30.
昼下がりの王宮の廊下は、慌ただしく行き交う人々の足音で賑わっていた。
貴族や役人たちが忙しなく歩き、書類を抱えた侍従たちが小走りで通り過ぎる。
そんな中、男が穏やかな足取りで進むと、周囲の人々は挨拶をしようと足を止める。
「挨拶はいい。君たちの仕事を優先しなさい」
男は軽く手を上げ、柔らかな笑みを浮かべる。その声は穏やかだが、どこか威厳を帯びている。
「失礼します」
頭を下げ、小走りで去っていく背中を、男は三日月のように目を細めて見送った。
男の名前はイサーク・フィルナート。
侯爵という高位貴族でありながら、特有の威圧感はなく、いつも和かな笑顔を浮かべている。
平凡な暗い茶色の髪に、フィルナート家特有の澄んだ新緑の瞳。
親しみやすささえ感じさせる王宮勤めの彼は、部下からの信用も厚い。
王宮にある個人の執務室に入ると、彼が最も信頼する執事が静かに近づいてきた。
「ご主人様」
「どうした」
執事が差し出したのは、封蝋が施された一通の手紙。彼はその封蝋を見て笑みを深めたが、目はどこか冷ややかだった。
「その手紙は捨てるように言ったはずだ」
「承知しております。ですが……」
「なんだ?」
執事は一瞬ためらい、手紙を差し出しながら口を開いた。
「このまま無視をするなら全て話すと」
侯爵の笑みが一瞬凍りつく。
「ほぅ……。ドブネズミが大きく出たようだな」
手紙の封蝋を乱暴に開け、手紙に目を走らせる。
読み進めるごとに顔から笑顔が消え、手紙を持つ手に力がこもり、紙にシワが刻まれる。
「馬車の用意を」
「かしこまりました」
執務室を出て廊下を歩く侯爵のの足取りは、先ほどよりわずかに速い。
その時、廊下の先に古くからの友人であるエドウィン・シュヴァルツが現れる。
いつも笑みを絶やさないイサークに対し、エドウィンは気難しげな表情を浮かべている。
対照的な二人だか、学園で出会い同い年で身分の近い二人が仲良くなるのに、時間はかからなかった。
そして、今では同じ職場で働く同僚でもある。
エドウィンの姿に侯爵は足を止める。
急いでいるのを悟られないように、話しをしているとあることに気づく。
いつものように整えられた灰色の髪に、乱れのない服。
眼鏡の奥から覗く青い瞳が、普段より柔らかい光を宿していた。
「何かいいことがあったのか?」
「分かるか?実は、ロザリンが眼鏡をプレゼントしてくれたんだ」
"ロザリン“
それは、エドウィンの娘の名前。
その名前に侯爵の表情が一瞬固まる。だが、笑顔を崩すことなく、穏やかに話す。
「仲が良くて羨ましいよ」
「君には娘がいないからな」
「娘が欲しかったが、息子が三人もいるよ。息子たちからプレゼントなんて、貰ったことがない」
肩をすくめながら言う侯爵に、エドウィンは笑う。
「そうだ、今度ロザリンの誕生日パティーを開く。君も来るといい」
「あぁ.その時はもちろん行かせてもらうよ」
二人は軽く言葉を交わし別れた。
だが、エドウィンが角を曲がって見えなくなると、侯爵の顔から笑みが消える。
代わりに浮かんだのは、鋭く冷たい光を帯びた瞳だった。




