6.
隣室から聞こえた、わずかな衣擦れの音。
アイザックの不自然な沈黙と焦り。
それだけで、すべてを語っていた。
部屋に飾られた絵画の前を歩きながら、柔らかな声で問いかける。
「……この部屋は、あなたの私室だったかしら?」
「……ああ、そうだ。父の許可で、この部屋と奥の一角を借りているんだ」
「そう。とても居心地が良さそうな空間ね。落ち着いた色調に、趣味の良い絵画。飾ってある香水瓶は、どこのものかしら?見覚えがある気がして……」
アイザックの背が、ぴくりと揺れた。
ロザリンの視線は、鏡台の上に置かれた香水瓶に注がれていた。
それは、ミエールが好んで使っていた香りと同じ――。
この香水は瓶に刻印できるとして、人気な香水。
瓶をひっくり返すと――。
M.M
ミエール・マリーニュ。ミエールのイニシャルが刻まれた瓶。
やっぱり。これはミエールの物ね。ミエールはこの部屋に頻繁に出入りをしている。そして、先ほどからの物音は、奥の部屋にミエールがいるから。
「まさか、アイザック様が使っているわけではないでしょう?この香りは……少し甘すぎますもの」
「それは……ああ、その、妹が……立ち寄った時に、忘れていったんだ」
「妹、ね」
ロザリンはふっと微笑んだ。
その笑みには、これまで見せたことのない静かな怒りと、確信が宿っていた。
「なら、これは?」
ロザリンがそう言って持ち上げたのは、絨毯の上に落ちていたハンカチ。
白地に繊細な刺繍、そして角には「M」と金糸で記されている。
「これは……」
「私のものではないわ。刺繍も……、名前はMではなかったわよね?」
ロザリンの手は震えていなかった。
冷たい指先でハンカチを握りしめながら、真っ直ぐアイザックを見つめる。
「アイザック様。あなたは今ここで“嘘”をついたわ」
「ロザリン……違う、これは、ほんの偶然で――!」
「“偶然”という言葉が、どれほど人を傷つけるかご存じかしら?」
声を荒げるでもなく、涙を流すでもなく。
ロザリンは、静かに、ただ静かに言葉を紡ぐ。
「私は、ずっとあなたを信じていたの。母が微笑んでくれたことを、何より大切に思っていたから」
ロザリンはハンカチを、そっとテーブルの上に置いた。
「でも、あなたが、偶然だと言うならそうなのでしょうね。ここは、商会ですもの。たくさんの人が出入るする場所ですもの」
ロザリンの言葉にアイザックはホッと息を吐く。
今はまだダメ。
長年の信頼の裏切りの代償を、ここで終わらせるのなんてもったいない。
ロザリンは最後にひとつ、微笑んで言った。
「“仲間は家族。家族の信頼を裏切ってはいけない”――あなたの商会に掲げてあった言葉を、どうか胸に刻んで」
「勿論だよ。商人は信頼と信用が命だからね」
引きつった笑みを浮かべるアイザックに、ロザリンは部屋を後にする。
見送りをしようとするアイザックを断って、「そうだわ」思い出したかのようにロザリンは呟く。
「奥の部屋にいる雑用係さんに伝えて。お掃除ご苦労様さまですと」