第20話 吐き気を催しました
国際錬金術協会の総会まで、あと三日。
私は発表用の模型に向かって、最後の調整を続けていた。
銅線をより合わせ、結晶の角度を微調整する。
この作業に没頭している時だけは、余計なことを考えずに済む。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
ユゼフが紅茶を運んできてくれた。
「ありがとう」
カップを受け取ると、ダージリンの香りが広がった。
その香りがあの日の思い出を呼び起こす。
いけない。
ふとしたことで思い出してしまうな。
「順調ですか?」
「ええ、あとは発表の練習だけ」
私はそう答えながら、窓の外を見た。
あれ以来、キュリー様は来られない。
王女様とのお時間を大切にされているのだろう。
それが正しいことだ。
「お嬢様! 僕にできることがあればなんでも言ってくださいね!」
私を心配してくれたのだろう。
ユゼフが勢いよくそう言ってくれる。
「ユゼフは十分よくやってくれてるよ」
「まだまだです! 遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう」
私は、本当に恵まれているな。
恩返しのためにも、この発表を成功させる。
「マリ様、来客です」
研究室のドアが開き、秘書が顔を出した。
「どなたですか?」
「スィフト国からのお客様です。ケルヴィ・ユーディラス様とおっしゃっています」
手に持っていた工具が、カランと音を立てて床に落ちた。
「ケルヴィ…?」
まさか、あのケルヴィが?
どうして?
「お会いになりますか?」
秘書が尋ねる。
断る理由はない。
いや、山ほどあるけれど、公的な立場として断れない。
ケルヴィがただの観光でこの国に来るわけがない。
明日の総会の来賓としてだ。
「応接室にお通しください」
不吉なほど心臓が脈打っている。
今さら、私と会って、何を話すと言うのだろう。
しかも国際錬金術協会の総会の直前に。
応接室に向かう廊下で、足が震える。
「大丈夫ですか?」
ユゼフが心配そうについてきてくれている。
「ええ…」
でも声も震えている。
「取り込んでいると断ってもいいんじゃないですか」
「そうね」
確かに言い訳はいくらで作れそうな気がする。
でもここでケルヴィから逃げたら、祖国からも、錬金にも、逃げてしまっているような気がする。
扉を開けると、そこにケルヴィが座っていた。
金髪を後ろに流し、高価そうな身なりをしている。
ケルヴィがそこにいる。
それだけで、吐き気をもよおした。
「久しぶりだな、マリ」
ケルヴィが振り返る。
「お久しぶりです、ケルヴィ様」
「様? 水臭いな。昔のように呼んでくれよ」
ケルヴィは親しげに笑った。
まるで何もなかったかのように。
「ご用件は何でしょうか」
「まあまあ、そう堅くなるな。座って話そうじゃないか」
仕方なく、向かいの椅子に座る。
「君がここで大活躍していると聞いてね。さすがは俺の元婚約者だ」
吐き気に思わず口をおさえる。
「お褒めの言葉、恐縮です。ご用件は以上ですか?」
話を一刻も早く切り上げたい。
「そんなわけないだろう。実はマリに提案があってね」
ケルヴィは身を乗り出した。
「スィフトに戻ってこないか?」
「は?」
思わず聞き返してしまった。
「もう十分だろう。外国になど身をおかずに、わがまま言わずに帰ってこい」
怒りのあまり叫びそうになるのを喉元で押し留めた。
「お断りします」
怒りがにじみ出ていると自分でもわかるがどうしようもない。
「おいおい、そんなにあっさり断るなよ。条件を聞いてからでも遅くない」
ケルヴィは余裕の表情を崩さない。
「どんな条件でも、私の答えは変わりません」
「年収は今の倍、いや3倍でもいい。研究費は無制限」
ケルヴィは一呼吸置いた。
「俺との婚約も復活させる」
耳を疑った。
「何を言っているんですか?」
「君も一人では寂しいだろう? 俺も、君の良さが分かったんだ。やり直そう」
ケルヴィは自信満々にそう言った。
呆れが込み上げてきた。
こんな人に、怒りや吐き気を感じるのもバカバカしいと思うほどに。
「エミリアさんはどうしたんですか?」
「ああ、あれは遊びだったんだ。やっぱり貴族同士じゃないとね」
この人は、本当に何も変わっていない。
「私はもう貴族ではありません」
「形式上はね。でも血筋は変わらない」
ケルヴィは立ち上がり、私に近づいてきた。
「君も本当は分かっているだろう? 異国でどんなに頑張っても、所詮は外国人。いつまでも根無し草だ」
「そんなことはありません。この国の方たちは私を尊重してくれています。あなたなんかより」
言葉の端にトゲが出てしまう。
「強がるなよ。公爵の愛人になったところで、どうせ捨てられる。王族の遊び相手なんて、そんなものさ」
「愛人?」
思わず立ち上がる。
「私は研究者として雇われています。失礼なことを言わないでください」
「研究者? ハッ、笑わせる。若い女が夜中に公爵の部屋に呼ばれて、朝まで二人きり。それを研究と呼ぶのか?」
「それは」
「俺も馬鹿じゃない。ちゃんと調べさせてもらったよ」
ケルヴィはにやりと笑った。
「まあ、俺は寛大だから許してやる。むしろ、公爵に仕込まれた技術があるなら、それはそれで」
自分の手のひらに衝撃が走った。
私の手が、ケルヴィの頬を打っていた。
「出て行ってください」
声が震えている。
人を叩いたのは初めてだ。
こんなにも生々しく気持ち悪いなんて。
「おいおい、興奮するなよ。俺は君のことを思って」
「出て行って!」
大声で叫んだ。
扉が勢いよく開き、ユゼフが飛び込んできた。
「お嬢様!」
「この方にお引き取りいただいて」
ユゼフは状況を察したのか、ケルヴィを睨みつけた。
「お引き取りください。これ以上騒いだらどうなるかわかるお分かりでしょう」
「ふん、相変わらず感情的だな」
ケルヴィは頬を押さえながら立ち上がった。
「いいだろう。でも覚えておけ。君は必ず後悔する」
「後悔なんてしません」
「そうかな? 国際錬金術協会も、スィフトは有力な一員だ。君の発表、楽しみにしているよ」
最後にそう言い残して、ケルヴィは去っていった。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
ユゼフが心配そうに駆け寄ってきた。
「ええ….大丈夫」
怒りと、悔しさでどうにもならない。
涙がぽろぽろとこぼれ落ちてくる。
「あんな奴の言うこと、気にしないでください」
ユゼフが背中をさすってくれる。
「ありがとう、ユゼフ」
深呼吸をする。
そうだ。
4こんなことに心を乱されている場合じゃない。
今は発表の準備に集中しなければ。
「マリ様、どうかされましたか?」
秘書さんが心配そうに私を見る。
「大丈夫。気にしないで。心配してくれてありがとう」
慌てて大丈夫に見えそうな顔を作る。
秘書さんの心配そうな表情は消えなかった。
まあそうだよね。
秘書が両手で大切そうに封書を持っているのが見えた。
「それは?」
「あ、これですか? お便りです。公爵閣下から…」
「え?」
手紙を受け取る。
「キュリー様」
ようやくが止まった手が、また震えだす。
何事だろう。
さっきのケルヴィの気味の悪い笑顔がよぎる。
震えをおさえながら、封を切って中身を見る。
『マリへ
急な仕事で総会に同行できなくなった。君の発表を見られないのは残念だが、必ず成功すると信じている。
もちろん、エリザベスも応援している。』
明日、キュリー様がいらっしゃらない。
その事実が、胸に冷たく重くのしかかる。
私はケルヴィを前にして、あの大役を務めなくてはいけない。
ユゼフと秘書さんが心配そうな顔で私を見る。
自分の胸をトントンと叩いた。
「公爵様はいらっしゃることができないみたい」
「え、そうなんですね」
ユゼフが不安な顔をする。
私の気持ちを案じてのことだろう。
私がしっかりしなきゃ。
「公爵様が私のことを応援してくれると、お忙しい中、書状を書いてくださったのよ。頑張らなきゃね」
精一杯笑顔をつくる。
「はい!頑張ります」
ユゼフも笑顔を作ってくれた。
手紙を胸に抱きしめる。
一人じゃない。
ここには、私を信じてくれる人たちがいる。
キュリー様だって、こんなにも心を寄せてくれている。
窓の外を見ると、夕焼けが街を赤く染めていた。
総会まで、あと三日。
実験台に戻り、模型の最終チェックを始める。
手はまだ少し震えているけれど、それでも。
一本一本の銅線を、丁寧に確認していく。
言葉じゃなく、成果で示す。
それが錬金術師としての私の存在意義だ。
「お嬢様、夕食の時間ですよ」
ユゼフの声で我に返る。
もうそんな時間か。
「もう少しだけ」
「ダメです。ちゃんと食べないと」
ユゼフは本当に私のことを心配してくれる。
「そうね、ありがとう」
工具を置いて立ち上がる。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
慌ただしい足音。
「マリ様! 大変です!」
秘書さんが飛び込んできた。
「どうしました?」
「総会の件で、スィフト国から抗議文が」
血の気が引いた。
ケルヴィ。
「内容は?」
「貴女の研究内容が、スィフト国の機密を含んでいるという申し立てです」
手紙を受け取る。
開封すると、そこには確かに正式なものだった。
『マリ・ラ・ジョリオの研究は、スィフト国アルケミア研究所在籍時の 機密情報を不正に持ち出したものである。 よって、国際錬金術協会での発表を禁止することを要求する。』
これは…、まずい。
本当にまずいことになった。




