5.
アイザックは目の前のロザリンを見て、一瞬、言葉を失った。
波うつ黒髪によく似合う、華やかな桜色のドレスに身を包んだロザリンは、まるで春の陽だまりのように柔らかく、それでいて芯のある美しさをまとっていた。母の死後、落ち着いた色の服しか選ばなかった彼女が、こんなにも明るい装いをするのは初めてだった。
「……ロザリン?」
困惑のにじんだ声で彼女の名を呼ぶアイザックに、ロザリンはゆるやかに微笑み返した。
「こんばんは、アイザック様。お会いできて嬉しいわ」
優雅に一礼するロザリンを、アイザックはしばし見つめた。
その目には、かすかな戸惑いと、抑えきれない興奮が混ざっていた。
「どうしたんだい?今日はずいぶん……印象が違う。まるで別人のようだよ」
「そうかしら?新しいドレスを仕立てたの。春ですもの、少し明るい色を着たくなったのよ」
柔らかく語るロザリンの声は、いつもより少しだけ低く、そして少しだけ甘かった。
それは、彼の心を引き寄せるためのものではなかった。ただ、試すためのもの。
アイザックの部屋――アーヴェント商会にある私室。
格式の高い応接間とは異なり、壁には数点の絵画と、異国の陶器。
(この部屋に来るのも久しぶりね)
ここに来た理由はロザリンが「話がしたいと」と手紙を送り、アイザックが応じたから。
「ここに来るのもいつぶりかしら?……思い出すわね。お父様が私たちを引き合わせてくださった頃のこと」
「……ああ。君の母上に贈ったあの料理。懐かしいね。あれでお母上の容体が少し良くなって、喜んでおられたのを思い出す」
「……そうね。お母様が、ほんとうに嬉しそうに笑っていたの。だから、私は――」
あなたの婚約を……“悪くないこと”だと思った。
口を閉ざしたロザリンは、悲しげに視線をふせる。
アイザックが少し身を乗り出した、その時――
隣の部屋から、小さく何かが落ちるような音がした。
――ガタッ。
「……今の音は?」
ロザリンが問いかけると、アイザックの眉がわずかに動いた。
「あぁ、……使用人が何か……いや、掃除か何かだろう」
「そう……?」
ロザリンは優雅に立ち上がった。
ドレスの裾が床をさらりと撫でる。
隣の部屋の扉を開けようと一歩踏み出すと、アイザックが立ちはだかる。
「アイザック様?」
「気にしなくて良い。それより、美術品を見ないか?父上が海外から購入した物だから、はじめて見るものばかりだろう?」
視線を泳がせて、不自然に話を変えるアイザックにロザリンはフッ微笑む。
「そうね。はじめて見る絵画ばかりだわ」
「そうだろう?ロザリンの父上のおかげで、海外の販路が増えたんだ」
得意げに話すアイザックを前に、ロザリンは微笑んだまま、部屋の中を歩く。
壁に飾られた絵画を眺める。
「本当に、素晴らしいわ。アーヴェント商会は順調なのね」
「もちろんさ。父上も君の家との縁組を喜んでいる。貴族の名門と我が家が繋がれば、商会の格も一段と上がるからね」
「ええ、きっとそうでしょうね」
ロザリンの声はどこまでも優しく、そしてどこまでも冷たかった。
ロザリンの父は財務省の高官。
幼い頃はなぜアイザックの父が、私の父に近づいたのか分からなかったけれど、今なら分かる。
「アイザック様、あなたにとって『仲間』とは何かしら?」
「『仲間』どうして急に……?」
「この部屋に来るまでに見たの。『仲間は家族。家族の信頼を裏切ってはいけない』と書かれた額縁を」
アイザックの表情がわずかにこわばる。
「あなたは、信頼をどう思っているのかしら?」
「……当然、大切だと思っているよ」
「じゃあ、信頼を踏みにじる人は、どう思う?」
アイザックは答えに詰まった。
その時――。
扉の向こうから、わずかに衣擦れの音が微かに聞こえた。
ロザリンはそれに気づいている。けれど、あえて追求しない。
ただ、淡々と、言葉のナイフを研ぎ澄ませていく。
「アイザック様。私は、信頼をとても大切にしています。家族も、仲間も、そして……婚約者も」
その一言に、アイザックの瞳がわずかに揺れた。
「今でも覚えているわ。お母様があなたからの贈り物を嬉しそうに受け取っていた時のこと。体調を崩していたお母様の笑顔を見られたことが、本当に嬉しかった。だから、私は――あなたを信じようと思ったの」
ロザリンは春の風のように穏やかな瞳をアイザックに向けた。
「……でも、もし私が“裏切り”を目にしていたら、どう思うと思う?」
「どう、思うんだ……?」
わずかに声を震わせて質問を質問で返すアイザックに、ロザリンはフフッと笑みをこぼす。
ロザリンはアイザックに一歩近づくと――。
「アイザック様。私の信頼を裏切らないで」
ロザリンの甘い囁きに、アイザックは息を呑んだ。