第13話 ドレスがとても似合うと言われました
鏡の前に立つと、いつもと違う自分が映っていた。
ジェイムスさんから贈られた淡い緑色のドレスは、シルクのような生地が柔らかく肌に馴染み、シルバーの刺繍が光を受けて煌めいている。
手で生地に触れると、滑らかな感触が指先を包んだ。
この色は、あの日エメラルドグリーンの液体で手を染めた時の色に似ている。
ジェイムスさんはそれを覚えていて選んだのだろうか。
髪をていねいに結い上げ、首元にさりげなくレースのショールを巻く。
普段は実験着に身を包み、実用的であることしか考えない私が、今日はこんな姿になっている。
胸の奥で鳥が羽ばたくような感覚がする。
今日、公爵様に会う。あの夜以来、初めて。
時計の針がゆっくりと動き、面会の時間が迫っていた。
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来賓大広間に案内された。
普段は使われない、大切な来客のための部屋だ。
室内に漂う上品な香り。
天井からは水晶のシャンデリアが優雅に光を散らし、壁には絹の壁紙が施されている。
窓からは柔らかな陽光が差し込み、部屋全体を金色に染めていた。
この風景のどこかに、公爵様がいらっしゃる。
「マリさん」
声がして振り返ると、ジェイムスさんが立っていた。
彼は今日も洗練された紺色のスーツに身を包み、胸ポケットからは白いハンカチが少しだけ覗いている。
「ジェイムスさん」
「そのドレス、とてもお似合いです」
彼は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。素敵なドレスをいただいて…」
言葉に詰まる。この人の優しさに、どう応えればいいのか。
「公爵閣下はもうじき到着されます」
ジェイムスさんは腕時計を見た。その所作にも気品が漂う。
「緊張されていますね」
「少し…」
彼は私の近くに来て、かすかな香水の香りと共に静かに言った。
「マリ・ラ・ジョリオ、あなたは我々の代表として、公爵閣下とお会いします。そんな顔でどうするのです。あなたの姿を堂々と見せてください」
その言葉に、私は背筋を伸ばした。
そうだ、個人的な感情は脇に置いておかなければ。
「ありがとうございます。しっかりと務めを果たします」
ジェイムスさんは微笑んだ。
そのとき、秘書らしい見た目の男性が近づいてきた。
「マリ様、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
あ、バンデンさん
声に出しそうになって、止めた。
あの日、公爵閣下の護衛として同席していた人。
短い時間の関わりだったし、私のような一介の案内人など記憶に残っていないだろう。
「どうかされましたか?」
「いいえ、なんでも」
バンデンさんが覚えてないのに話しかけては困らせてしまうだろう。
「では、こちらへ」
バンデンさんは私を廊下の奥へと案内し、大きな扉の前で立ち止まった。
「では、こちらに閣下がいらっしゃいます。どうか実りある時間をお過ごしください」
扉が大きく開かれ、その姿が現れた。
私の頬に熱が集まるのを感じた。
公爵ポープ・アーバスノット。
三ヶ月前に別れた時と変わらぬ凛々《りり》しい姿。
深い海のような青の瞳、彫刻のように整った顔立ち、そして王族を思わせる気品ある立ち姿。
黒を基調とした正装は肩幅を強調し、胸元の赤いバラが一層の華やかさを添えていた。
彼の目が、部屋の中を探るように動き、そして私と目が合った。
一瞬、彼の瞳が広がり、そして温かな微笑みが唇に浮かんだ。
「マリさん、お久しぶりです」
私の名前を覚えていてくれた。
「公爵閣下、お久しぶりでございます」
私は丁寧にカーテシーをした。
それが精一杯の自己防衛だった。
顔を上げなければ、この感情の波が表情に出ないかもしれない。
ドレスの裾が床に広がり、光を受けて揺れる。
上げた手が、わずかに震えているのが自分でも分かった。
「キュリーで良いと言ったはずでしたが」
「そんな、おそれ多い…」
公爵様の靴音が近づいてきた。
顔を上げると、彼はすぐそばに立っていた。
まるで、あの時のホテルの部屋のように。
「あなたとお会いできるのを、心待ちにしてました」
その言葉に、言い知れぬ喜びが胸を満たした。
すぐ、喜びが曇ってしまった。
「私も…再会できて嬉しく思います」
なぜだろう。わかっていたはずなのに。
なぜ、視線をそこに移したのだろう。
彼の左指には、プラチナの指輪がきらめいていた。
「でもまさか、たった三ヶ月とは。やはり私の目に狂いはなかった」
公爵様はエスコートしながら、私の耳元にそっとそう言葉を付け足した。
また、耳元を抑えてしまった。
耳が熱を持っている。
バカだな、私は。
促されて着席する。
紅茶が運ばれ、その芳醇な香りが部屋に広がる。
「この国のため、大きな貢献をしてくれたこと、代表してお礼申し上げます」
「光栄です」
私は言葉を選びながら答えた。
「この国と、この事業に携わるみなさんのおかげです」
「いいえ、あなたの才能ですよ」
公爵様は目を細め、私をじっと見つめた。
あの時から変わっていない。
アクアマリンのようなキラキラした瞳だ。
「あの夜から、ずっと待ちわびていてました。あれほど刺激的な夜はなかったと言っても過言ではありません」
あの夜のこと。ホテルで一晩中語り合ったこと。
公爵様はそれを覚えていてくれたのだ。
思い出すだけで、頬が熱くなる。
「閣下。その発言、他のものが聞いたら誤解します」
バンデンさんがたしなめる。
「そうかな。気をつけなきゃな」
「しかし、あの日のことは私も鮮烈に覚えています。まさか再開できるとは思っていませんでしたが」
バンデンさんも私のことを覚えてくれたんだ。
「だから言ったじゃないか。この人ならきっとすぐに何かしらの成果をあげると」
公爵様がくだけた感じでバンデンさんに言う。
本当に仲がいいんだな。
「その割にはマリ様の名前を聞いて、驚いていましたね」
「それはそうだ。何のサポートもせず、野に放ったんだぞ。それでこの人が露頭に迷ったりしたらどうする。バンデン、お前のせいで国家の大きな損失になるところだったんだ」
「それは失礼しました」
バンデンさんはしれっと答える。
「そんな、十分にサポートはしてもらいました。特にジェイムスさんには」
「ジェイムスか。あいつに会えたのは幸運でしたね」
「はい、とても」
「閣下、今日は時間が限られているので」
「そうだった」
公爵様は姿勢を正した。
「さて、本題に入りましょう」
「本題、ですか?」
「もちろん、あなたの功績を称えるのが本題ではありますが、もう一つあります」
公爵様は少し前かがみになり、声を落とした。
柑橘系の香水の香りがほのかに漂ってきた。
「私の国で新たに立ち上げる研究機関の主任として、あなたを招聘したいのです」
予想外の言葉に、胸が高鳴った
「新たな研究機関…ですか? どんな内容ですか?」
「通信です」
公爵様の青い瞳が情熱で輝いていた。
「通信?」
「そうです。例えば、この国から、あなたの国に住むご両親まで、たった数時間で、いや数分でメッセージを送ることができる。そんな技術を目指したい」
彼は熱を込めて語り続けた。
こんな夢物語を本気で、夢中で話をするこの人はなんなんだろうと思った。
「あなたのような、両方の知識を持つ人材がどうしても必要なのです。あらゆる資材と設備を用意し、自由な研究環境をお約束します」
「やります!」
気がついたら即答していた。