とある甲虫の消失
七月の終わりに、北条がクワガタを捕まえに行こうと言うので、僕らは二人で山へ向かった。
日はすっかり落ち、もう午前一時になるところだった。
「どこへ行く?」
「山だよ。どこでもいい」
北条は素っ気無く、それでいて、子供のような笑顔で答えた。
僕が車を出し、スコップと軍手と、LEDの懐中電灯二個と、仕切りのあるプラスチックケースを後部座席に用意した。とりあえずは、街灯を調べて回ろうと言うので、国道をひたすら田舎に向かってまっすぐ進んだ。
手ごろな街灯の下で、クワガタがいないか丹念に見て回った。しかし、不気味な蛾や、オサムシ、小さな名前もわからない虫ばかりで、クワガタは存在しなかった。
「やっぱり山に行かないといないかな」
北条は言った。
「そうかもね」
車をパーキングエリアに泊め、僕らはミズナラの林の中へと向かった。とにかく辺りは暗く、目が馴れるまでは何も見えなかった。
「熊がでるんじゃないかな」
「大丈夫。でたらでたで、仕方がないよ」
北条は余裕な調子で答えた。木という木を懐中電灯で照らし、見て回ったが、クワガタらしき物体はいなかった。一箇所、樹液が出ている木を見つけたが、スズメバチが三匹、樹液を吸っていたので、慌てて、ゆっくりとその場を離れた。
そうして、午前三時も過ぎたので、その日は収穫ゼロで解散した。
北条の鬱憤は高まるばかりだ。
翌日以降、電話でしつこく山へ行ける日を聞いてくるようになった。初日を抜かしても、その後、四回は山へ入った。勿論、市街地の街灯や、少し離れた公園の自動販売機なども見て回った。それでも、クワガタは見つからなかった。
「どうもおかしい。こんなにいない年はない。いつもは、コンビニの外でも見つかった」
「確かに。何気なく歩いていても見つかったね」
隣接している隣町も見て回ったが、やはり見つからなかった。そのあたりから僕らはことの重大さに気がついた。インターネットで『クワガタ』と検索をかけても1つもヒットしないことに気がついた。それに加え、SNS、YouTubeやあらゆるメディアにも、クワガタが存在していないことに気がついた。
「これは何者かによる陰謀かもしれない」
「こんなこと誰がする?」
「日本政府か、それともアメリカか、もしくは宇宙人かも」
そして、僕らは笑った。笑ったが、内心怖くなっていた。なにせ、友人、家族、職場の人間、僕ら二人以外のすべての人間が、クワガタに関する記憶がなくなっているのだ。僕らが必死に特徴を説明すると、ほとんどの人間はカブトムシの名前を挙げた。カブトムシは辛うじて存在していた。消失したのはクワガタ類だけだ。
八月に入り、僕らもヤケになっていた。クワガタのイラストや生態を描いたビラを配ったり、出版社やテレビ局、博物館、昆虫学者などコンタクトがとれそうな所にかたっぱしから電話をかけたり、メールを送ったりした。しかし、反応がなかったり、やんわりとクワガタなど知らないという返事がきた。このままでは終われない気がした。この夏が過ぎ去る前に、決着をつけないと、永遠にクワガタの存在が消失してしまうような気がした。
八月はとても暑かった。本当に暑くて、脳みそが溶け出しそうなほどだった。朝方になっても寝付けず、モヤモヤとした、はっきりとしない不安や憤りを抱えていた。
午前二時。僕は、ただ一人で国道を車で走っていた。窓を開け、外の冷たい空気や、何か、得体の知れない予感のようなものを肌で感じていた。音楽は付けずに、ただ、風の音を聞いていた。途中、キツネや、子鹿らしきものも道端で目だけ光らせていた。時間の過ぎ去るのは早い。あっという間だ。僕らは、行動しなければ、ただすべてはあっという間に過ぎ去ってしまう。儚さを感じようとしても、その儚さを感じている間に、儚さは過ぎ去ってしまうのだ。
そうして二年の月日が流れた。
僕も、北条も仕事が忙しく、毎日くだらない事務・雑務・苦情対応・上司からの説教でエネルギーを消耗し、ときには恋人や、職場の飲み会などで、時間は流れた。いつの間にか北条は結婚までした。クワガタの存在など気にもとめていなかった。
ある週末、僕は、会社の帰りに公園で缶ビールを飲んでいた。ふと、世間の喧騒から離れ、風を感じたくなるときがあるのだ。
ただ、すべてが眩しくて、毎日がくらくら眩暈がしていた。太陽が眩しくて、ただ呼吸をするのさえやっとだった。
ビールはいつもより苦くて、味がまるでしなかった。苦さだけだ。公園には僕以外に誰もいなく、木製のベンチは冷たかった。ふと、ベンチを見ると、それは居た。本当にさりげなく、ベンチの上に佇んでいた。
クワガタだ。
クワガタが存在していたのだ。
あれだけ探して、消失したかにみえたクワガタが平然と存在していたのだ。触覚をしきりに動かし、光や音、匂い、世界のすべてを全身で感じとろうとしているようだった。
僕は、少し迷ったが、なんだか、自分の人格が別の人格になったかのように、あの情熱や興奮は再び、僕の元へは宿らなかった。クワガタを目の前にしても、何も思わないのだ。
僕は、クワガタを横目に、缶ビールを飲み続けた。相変わらず、ビールの味はしなくて、夜の風は、少し冷たく感じた。
2015年
2025年 少しだけ修正