てきているので、カトラはため息ばかりだ。


(……そもそも、ヘルギはどういうつもりであんなことをしてきたのかしら?)


 先ずは素直に考えてみる。彼は涙するカトラを哀れみ、慰めようとしてくれたのかもしれない。次に、猜疑心を出して考えてみる。男慣れしていないカトラを揶揄う為に態と抱擁して、反応を試してみたかったのかもしれない。果たしてそうすることで、ヘルギに何の利益があるのか?それを考えてみたが、特には無い気がしてきた。そうだ、ヘルギに悪意があろうがなかろうが関係ない。噂を流した本人に悪意があるのかないのかが重要だ。そいつの御蔭でカトラは不愉快な目に遭うことになったのだから。カトラは徐々に腹が立ってきて、正体の分からない犯人を物理的に懲らしめてやる妄想を始めた――が、直ぐに止めた。


(こんな機会は二度とないだろうからって、絶世の美丈夫を堪能してやろうと調子に乗った私への天罰の可能性が……っ!時を戻せるなら、自分の頭を金槌でボカスカと殴ってやりたい……っ!)


 ただ、ヘルギの腕の中は至福の一時だった。堪能しておいて良かったと思う自分もいるので、カトラは反省はすれども後悔はしていないようだ。


(でも……困ったわねぇ……)


 気分が浮かび上がったと思うと、直ぐに沈む。これを繰り返し、もう何度目かも分からない溜息をカトラが吐くと、一羽の鴉がカアと大きく鳴いた。ふと顔を上げて目を動かしてみれば、街灯や屋根の上に沢山の鴉が留まっていて、合唱を始めた。賑やかだなぁと眺めていたら――


「恋煩いかね、カトラ?」


 蠱惑的な女性の声がカトラの鼓膜を叩いた。聞き覚えのある声だ、と、警戒心を抱かずに振り返ってみれば、想像通りの人物の姿を見つけて、ぱあっと顔を輝かせた。


「ラグナ!」


 カトラの背後に佇んでいたのは、鴉のように真っ黒な長髪と赤い唇に、黒づくめの衣装が印象的な長身の女性だ。妖艶という言葉が似合う、その女性――ラグナは赤茶色の目を細めて、嫣然と微笑んでいる。


「貴女の顔を久しく見ていなかったから、飽きられてしまったのかしらと心細くなっていたの」


 ラグナと知り合ったのは、カトラが菓子店の経営を始めたばかりの頃。不定期ではあるが長く来店してくれる彼女とは、軽口が利ける。


「それはすまなかったね。町中を散歩するだけの簡単なお仕事をしている暇人のはずなんだが、珍しく忙しくしていたんだ。愛しのカトラに逢えなくて寂しい思いをしていたよ」


 一見近寄り難いが、ラグナは意外とお茶目だ。おどけて肩を竦める彼女にカトラは顔を綻ばせた。


「それで?君の憂い顔の原因は何なのかな?」


 橋の上で思いつめた顔をして川面を眺めているものだから心配になったと言われて、カトラの表情筋が強張る。どう説明したものか、と、はにかみつつ視線を彷徨わせつつ顔を背けると、両手でがしっと頭を掴まれて、力尽くで正面を向かされた。


「どうしたのかな?君はつぶらな目を開けながら、お昼寝でもしているのかな?」


 さあ、吐け。洗いざらい。鼻先が触れ合いそうな距離で見る美女の顔面の迫力が凄くて、猫の前の鼠と化すしかないカトラ。俄かの後、ラグナはカトラの頬をもにもにと揉みだした。それも、恍惚とした表情で。

 ――これは一体どういう状況なのかしら?唖然としたことで緊張が解けたカトラは事情を説明することにした。


「ひぇんふぁふわしゃふぉなはしゃへへ 、ふほ~ひほひふぉんへうはへへふふぉ 」


  変な噂を流されて、 少~し落ち込んでるだけですの。ラグナの長い指で頬肉をもにもにされているので変な喋り方になってしまったが、彼女に伝わっただろうか。


「変な噂というのは……此方へ来る途中で耳にしたアレのことかな?君と輝きの貴公子が恋仲になっているという……」

「それは誤解なのおぉぉぉぉっ!!!」


 頭の拘束を振り解き、血走った眼で絶叫するカトラがラグナに体当たりをするように抱きつく。人間に猪が突進するくらいの衝撃があったはずだが、体幹がしっかりと鍛えられているラグナはびくともせず、重量のあるカトラの体を優しく受け止めてくれた。


「よしよし、お姉さんに話してごらん?」


 ラグナは慈母の微笑で錯乱するカトラを抱きしめ、頭や背中を撫でてくれる。そうしているうちにカトラは落ち着きを取り戻し、かくかくしかじかと説明をした。ラグナは適度に相槌を打ちながら、静かに耳を傾けてくれた。


「困ったものだ。アスクロー男爵は未だ夢から覚めていないとは」


 やれやれとラグナが肩を竦めれば、「困っちゃうよね~」「ホントにね~」とばかりに鴉が鳴く。


「こんなにもふっくらともちぷにの、愛らしいことこの上ないカトラをあれだけ侮辱しておきながら、カトラを当てにして、財産目当ての結婚をさせようだなんて……どうかしているよ」


 ラグナはカトラのことを愛玩動物か何かだと思ってはいないか?そんな疑問が浮かぶが、気のせいかもしれないとカトラは頭を振るう。ラグナに二の腕や脇腹を揉まれているのに。


「だが、貴公子の気持ちは理解できるかもしれないな。愛らしいカトラが涙しているのを目にしたら、抱きしめたくなるに決まっている」

「ゴメンナサイ。チョットナニイッテルノカワカラナイデス」

「……それはさておき、だ。店の売り上げに影響が出ているのは困るな。君の憂いを晴らすべく、財布の中身を全て捧げるつもりだが……今日は定休日だったね」

「あら、貴女の為だけにお店を開けることはできましてよ?」


 だって私は店主ですもの。そう言ってカトラがはにかめば、ラグナは赤い唇の両端を釣り上げた。


「人間の好奇心は移ろい易いものだ。そのうちに飽きて、碌でもない噂も消えていくことだろう。それまでは気苦労もあるだろうけれど、落ち込みそうになったら貴公子のことではなくて、是非とも私のことを思い出してくれたまえ。記憶の中の私が君の笑顔を取り戻すことだろうから」

「……ええ、そうする。有難う、ラグナ」


 嚙み合っていないようで噛み合っているような、不可思議なラグナとの会話。彼女と話していると自然と心が軽くなっていることが多いのだ。


「感謝の気持ちは、頬への口づけで表してくれても良いのだよ?」

「へっ?え~と、はい……?」


 突然のお願いに呆気にとられたものの、特に疑念を抱くこともなく、カトラは少し背伸びをして、妖艶な美女の滑らかな頬に軽く口づけた。美女には芳香がつきものと思われたが、意外にもラグナからは何の香りも漂ってはこなかった。


「うん、満足だ。全財産をカトラに注ぎ込むことにしよう」

「お気持ちだけ頂きます。貴女が食べきれる分だけ買ってくださることの方が、私は嬉しいわ」

「さあ、いざ行かん。二人の愛の巣へ!」

「ディーサ・カトラ菓子店ね?」


 ラグナはごく自然にカトラの手をとり、指を絡ませる。異性は勿論、同性ともそんなことはしたことがないので少し驚くが、嫌悪感がないのでカトラは彼女の手を振り払うことはしなかった。ひんやりとした掌の感触が心地良かったのかもしれない。カトラの手を引いてラグナが歩き出すと、周辺にいた鴉たちが一斉に飛び立ち、好き勝手にカアカアと鳴いて、彼方此方へと去っていった。




 それからはというと、日が過ぎていくにつれて、噂を耳にした女性たちが菓子店に現れることが減っていき、一週間もすればディーサ・カトラ菓子店は穏やかさを取り戻していた。

 ――久しぶりにゆっくりとお菓子を選べて嬉しかった。そう言った婦人が子供の手を引いて退店してくのを見送っていると、向こうからやって来るラグナの姿を見つけた。


「うん、私の好きなディーサ・カトラ菓子店に戻っているね」


 子供も大人も関係なく穏やかに、和やかに過ごせる優しい空間であるのを確認すると、ラグナは早速お菓子を選び始める。あれも良い、これも良いと店内を歩き回るラグナをカトラが眺めていると、ふと、目が合った。ラグナが嫣然と微笑んで、カトラの頬が反射的に赤くなる。妖艶な美女は男女の別無く他人を魅了するらしい。


「随分と沢山買ってくださったけれど、貴女一人で食べきれるの?」


 カトラは会計を済ませ、たっぷりとお菓子を詰めた袋をラグナに差し出す。ラグナは重さのある袋をひょいっと持ち上げると、片腕で抱えた。


「お茶の時間にね、職場の部下たちに振舞うんだ。だから、これくらい必要なのさ」

「そうなのね。愉しい時間を過ごしてね、ラグナ」

「また来るよ、カトラ」

「またのご来店をお待ちしています」


 ラグナを見送って、店外へ。何処からともなく鴉の鳴き声が聞こえてきて、カトラは思わず鴉の姿を探したが、影すら見つけることはできなかった。そして視線を戻すと、人気の無い道を歩いていたはずのラグナの姿も消えていた。

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