1.
憂鬱な気分を変えるために、ロザリンは街へ足を運んでいた。
母が最期まで好んでいた、あの小さな菓子店のマドレーヌを買うために。
侍女を連れて馬車に乗り、ゆるやかに街路を進んでいたその時だった。
白いレースのカーテン越しに、見慣れた紋章の馬車が視界に入った。
……あれは、ミエールの馬車。
そして、向かっている先は――アイザックの家が経営する、〈アーヴェント商会〉。
"偶然"だろうか?
ただ街路を走っているだけ。ミエールがアイザックに会いに行っているなんて考え過ぎよ。
ロザリンは考えを巡らせていると、ふいにティータイムが脳裏をかすめる。
ぬるくて苦い紅茶。優しいはずの婚約者が、自分ではなくミエールの隣に座っていたこと。
胸の奥に残った違和感が、ゆっくりと形を成し始める。
「お嬢様、前を……!」
馬車が止まり、侍女の声に視線を前へ向ける。
人がまばらなアーヴェント商会の門前。
親子らしき女性と幼い少年が追い出されるように、門の外へ押し出されていた。
門から男性が一人姿を現す。
あの人はアイザックのお父様の秘書……?
「何かあったのかしら?」
「お金を恵んでもらおうとして、追い出されたのはないでしょうか?アーヴェント商会は慈善活動でも有名ですから」
「それにしても、物々しい雰囲気だけど……」
確かに、女性の身なりは汚れていて、お金に困っていそうな見た目ではある。
けれど、お金に困っている人を、あんな風に乱暴に扱うことをするだろうか?
アーヴェント商会は慈善活動に力を入れるほど、広報に力を入れている。
貧しい親子を追い出したなんて知られたら、商会のブランドに傷がついてしまうかもしれないのに。
秘書と女性のやり取りに目を凝らす。
5歳ぐらいに見える明るい茶髪の少年は、小さな身体をさらに小さく丸めて泣いている。
女性が石畳みに手をついて「ーーー……!!」と何かを訴えているが、馬車の中までは声が届かない。
秘書はゴミを見るような冷たい表情で背を向け、木製の門は無情に閉じられた。
「話し声は聞こえた?」
「離れていて、馬車の中にいるので声までは聞こえませんでした」
「そうよね……」
閉め出された女性は少年を抱き締めると、おぼつかない足取りで街路へと歩いて行く。
馬車が行き交う方に、重い足取りで歩く親子。
大丈夫かしら?
嫌な予感がしてロザリンは親子から視線を外せないでいると。
一台の馬車が馬車が親子にスピードを緩めることなく近づく。
その親子が顔を上げる。次の瞬間、馬車は親子の目の前に迫っていた。
「危ないっ!」
ロザリンが叫ぶのと同時に、御者が手綱を引き、馬車が急停止する。
馬はけたましい鳴き声を上げて、足を大きく振り被った。
道を歩く人々も、馬の鳴き声に視線を向けて今にも轢かれようとしている親子を見て、悲鳴をあげる。
あのスピードじゃ間に合わないわ。
最悪の事態にロザリンは顔を背けようすると、視界に何かが横切った。
疾風のように飛び込んできた一人の男性だった。
銀髪の彼は女性と少年をかばうように腕で抱き、地面を転がりながら衝撃を受け止め――
「……っ!」
石畳に背を打ちつけた彼は、痛みで顔を歪めて短く呻いた。
「お、お嬢さまっ……!お待ちください!!」
侍女が制止する声を無視して、ロザリンは馬車から飛び出した。
馬車は止まることなく、どこかへ走って行った。
青い顔をした女性に、何が起こったのか分っていない少年。そして、うずくまっている男性を残して。
良かった……。酷い怪我はしてないみたいね。
死に関わるような外傷がない様子にロザリンは、ほっと息をつく。
「お怪我はありませんか?」
「あ、あたしも息子も大丈夫です。あたし達より、彼が……」
応急処置のため、ロザリンは男性を馬車に招き入れた。
少年と母親は既に見ていた街の人々に引き取られており、ロザリンの関心は目の前の男に向いていた。
傷は浅いが、肘と脇腹に擦過傷がある。
すごく痛そう……。
すでに赤黒くなっている打撲痕に、ロザリンは顔を歪める。
侍女が薬を取り出そうとするのを遮り、ロザリンは自身のハンカチと香油を差し出した。
「このくらいの怪我、平気です」
低く落ち着いた声。赤色の瞳には礼儀と、わずかな警戒。
「でも……、怪我人を放っておくことはできませんわ。お名前を、お聞きしても?」
ハンカチを差し出して微笑むロザリンの問いに、彼は言い淀む。
「マクシミリアン・エルヴェルトと申します。今は軍務省にて――騎士として任務を」
――エルヴェルト?
その名に、ロザリンは思わず瞬きをした。
王家直属の枢密院で、代々高官を輩出する名門の家。枢密院の近衛騎士なら分かるけれど、今は"軍務省"の騎士?
「エルヴェルト家といえば……確か公爵家ですよね?」
「ええ。ただ、家の道とは別の道を選びました。性に合わないので」
あくまで淡々と話すその横顔は、誇り高くもどこか疲れていた。
ロザリンはそっと笑った。
「……私も、家の“望み”に従って生きてきました」
その言葉に、マクシミリアンが初めて彼女を正面から見た。