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右手に箒、左手に塵取り、心に勇気  作者: かなえ ひでお


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ディーサ・カトラ菓子店へようこそ

 幼い頃から夢見ていたものが、漸く形になった。手で触れられて、目で見えるものになった。

 カトラの胸は喜びで満ち溢れ、震える。普段であれば、春の肌寒い朝は一人暮らしなのを良いことに、他人様には決して見せられない謎の踊りなどをして眠気の残る体を目覚めさせたり、温めたりするのだが――今朝の彼女は違った。昨日からずっと胸を躍らせているから睡眠時間が極端に短くても眼はバッキバキだし、赤ん坊のようにぷくぷくした柔らかそうな体は何もしなくても温かい。いつもこれくらい目覚めが良ければ苦労しないのに、なんてことを考える余裕もある。

 売り物の菓子を詰めた硝子の容器や、児童向けの本を並べた棚を乾拭きしたり、床を掃くのも体が軽く感じられて、お茶の子さいさいだ。鼻歌まじりに掃除道具を片付けて、カトラは勘定台の前に立つ。台の上には、一冊の本が置かれていた。カトラはそれを手に取り、幾度目かの抱擁をして、満足気に息を吐いた。


「誰かが手に取ってくれますように。誰かの心を弾ませたり、ときめかせたりしますように。私の物語を知ってくれる人が一人でも増えてくれますように」


 長らく温めていた空想の世界を文章で表現して、相棒となってくれたディーサが素敵な挿絵を描いてくれて、一年もの歳月をかけて、昨日出来上がったばかりの”少女と不思議の森の妖精”と題する処女作は読者にどのように評価されるのだろう。大きな喜びと、光に影を落とす不安がカトラの胸の内で忙しなく動いて、心拍数が上がっている。その状態で出入り口の扉の鍵を開けて、外に出る。外気は微かにひんやりとしていたが、直ぐに気にならなくなる。営業終了の木札を営業中の木札にかけ替えて、彼女は店内に戻った。


「今日も一日頑張るわよ!」


 逸る気持ちを落ち着けようとして、ふっくらとした頬を両手で軽く叩いたのだが、思っていたよりも力が入ってしまって、まあまあ痛かった。手形がついていないことを祈りたい。

 ――此処は、王都はテュースルンド地区にある、ディーサ・カトラ菓子店。量り売りの菓子と、児童向けの本を取り扱っている、少し変わった店。

 お小遣いを握りしめた子供が扉を開ければ、口元の黒子が魅力的な店主、カトラが優しい笑顔と声で「いらっしゃいませ」と迎えてくれる、居心地の良い店。




 カトラの処女作を店の本棚に並べてから、数日が経過するが――それは未だ誰のもにもなっていない。試し読みをしてくれる子供や大人は現れたのだが、購入するまでには至っていないのだ。


(……まあ、著名な作家ではないのだから、直ぐには売れないわよね。無名の私の作品に興味を持ってもらえるだけでも嬉しいことじゃないの。気長にいかなくてはね)


 頭では分かっていても、心はどうしても落ち込んでしまいそうになる。自分の本が初めて売れる瞬間に一早く出会いたくて、焦っているのかもしれない。そんな時は、帳簿に記された数字を見るに限る。売り上げという数字を見ているだけで、嫌でも冷静になれるのだ。

 引き出しから出した帳簿を開いて、先程購入された菓子の代金を記入するのを忘れていたことを思い出した。ペン先をインク壺に突っ込んで帳簿に書きこんでいくと、直ぐに文字が擦れてしまった。もう一度ペン先を突っ込んでみるが、インクが少ししかつかない。


(そうだった、そろそろ中身が無くなるから新しいものを買いに行こうとしていたんだったわ……!)


 自作の本のことで頭がいっぱいで、大事なことを忘れてしまっていた。昼休憩を利用して、カトラは馴染みの文具店に向かい、老店主との他愛のないお喋りを楽しみながら目的のものを手に入れた。これでもう大丈夫、と、文具店を後にした彼女は軽い足取りで帰路に就く。


(……怪しい人よね、どう見ても)


 ディーサ・カトラ菓子店の前をうろついている成人男性がいるのを見つけた。あれはお客さんか、それとも強盗をしようとしている犯罪者か。街灯の陰に隠れて、遠くから観察していると怪しい人物が不意にカトラの方に顔を向けた。ばっちりと目が合ってしまって、カトラから表情が消え去る。


(なぁんであいつがいるのかしらねー……?)


 ふくよかな体型ではあるが、カトラは意外にも足が速い。だが、持久力がない。ならば逃走を図ったところで追いつかれて、捕まってしまうに違いない。諦観したカトラが突っ立っているうちに、怪しい人物は大股で近づいてきて、間もなく彼女の前にやって来てしまった。外見から推測される年齢は二十代後半くらいの、髪の生え際が後退気味の男はカトラを上から下までじっくりと見ると、ふんっと鼻を鳴らした。


「久しいな、カトラ。全く、相も変わらず豚のように肥えて、みっともない女だ。女であるからには痩せているべきだとあれほど忠告してやったのに……これで男爵令嬢とは、嘆かわしいな」


 息をするようにカトラを侮辱してきた男の名はローイ。カトラの父方の従兄で、彼女の実家に長らく居候をしている身の上だ。男爵の甥であることを鼻にかけている、ただ痩せているだけのローイは常にカトラを見下してくる。


「……庶民は庶民らしく庶民に相応しい暮らしをしておりますの。身の丈に合わない生活をしていらっしゃる貴方の方がみっともないと、私は思うのですけれど?」


 いつまでも泣いているだけのカトラだと思うな。いい加減にカトラに関する記憶を最新の状態に書き換えなさい。カトラの反撃をくらったローイが顔を引きつらせるのを目にして、彼女は鼻で笑ってやった。

 カトラの実家――アスクロー男爵家は新興貴族という、名ばかりの貴族の家柄だ。一定の条件を満たせば庶民の生まれでも爵位を得られる時代があったのだ、国の法律が改正されるまでは。数代前の当主が財を成し、金に物を言わせて爵位を手に入れたのは、その頃のこと。旧来の貴族のように過去の栄光も領地も持たないアスクロー男爵家は代を経るごとに落ちぶれていき、当代では財産は皆無に等しく、カトラの母親の実家が援助をしなければ男爵家は滅んでいたに違いない。


「庶民は張りぼて貴族様と違って、労働しなければ飢えてしまいますの。ごめんあそばせ!」


 居候先の懐具合を知りもしないローイに付き合わされていたら、昼食を取り損ねてしまう。呆気にとられているローイを無視して、肩を怒らせたカトラがずんずんと歩き出す。あと少しで店に逃げ込めるといったところで、彼女を追いかけてきたローイが無遠慮に肩を掴んできた。その瞬間、ズゾゾゾゾッと凄まじい悪寒が体を駆け巡り、カトラは振り返りざまに彼の手を叩き落した。どうしようもなく、気持ち悪い。涙目のカトラに睨みつけられて、ローイは苛立ちを顕わにしながら叩かれた手を摩った。


「暴力まで振るうとは……哀れだな。まあ、いい。本題に入るのを忘れていたんだが……」

「忘れたままでお帰りください、さようなら」

「無礼な態度を改めろ、カトラ。お前に言ってやらなければならないことがあって、態々こんな所まで出向いてやったんだぞ?」

「頼まれてもいないのに上から目線で御高説を披露されるなんて、貴方って余程お暇なのね。聞く耳は持ちませんので、早々にお帰りください!」


 これ以上ローイに関わっていたら、精神的苦痛のあまり過食に走ってしまう。やっと心にゆとりが持てるようになって、無茶な食事をしなくなってきたというのに!

 苦痛の根源から逃れようと歩みを再開し、漸く店の扉の前までやって来られた。拒絶をされて尚、彼女の後をついてくるローイの口は塞がらない。


「叔父上が嘆いているんだぞ?ただでさえ恵まれない容姿をして、豚のように肥えていて、更には適齢期まで過ぎようとしている哀れなお前を。せめてもの親心で、お前の結婚相手を見つけてやろうと言ってやれば、お前は暴力を振ってくるというではないか」


 そういえば、と或ることを思い出したカトラは、鍵を開けた扉の取っ手を回そうとした手を止める。

 男爵家を飛び出して以来、一度も顔を見ていなかった父親のローズビャルトが彼女の前に現れたのは半月ほど前のことだ。カトラは父親に居場所を知らせなかったので、探偵を雇ってまで探しだしたらしい。そんなことをしてまで娘に伝えたかったことでもあるのかと意外に思っていれば、先程ローイが言っていた台詞を吐いてきたので、偶々手にしていた箒でタコ殴りにして追い返したやったのだ。


「非常識なお前は身の程を弁えず、叔父上に注文をつけたのだろう?結婚してほしければ、光り輝く貴公子ヘルギ・クヴェルドゥールヴを連れて来いと!」


 確かに言った記憶がある。カトラはやっと扉を開けて中に入り、何故かローイもついてきて朗々と歌うように彼女を貶す。容姿に恵まれない娘にせめてもの箔をつけてやろうと王宮に行儀見習いに出してやれば、礼儀を身に着けず、王侯貴族との伝手も作ってこなかったカトラは親不孝者であると。


(私のことなんて、これっぽっちも考えていないわよ、あの人は)


 表向きは行儀見習いだが、実際は生活費の為にカトラを王宮に送り込んだのだ。運が良いことにカトラは第二王女付きの侍女になれて稼ぎが良く、カトラの母親の実家の援助を打ち切られて困窮していた男爵家の生活を潤し、カトラの手元には何も残らなかった。何故かローイの大学の学費にまで使われた理由は、今でも分からない。


「お前は理解しているのか?光り輝く貴公子ヘルギのことを。容姿端麗な上に名門の生まれの、選ばれし者だぞ?美女を選びたい放題のヘルギがお前のような白豚を選ぶと思っているのか?鏡を見ろ、カトラ。背は低くはないが、お前は肥えている。腹が出ているし、腕も足も短い。首もない。顔の造形もいまひとつだ」


 偉そうにカトラを扱き下ろしているが、ローイは気がついているのだろうか。他人のことを見下せるほどの眉目秀麗ではないことに。分かった上で言っているのであれば、彼はどうかしている。


「家柄は釣り合うかもしれないが、如何せんお前は容姿が悪い。太りすぎだ。誰にでも分かるさ、白豚に貴公子は釣り合わないのだと。……現実を見るんだ、カトラ。いつまでも夢を見ているんじゃない。お前は美しい姫君ではないから、美しい王子と結ばれることはないんだ。私は男爵の甥として、悲しくて辛い現実をお前に教えてやっているんだ。感謝するんだぞ?」


 長ったらしい割には中身の無い話をするローイに背を向けて、無言を貫いているカトラが動き、店の奥に消えていく。


「やれやれ、泣けばよいと思って……幼い頃から何も変わらないな、お前は」


 気分が良くなったローイがにやにやしていると、店の奥に言っていたカトラが戻ってきた。右手に箒、左手に塵取りを装備したカトラが鬼の形相で仁王立ちをしている。面食らったローイは思わず呟いた。


「唐突に掃除を始めてどうするというんだ……?」


 カトラは答えた――「貴方という粗大ゴミを今直ぐに片付けたいからよ」と。

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