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散りゆく聖樹と哀歌の騎士

作者: W732

第1章 華麗なる檻の輝き


 王都アルカディア。その名は、遥か古の言葉で「楽園」を意味した。文字通り、この国の中央にそびえる都は、地上に築かれた奇跡そのものだった。魔法技術の粋を集めたクリスタルの尖塔は、夜空へと吸い込まれるように伸び、先端に埋め込まれた聖なる輝石が、満天の星々にも勝る光を街中に降り注ぐ。舗装された大通りには、魔法の動力で動く「風翔艇ふうしょうてい」が優雅に行き交い、その流線形の機体はまるで空を泳ぐ魚のようだった。


 ヴァレリアン公爵邸は、そんなアルカディアの最上層区でもひときわ目を引く場所に位置していた。広大な庭園には、季節を問わず色とりどりの花々が咲き誇る。これは、純粋な魔力によって維持された奇跡の庭。そして、その奇跡の中心にいるのが、公爵家の一人娘、リリアーヌ・ド・ヴァレリアンだった。


「リリアーヌ様、今日の御召し物はこちらでいかがでしょう? 聖樹の巫女の儀式に相応しい、新緑を思わせる色合いでございます」


 侍女の声に、リリアーヌは窓辺から振り返った。深緑のシルクに金糸で聖樹の紋様が刺繍されたドレスは、ため息が出るほど美しい。彼女は、この国の豊穣と民の平穏を司る「聖樹の巫女」として定められていた。遥か古代よりヴァレリアン家に受け継がれる血には、聖なる樹の魔力が宿る。リリアーヌの指先から放たれる微かな光が、枯れかけた植物を蘇らせ、実りに恵みを与える。その奇跡の力が、このアルカディアの繁栄の源なのだと、王は、宰相は、そして民は信じていた。


 故に、リリアーヌの生活は、一切の不自由なく、そして一切の危険から隔絶されていた。彼女のいる場所は、最も安全な「檻」だった。

「ありがとう、マリア。でも、こんなに豪華な衣装でなくても…」

「とんでもございません! リリアーヌ様の聖なるお力があればこそ、この国は潤っているのです。巫女様の美しさは、この国の繁栄の象徴でございます」


 マリアの言葉に、リリアーヌは微笑みながらも、胸の奥に小さな違和感を覚えた。本当に、そうだろうか? この繁栄は、本当に皆に等しく降り注いでいるのだろうか。


 午後。リリアーヌは、公爵邸の図書室で、古びた地理書を広げていた。聖樹の巫女としての教養は、この国の歴史と魔法、そして「世界」を知ることだと言われている。しかし、書物の中で描かれる「下層区」の記述は、いつも曖昧で、現実味がなかった。


「…下層区の民は、王家の慈悲により慎ましく暮らしている…」


 そう記された文字を指先でなぞる。果たして、本当にそうなのか?


「リリアーヌ様、休憩の時間ですよ」


 背後から優しい声が聞こえ、リリアーヌは顔を上げた。そこに立っていたのは、すらりとした長身に、銀色の髪を短く切り揃えた、凛々しい騎士、エリオット・ド・グランヴィルだった。王宮騎士団の黒い制服に身を包んだ彼女は、騎士団の中でも一目置かれる存在だった。


「エリオット、もう時間?」

「ええ。あまり根を詰めると、御体に障りますから」


 彼女は男として育てられ、王宮騎士団へと入った、リリアーヌの幼なじみであり、最も信頼する近衛騎士だ。彼女の騎士としての腕は誰もが認め、若くして騎士団の小隊長を務めるほど。その瞳は常に理性的で、感情の揺らぎを見せることはほとんどない。だが、リリアーヌは知っていた。彼女の瞳の奥に、自分と同じ、いや、それ以上に深い思考が宿っていることを。


「ねえ、エリオット。この本には、下層区のことが、とても穏やかに書かれているけれど…本当にそうなの?」


 リリアーヌの問いに、エリオットは一瞬、表情を硬くした。

「…公爵邸からでは、見える景色も限られますから。書物の内容は、時に古く、そして都合の良い記述に塗り替えられることもあります」


 エリオットはいつも、こうして曖昧な答えを返す。決して嘘は言わないが、真実の全てを語ることもない。彼女のその慎重さに、リリアーヌは漠然とした不安を覚えるのだ。


 その時、図書室の扉がノックされた。

「エリオット様、失礼いたします。警備隊長から、巡回報告でございます」


 現れたのは、エリオットの部下であり、常に彼女の傍らに立つ騎士、セドリック・ド・ラ・クロワだった。彼はエリオットより少し年下だが、真面目で実直な性格だ。青みがかった銀の瞳は、常にエリオットの背中を、まるでひだまりを求める子猫のように慕っているのが、リリアーヌには見て取れた。セドリックの想いが、エリオットに届いているのかどうかは、誰にも分からなかった。


「わかった。すぐに行く。リリアーヌ様、失礼いたします」


 エリオットは一礼すると、セドリックと共に図書室を出て行った。セドリックは、エリオットの背中を追いながら、時折、彼女の顔を心配そうに覗き込んでいる。その姿に、リリアーヌは寂しさを覚えた。自分には知りえない、彼らが知る「世界の影」があるのだろうか。


 その日の夜、アルカディアの夜空を彩る「星の祭典」が開催されていた。王宮を舞台に、貴族たちが豪華絢爛な舞踏会に興じ、魔法の光が街中を覆い尽くす。王都全体が、まるで一つの巨大な宝石箱のようだった。


 リリアーヌも、エリオットの護衛のもと、舞踏会に参加していた。軽やかなワルツの調べがホールに響き渡り、貴族たちは笑顔で杯を傾けている。誰もが、この繁栄が永遠に続くことを疑わない、完璧な世界。


 エリオットは、そんな喧騒の中で、一人静かにホールを見渡していた。彼女の瞳は、華やかな装飾や楽しげな人々の奥にある、何かを見透かしているようだった。彼女の視線が、ふと、窓の外に向けられる。王宮の高い塔からしか見えない、遥か彼方の闇。クリスタルの光も、魔法の祝福も届かない、王都の「外側」だ。


「エリオット、どうしたの?」

 リリアーヌが尋ねると、エリオットは微かに首を振った。

「いえ。ただ、この光景が、あまりに完璧で…」


 完璧すぎるゆえに、どこか危うさを感じる。エリオットの心に広がる、漠然とした違和感。

 その時、エリオットの懐にある、王宮騎士専用の小型通信機が微かに振動した。それは、緊急時を知らせる信号だった。彼女は周囲に悟られないよう、そっと手を伸ばし、通信機に触れる。

 受信した情報は、たった一言だった。


『魔力の変動を確認。王都西方、聖樹の森方面より。異常な高まり』


 エリオットの表情から、一瞬にして感情が消えた。瞳の奥に、警戒の色が宿る。リリアーヌは、その変化を見逃さなかった。

「エリオット…何かあったの?」


 エリオットは、リリアーヌに背を向け、窓の外の闇を見つめた。その先には、王都の光を隔てるように広がる、古くから神聖視されてきた「聖樹の森」がある。かつて、その森は聖樹の恵みと秩序の象徴だった。だが、今、その神聖な場所から、不穏な魔力の脈動が感知されたという。


 舞踏会の音楽は、陽気に響き続ける。誰もが、この完璧な夜の終わりを疑わない。

 しかし、エリオットの心には、既に嵐の予感があった。

 この楽園の「檻」に、やがて来るであろう激しい嵐の兆候が。



第2章 予兆の影、揺らぎ始める調和


 王都アルカディアの「星の祭典」から数週間が経った。しかし、エリオットの胸に去来した不穏な予感は、決して思い過ごしではなかった。聖樹の森で感知された異常な魔力の変動は、日を追うごとに強まり、王都全体を覆う魔法の結界にも、目に見えないひび割れを生じさせていた。


「団長、下層区での餓死者が、この一ヶ月で倍以上に増えました。また、奇妙な病が蔓延し始めているとの報告も」


 騎士団本部の会議室で、セドリックが重い口調で報告する。彼の青みがかった銀の瞳には、明らかに疲労と、そして憤りが浮かんでいた。エリオットは静かに耳を傾けながら、その報告書に目を通す。そこには、第1章で描かれた王都の華やかさとはかけ離れた、冷酷な現実が綴られていた。魔法によって維持される豊かな上層区とは対照的に、下層区は既に地獄と化しつつあった。


「聖樹の森の魔力変動が、王都の魔力供給に影響を与え始めているようです。結界の維持に異常なほど魔力が必要となっており、その分、下層区への配分が削られていると…」


 別の騎士が続けた。王室は依然として状況を楽観視し、宰相と貴族院は「聖樹の巫女」であるリリアーヌの力があれば全て解決すると喧伝するばかり。民衆からの税は増え続け、その金は聖樹の儀式のためと称して、貴族たちの懐へと消えていく。


「こんな状況で、貴族たちはまだ舞踏会を開き、贅沢三昧か!」


 血気盛んな若手騎士の一人が声を荒らげた。エリオットは何も言わない。しかし、彼女の琥珀色の瞳は、深く冷たい光を宿していた。


 騎士団長の顔には、深い疲労が刻まれていた。

「我々騎士団は、王家の犬だ。民衆の苦しみを知りながら、上からの命令に従うしかない。情けないことだがな…」


 その言葉に、エリオットの心は激しく揺さぶられた。彼女は騎士として、王家に忠誠を誓っている。しかし、その忠誠が、目の前の民の苦しみを無視することに繋がるなら、それは本当に正しいことなのか?


 一方、ヴァレリアン公爵邸では、リリアーヌが自身の魔力の異変に直面していた。


「どうしてなの…? このフローラ、何度癒してもすぐに枯れてしまう…」


 彼女が手をかざす花々は、聖樹の巫女の魔力で常若に保たれるはずなのに、最近では生命力を失っていく一方だった。聖樹の森で異常な魔力変動があるという報告は、彼女の耳にも入っていた。森と巫女の魔力は繋がっている。これは、その森の異常が、巫女である自分にも影響しているということなのか。


 その日の午後、リリアーヌは、エリオットが久しぶりに公爵邸に戻ってきたことを知った。彼女はすぐにエリオットの部屋を訪ねた。


「エリオット! あなた、最近あまり戻ってこないけれど、何かあったの?」

 エリオットは、制服のボタンを外し、剣の手入れをしていた。彼女の顔色は少し悪く、普段の冷静な表情の裏に、深い疲労が滲んでいる。

「リリアーヌ様。少し王都の外縁部の警備が強化されているだけです。ご心配には及びません」


 いつものように曖昧な答えだ。だが、リリアーヌはその言葉の裏にある「何か」を感じ取っていた。

「…嘘でしょう? 私の聖樹の魔力がおかしいの。森の魔力変動が原因だって、あなたは知っているわよね? このままじゃ、きっと…」


 リリアーヌの言葉に、エリオットの手がピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳でリリアーヌを見つめた。

「…リリアーヌ様。あなたは、この国の希望です。その希望を守るためならば、私はどんなことでも…」

「そうじゃない! 希望が、こんな閉ざされた場所で、真実を知らずにいて、何ができるというの!?」


 リリアーヌは、自身の「檻」に苛立ち、声を荒げた。その時、セドリックが部屋の入り口に現れた。彼の表情は、普段の柔和さからは想像できないほど険しい。


「エリオット様! 緊急の報です! 下層区で、大規模な暴動が…!」


 その言葉に、エリオットの体が硬直した。リリアーヌの顔から血の気が引く。

「暴動…?」

「はい…食料を求める民衆が、王都の食料庫に向けて押し寄せています。衛兵隊だけでは手が回りません。騎士団への出動要請が…」


 セドリックは、エリオットに深々と頭を下げた。

「エリオット様。どうか、私にも同行させてください。あなたの剣が、今こそ必要です!」


 エリオットは、セドリックの真剣な眼差しを受け止めた後、リリアーヌに目を向けた。彼女の瞳には、決意と、そして悲痛な色が宿っていた。

「リリアーヌ様。私は、行きます」

「エリオット!」

「これは、私の務めです。そして…騎士として、見過ごせない」


 そう言い残し、エリオットは素早く部屋を出て行った。セドリックも、一礼して彼女の後に続く。

 部屋に残されたリリアーヌは、身震いした。外の世界で、今、何が起きているのか。その真実を知ることが、こんなにも恐ろしいことだとは。



第3章 断ち切る鎖、選び取る道


 セドリックの意識のない身体を抱きかかえ、エリオットは暴動の渦中に立ち尽くしていた。燃え上がる下層区の炎が、彼女の顔を赤く染める。目の前で繰り広げられるのは、食料庫を奪おうとする民衆と、それを必死で食い止めようとする衛兵隊の衝突。しかし、エリオットの目に映るのは、ただひたすら、飢えと絶望に駆られた人々の姿だった。


「これ以上は…無理だ」


 騎士団長の声が、耳鳴りのように響く。王宮からの命令は「鎮圧」だが、これでは無益な殺戮になるだけだ。民衆の怒りは、もはや剣や魔法で抑え込めるレベルを超えていた。


 エリオットは、セドリックを安全な場所に横たえると、立ち上がった。その琥珀色の瞳は、迷いを捨て、冷たい光を宿していた。

「団長。私は、このままではいけないと思う」

「何を言っている、エリオット! 貴様は王宮騎士だぞ!」


 しかし、エリオットは聞く耳を持たない。彼女は周囲の騎士たち、そして民衆に向けて、高らかに声を張り上げた。

「聞け、アルカディアの民よ! そして、我が騎士団の者たちよ!」


 その声は、魔法で増幅されたかのように、騒乱の中に響き渡った。一瞬、争いが止み、誰もがエリオットに注目した。

「私は、グランヴィル家のエリオット。王宮騎士として、この国の秩序を守るべく剣を取ってきた。だが、今、目の前にあるのは、飢えと苦しみの中で死にゆく民の姿だ! これが、我々が守るべき『秩序』だと、誰が言えようか!」


 ざわめきが広がる。騎士たちは驚愕し、民衆は困惑と期待の混じった眼差しを向けた。

「王宮は、この惨状を見て見ぬふりをしている! 聖樹の巫女の力を謳い、さらなる重税を課し、その富を私腹を肥やすために使う愚行を、これ以上看過することはできない!」


 エリオットは、腰の剣を抜き、それを空に掲げた。クリスタルの柄が、燃え上がる炎を反射して鈍く光る。

「私は、もはや王家の犬ではない! 私は、この国を愛し、民を愛する一人の騎士として、立ち上がる! この剣は、王家のためではなく、真に苦しむ者のために振るわれるべきだ!」


 その言葉に、一部の騎士たちがざわめき、反発の声を上げた。しかし、同時に、彼女の言葉に共感し、剣を握りしめる者もいた。彼らは、下層区の現実を目の当たりにし、上層部の腐敗に疑問を抱いていた騎士たちだった。


「エリオット様…!」


 目覚めたばかりのセドリックが、火傷の痛みに耐えながら、かすれた声でエリオットの名前を呼んだ。彼の瞳には、驚きと、そして彼女の覚悟を理解した上での、深い愛情が宿っていた。


 エリオットは、彼の視線を受け止めると、力強く頷いた。

「セドリック。お前はここに残れ。私は、行く」

「嫌です! どこへでも、あなたと共に!」


 セドリックは立ち上がろうとするが、傷が痛み、再び膝をついた。エリオットは彼の肩にそっと触れ、静かに言った。

「お前は、私の大切な部下だ。そして…私の親友だ。だからこそ、今はお前自身の命を大事にしろ。私は、必ず戻る」


 その言葉は、まるで告白のようにセドリックの胸に響いた。彼は、痛む身体でエリオットを見上げた。彼女の横顔は、もはや性別の区別なく、ただ一人の「騎士」として、新たな道を選び取った者の強さと決意に満ちていた。


 エリオットは、王宮騎士団の制服を脱ぎ捨て、黒い外套を羽織った。それは、彼女が「星の祭典」の夜に身につけていたものと同じだった。彼女は、王宮騎士としてではなく、一人の「男装の騎士」として、真の戦いに身を投じることを決意したのだ。


「私と共に、真の正義のために戦う者は、続け!」


 エリオットの呼びかけに応じ、数人の騎士が剣を鞘から抜き、彼女の背後に並んだ。そして、民衆の中からも、彼女の言葉に希望を見出した者が、次々と立ち上がった。王都の騎士と、下層区の民衆が、今、手を取り合おうとしていた。


 エリオットは、振り向かず、炎と混乱の中へと足を踏み入れた。彼女の心は、もはや過去の忠誠の鎖に縛られてはいない。彼女が選んだのは、真に守るべきもののための、茨の道だった。


 ヴァレリアン公爵邸。


 リリアーヌは、下層区からの怒号と炎の匂いに、恐怖で震えていた。侍女のマリアが、慌てて窓を閉め、耳を塞ぐように促すが、その音は邸宅の中まで響き渡っていた。


「リリアーヌ様、どうかご安心を! 騎士団が必ず鎮圧してくださいます!」


 マリアの言葉は、リリアーヌの耳には届かない。彼女の脳裏には、エリオットが去り際に見せた、あの悲痛な決意の表情が焼き付いていた。


 その時、公爵邸の門が、激しい音を立てて破られた。

「何事だ!?」

 警備の騎士たちが叫ぶ。しかし、邸宅に押し入ってきたのは、血に飢えた暴徒ではなく、王宮から派遣されたと思われる、王家直属の「聖樹の守護騎士団」だった。彼らは通常の騎士団とは異なり、重厚な魔法鎧に身を包み、その瞳には冷たい光が宿っていた。


「聖樹の巫女、リリアーヌ・ド・ヴァレリアン! 至急、王宮へ移送する!」


 守護騎士団の隊長が、冷酷な声で命じた。

「お待ちください! リリアーヌ様は、このような状況では…!」


 マリアが止めようとするが、あっという間に取り押さえられた。リリアーヌは恐怖に固まる。この状況で、なぜ王宮へ?


「これは王命である! 巫女の力をもって、この暴動を鎮め、聖樹の魔力を安定させるのだ!」


 隊長の言葉に、リリアーヌは戦慄した。聖樹の魔力の異変は、彼女の体が一番よく知っている。それが、このような方法で強制的に使われれば、どうなるか。


「嫌よ…! 私の力は、そんな使い方はできない!」

 リリアーヌが叫ぶが、守護騎士団は容赦なく彼女に近づく。彼らの手には、聖樹の巫女の力を強制的に引き出すための、魔法の枷が握られていた。それは、巫女を「力」としてのみ扱う、王家の冷酷な意思の表れだった。


「リリアーヌ様! ご無理はなさいませんよう!」

 抵抗するリリアーヌを、守護騎士たちは半ば強引に抱え上げた。彼女は、もはや自分の意志とは無関係に、王宮へと連行されようとしていた。


 檻は、いつの間にか、最も信頼していたはずの「王家」によって、より強固なものに作り変えられていたのだ。リリアーヌは、連れて行かれる途中、下層区の方向を見た。炎と煙が立ち上る空の下、エリオットが選んだ道が、彼女には見えない。


 だが、リリアーヌの胸には、かすかな希望が灯っていた。エリオットが、自分と同じように、この世界に疑問を抱き、立ち上がった。その事実だけが、彼女を包む絶望の中で、唯一の光だった。


 聖樹の巫女としての「鎖」を断ち切られたリリアーヌと、王宮騎士としての「鎖」を断ち切ったエリオット。それぞれの決断が、今、新たな時代の幕開けを告げていた。



第4章 交錯する運命、最後の戦い


 エリオットが下層区で指揮を執ってから、数日が経っていた。彼女の呼びかけに応じた数人の騎士と、怒れる民衆の志願兵たちは、「解放の剣」を自称し、瞬く間に下層区の支配権を確立していた。魔法の技術を持つ貴族出身の騎士と、地の利を知り、数で勝る民衆の連携は、予想以上に強力だった。しかし、王都を完全に掌握するには、圧倒的な武力と、何より「正当性」が必要だった。


「エリオット様、聖樹の森で、また大規模な魔力変動がありました! 王宮の結界が、さらに弱まっているようです!」


 疲労困憊のセドリックが、治療を受けたばかりの腕を押さえながら報告する。彼はエリオットのそばを離れようとせず、半ば強引に「解放の剣」の参謀役を買って出ていた。その青い瞳は、熱病のようにエリオットの背中を追っている。

「魔力の変動が激しくなるほど、王宮は焦る。リリアーヌ様を無理にでも動かすだろう…」


 エリオットの脳裏には、捕らえられたリリアーヌの姿がよぎった。聖樹の巫女の力を強制的に引き出せば、その反動で何が起こるか分からない。彼女の身体が、この世界の真のバランスを保つ鍵なのだ。


「セドリック、王宮の警備体制を調べてくれ。特に、リリアーヌ様が幽閉されているとされている『聖樹の間』の情報を急いで」

「承知いたしました! 死んででも果たして参ります!」

 セドリックは勢いよく敬礼すると、数人の精鋭を引き連れて闇の中へと消えていった。


 エリオットは空を見上げた。夜空に輝くクリスタルの光は、以前にも増して弱々しく、その下で繰り広げられる舞踏会の音楽は、もはや遠い幻のように聞こえた。このままでは、アルカディアは、その魔法の光と共に崩壊してしまう。民衆を救うためには、王政を倒すだけでは不十分だ。聖樹の魔力、そしてリリアーヌを守らねばならない。


 その頃、王宮の奥深くに隠された「聖樹の間」では、リリアーヌが、まさにその身を削っていた。


「もっとだ! 巫女よ! 聖樹の魔力を放て! この暴動を鎮めよ!」


 宰相の声が、石造りの空間に響き渡る。リリアーヌの手足は魔法の枷で拘束され、無理やり聖樹の根源と繋げられていた。彼女の身体から、かつてない量の魔力が引き出され、王都の結界を維持するために使われていく。


「やめて…! これ以上は、聖樹が…!」

 リリアーヌの肌は透けるように白く、唇からは血の気が失われていた。聖樹の魔力を無理に引き出せば、その恩恵を失うばかりか、森そのものが枯れ果ててしまう。それは、この国の生命線が絶たれることを意味した。


「黙れ、巫女! お前はただの人形だ! 国のため、王のために、その身を捧げるのが務めだろうが!」


 嘲笑う宰相の言葉に、リリアーヌは絶望の淵に突き落とされた。これまで信じてきた王家、そして自分の存在意義が、全て偽りだったのか。


 その時、聖樹の間の分厚い扉が、轟音と共に爆砕された。


「リリアーヌ様!」


 現れたのは、埃と血にまみれた、見覚えのある銀色の髪。エリオットだった。彼女の背後には、解放の剣の志願兵たち、そして、いつの間にか傷が癒えているセドリックが立っていた。彼らは、下層区から秘密の通路を通り、奇襲を仕掛けたのだ。


「貴様ら、反逆者どもが! よくも王宮に乗り込んできたな!」

 宰相が叫び、聖樹の守護騎士団がエリオットたちに襲いかかる。エリオットは、迷いなく剣を振るった。彼女の剣は、もはや躊躇することなく、王家のために振るわれる刃を打ち砕く。


「リリアーヌ様! 今、助け出します!」

 セドリックは叫び、リリアーヌの元へと駆け寄ろうとするが、宰相が放った強力な魔法の障壁に阻まれた。


「無駄だ! 巫女を解放すれば、この王都の結界は崩壊する! そして、聖樹の森から、真の災厄が目覚めるのだ!」


 宰相の言葉に、エリオットの眉がひそめられた。真の災厄?

 その時、足元から、微かな振動が伝わってきた。それは、かつてないほどの巨大な魔力の脈動だった。聖樹の森から…?


 王宮全体が激しく揺れ始め、天井のクリスタルが崩れ落ちる。宰相は高笑いした。

「我が王の目的は、最初からこの王都の解放ではない! 巫女の力で、聖樹の封印を解き放ち、この世界の全てを手に入れることだ!」


 宰相の言葉が終わるか終わらないかのうちに、聖樹の森の方向から、漆黒の巨大な影が姿を現した。それは、太古の文献に記されていた「森の災厄モルフォ」と呼ばれる、すべてを無に帰す魔物だった。聖樹の魔力の乱れと、リリアーヌの力の強制的な引き出しによって、その封印が解かれてしまったのだ。


「まさか…こんなものが…!」


 エリオットは息を呑んだ。もはや、革命など些細な問題だった。この「森の災厄」が目覚めれば、王都どころか、この世界そのものが滅びかねない。


「セドリック! リリアーヌ様を解放しろ! 私が時間を稼ぐ!」

 エリオットは叫び、単身で宰相と守護騎士団に向かっていく。彼女の剣は、その身を挺してリリアーヌを守ろうと、稲妻のように閃いた。


 セドリックは、宰相の魔法の障壁に体当たりを繰り返す。その時、リリアーヌの拘束された手から、僅かな光が漏れ出た。彼女は、絞り出すような声でセドリックに語りかけた。

「セドリック…! 私の魔力を…私の身体に触れて…!」


 セドリックは、リリアーヌの言葉の意味を測りかねたが、迷わず彼女の伸ばされた手に触れた。その瞬間、彼の身体に、温かい魔力が流れ込んできた。リリアーヌが、自身の魔力を彼に流し込み、枷を破壊しようとしているのだ。


 エリオットは、宰相の強力な魔法と、守護騎士団の猛攻を受けながらも、決して退かない。彼女の背後には、大切な幼なじみと、そして守るべき世界がある。


「来い! どんな敵であろうと、私はこの剣で道を切り開く!」


 漆黒の「森の災厄」が、王宮へと迫りくる。絶体絶命の状況の中で、三人の若き運命は、再び交錯し、最後の戦いへと挑もうとしていた。



第5章 夜明けの向こうに


 漆黒の「森の災厄モルフォ」が、王宮の尖塔をなぎ倒し、その巨体がアルカディアの空を覆い尽くした。その咆哮は、世界の終焉を告げるかのようだった。聖樹の間では、エリオットが宰相と守護騎士団の猛攻を受けながらも、必死に時間を稼いでいた。


「セドリック! 急げ!」

 エリオットの叫びが、セドリックの耳に届く。リリアーヌから流れ込む魔力は、彼の身体を熱く満たし、枷を破壊する力を与えていた。

「くそっ…! あと少し…!」


 セドリックは、火傷の痛みを忘れ、渾身の力を込めて魔法の枷に触れた。リリアーヌの魔力と彼の意志が共鳴し、枷が砕け散る音が響き渡る。

「リリアーヌ様!」

 自由になったリリアーヌは、よろめきながらも立ち上がった。その瞳は、これまでの無垢な輝きとは異なる、強い意志の光を宿していた。


「宰相! あなたは、この国を滅ぼすつもりですか!」

 リリアーヌの声に、宰相は嘲笑した。

「滅びるなどと! これは新たな世界の創造だ! 森の災厄の力を手に入れれば、この私が真の王となる!」


 その時、リリアーヌの身体から、これまでとは比べ物にならないほどの、聖なる光が溢れ出した。それは、王宮のクリスタルの輝きをも凌駕し、漆黒の「森の災厄」の影を打ち消すほどだった。

「私が、聖樹の巫女として、この災厄を止めます!」


 リリアーヌは、両手を広げ、聖樹の根源と深く繋がった。彼女の魔力は、王宮の結界を維持するためではなく、真に「森の災厄」を鎮めるために解放されたのだ。聖樹の間全体が、まばゆい光に包まれ、その光は王宮を突き破り、アルカディアの夜空を照らした。


「馬鹿な! そんな力、巫女には…!」

 宰相は驚愕するが、既に遅かった。リリアーヌの放つ光は、直接「森の災厄」へと向かい、その巨大な身体を包み込んでいく。災厄は苦悶の咆哮を上げ、王都をさらに揺るがした。


「今だ、エリオット!」

 セドリックが叫び、エリオットに合図を送る。エリオットは、宰相がリリアーヌの力に気を取られた隙を逃さなかった。

「貴様の野望は、ここで終わりだ!」


 エリオットの剣が、雷光のように閃き、宰相の胸を貫いた。彼の身体から力が抜け、その瞳から光が失われる。聖樹の守護騎士団は、主を失い、リリアーヌの放つ聖なる光に怯え、後退していった。


 しかし、「森の災厄」の抵抗は凄まじかった。リリアーヌの光が災厄を包み込むほど、災厄もまた、世界を飲み込もうと暴れ狂う。王宮は崩壊寸前となり、アルカディアの街は、その光と闇の戦いに巻き込まれていく。


「リリアーヌ様! 無理です! そのままでは、あなたも…!」

 セドリックが叫ぶ。リリアーヌの身体は、魔力の過剰な放出によって、限界に達していた。その輝きは、彼女自身の命を燃やしているようだった。


「セドリック! リリアーヌ様を頼む! 私は…」

 エリオットは、残された最後の力を振り絞り、モルフォの放つ瘴気に包まれながらも、リリアーヌとセドリックの前に立ちはだかった。彼女の琥珀色の瞳は、セドリックに向けられ、かすかに微笑んだ。

「セドリック…お前は、生きて…」

 その言葉は、途中で途切れた。モルフォの強大な力に耐え切れず、エリオットの身体が光の粒子となって砕け散っていく。彼女の剣が、カラリと音を立てて瓦礫の上に落ちた。セドリックは、ただ呆然と、愛する人が消えゆく光景を見つめるしかなかった。


「エリオットーーーーッ!」


 セドリックの悲痛な叫びが、崩壊する王宮に響き渡る。その絶望が、リリアーヌの心を揺さぶった。

「エリオット…私と、聖樹のために…」


 リリアーヌは、愛する友の死を乗り越え、枯れゆく聖樹の命を全て己の内に取り込むように、最後の力を放出した。彼女の身体は光に包まれ、その輝きはモルフォを完全に浄化し尽くした。モルフォの咆哮が止み、漆黒の巨体は、光の塵となって夜空へと消えていった。


 だが、聖なる光が収束した時、そこには、リリアーヌの姿はなかった。

 ただ、その場所には、かつてアルカディアの繁栄を支えた聖樹の、枯れ果てた幹が、虚しく残るばかりだった。


 王都アルカディアは、その魔法の光を失い、完全に滅び去った。


 数週間後、廃墟と化したアルカディアの瓦礫の中で、セドリックは、一本の折れた剣を拾い上げていた。それは、エリオットの愛用していた剣だった。彼の青みがかった銀の瞳には、かつての輝きはなく、ただ深い悲しみが宿っていた。


 王家も、貴族たちも、そのほとんどがモルフォの暴走と革命の混乱の中で命を落とした。生き残った民衆は、王都を離れ、新たな土地を求めて旅立っていった。


 セドリックは、一人、瓦礫の山となった王宮を見上げた。

「エリオット…リリアーヌ様…」


 彼の胸に去来するのは、報われることのなかったエリオットへの愛、そして、共に世界を救い、そして散っていった二人の麗しい魂への、尽きることのない哀惜だった。


 夜明けは来た。しかし、それは、希望に満ちた夜明けではなかった。

 ただ、すべてを失ったセドリックの心に、消え残る哀歌のように、三人の物語が、永遠に刻み込まれている。

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