アルガリアお兄様
軽くノックをした後、
「失礼します、お兄様」
返事を待つことなくアンジェリカは扉を開けた。
そこは私も良く知るお兄様――今や弟のアルガリア――の私室だった。とは言っても、アンジェリカの歳の時点で既に部屋に入ることは無くなっていたけれど、その頃から何も変わらない内装だ。
部屋の主人は机に向かい、ペンを持って紙と対峙していた。今は学校も新学期の始まる前――肌で感じる温度から推測はついていたけれど、アンジェリカに聞いてはっきりと春の月とわかった――なので貴族学校の宿題ではなく、自主学習か、あるいは次期公爵としての学びだろう。
「おや、どうしたんだいアンジェリカ。最近はてんで私の部屋に来なかったのに、珍しいじゃないか」
返事を待たなかったことを咎めることなく、アルガリアは平然と、それでいながら妹の訪問に驚いた様子でこちらに振り返る。
そして固まった。
妹に向ける、兄としての完璧な笑顔のまま、固まった。
「ご紹介しますね、お姉様のアンジェラお姉様です」
こらこらアンジェリカ。それではお姉様が被ってしまっていますよ。でもわかっていますよ、私という姉が出来たことがそんなに嬉しいのでしょう。私も嬉しいですよ。
「どうも初めまして。貴方の双子の姉のアンジェラです。どうかよろしくお願いしますね」
衝撃の自己紹介は、アルガリアの脳をハンマーで激しく打ち付けたよりも尚強い衝撃を与えていた。
背後で聞き耳を立てていた、仕事を途中で放り投げた使用人や、仕事を途中で同僚に押し付けてきた見回りの兵士もまた、形容し難い衝撃に襲われていた。
確かに、顔立ちは似ている。
その半分が黒色の髪と、片方が黒色の目は確かに不思議で、もしかしたら魔族なのではないか、そうでなくとも呪われているのではないかという考えが浮かんでくる。はっきり言ってしまえば、その見た目は忌子以外の何者でもない。
そんな少女の正体が、はっきりと、仕える主人の娘の口から告げられたのだ。
姉であると。
家族であると。
――この時より、ファーガンベルク城は過去に類を見ない大混乱に陥ることになる。それはともすれば、未来において魔王に取り憑かれたアンジェリカがもたらした大厄災にも匹敵しかねない、未曾有の事態であった。
その話は瞬く間に城の主人の耳へと入るのだが、今はその前に、アルガリアとの話が先である。
何故か随分と久しぶりに見た様な気がするお兄様……ではなく弟のアルガリアは、記憶にある通りの15歳の姿そのままだった。
私と同じかそれ以上に美しい金色の髪は、男らしく短めに切り揃えられているけれど、むしろそれが気品に感じられる。
青色の宝石のような目は、私と違って隠しきれない知性の輝きに満ち溢れている。
何をとっても、私の上をいくのがアルガリアという兄であり、それはこの五年前の世界であろうと何も変わらない。
ただ、年齢だけは上回った。
「えっと……アンジェリカ? この人が、えーと、姉、だって?」
アルガリアはいたく混乱している。それもそうだというより、この状況で混乱しない人間などいるのだろうか? いやいない。
「はい! アンジェラお姉様です」
対して妹はとても元気だ。先ほどまで泣いていたのが嘘のように快活で、もう私という姉を自慢したくてしょうがない様子に見える。
嬉しいけれど、しかし微妙な気分だ。何故なら私は姉ではなく未来のアンジェリカなのだから、私を自慢に思うということはつまり、自分で自分を自慢ている様なものなのだから。
けれどまあ、アンジェリカからしてみれば私は完璧な姉に見えたということで、よしとしておく他ないだろう。
悪い気もしないのだし。
話を戻してアルガリアはというと、私という突如生えた姉に驚き、最近塞ぎ込み気味だった妹の突然の豹変に驚き、また私を見て驚いている。いったいどこから話に突っ込めばいいのか決めあぐねて、時間だけが過ぎていっていく。
そんな硬直した状況をいの一番に破壊したのは我らが妹であった。
「お兄様、突然のことで驚いたかもしれませんが、私もとても驚いたのですよ? なんでも、お兄様とは双子の姉で、その特徴的な黒い髪からしばらく領地を離れていたのですけれど、今日になってようやく戻って来れたとか!」
アンジェリカの花のような笑顔が眩しい。私という魔王の残滓な日陰ものには強烈すぎる様に思える。というより、彼女は本当に私なのだろうか。姉という存在一つでここまで変わってしまうのだろうか。
「うん、わかった。アンジェリカ、君の言いたいことはよくわかった。わかったから……取り敢えず、座ろうか」
アルガリアは執務机から離れ、応接用に置かれたソファに移動した。私もアンジェリカに手を引かれ、その対面に二人並んで座る。
「えーっと、まず、そこの貴女。アンジェラさん、と言うのでしたっけ?」
「はい。私はアンジェラ・ファーガンベルクと申します。貴方の双子の兄に当たる者ですわ。どうかよろしくお願いいたしますね?」
そんな私の完璧な自己紹介の前に、アルガリアはただ顔を引き攣らせるばかりであった。
「ああ、わかった……アンジェリカ、この方をどうやってここまで連れてきたんだい?」
「どう、と言われましても。普通に城の中を歩いて参りましたわ」
そっか、そうかぁ。と小声で呟きながら、天井を見上げるアルガリア。しかしすぐに顔を振りかぶって、また完璧なお兄様へと戻った。
「アンジェラさん。申し訳ないのだけれど、私はそんな話を一度も聞いたことがないんだ……その、まるで生き別れの姉がいるかの様な話は、ね」
眼光が少し鋭くなった。まるで私の内面を見透かそうとする様な目付きで、私の一挙一動を見逃さない構えで見つめている。
そんなお兄様の、じゃない、アルガリアの様子は私にとってとても珍しいもので、ともすれば初めて見た表情かもしれない。その事に、私は少し嬉しく思った。
アルガリアの関心が私に向いている。それがどんな感情であれ、私に注目してくれている。
それが何よりも、嬉しく思えて……。
いや、今は喜びに浸っている場合ではない。なんとかして説得し切らないと。
「それについては少々込み入った話でして……アンジェリカ、少し外してもらってもいいかしら? ここから先はちょっと不快な大人の話よ」
「……わかりました、お姉様。お話が終わったら、すぐ呼んでくださいね?」
「ええ、わかったわ」
少しのやり取りの後、アンジェリカは名残惜しそうに部屋を抜けていった。
残ったのは、アルガリアと私の二人きり。
部屋の入り口にいたはずの護衛が入ってくる様子はない。
「……随分と不用心なのですね。得体の知れぬ人間と二人きりになるだなんて」
「そういう君こそ不用心だ。君の様な女性が男性と部屋に二人きりになるものではないよ」
「あら、姉弟の仲で間違いが起きると思って?」
「…………その姉弟というのはなんだ。何が狙いで俺の家族を騙っている? どうやって妹を騙くらかした?」
アルガリアは今まで私が見たこともないほど――それこそ魔王となった私の最期と同じくらい――剣呑な雰囲気になって私を問い詰める。
「……魔族の王、魔王についてはどれだけ知っているかしら?」
私が未来からきたアンジェリカということは話せない。アンジェリカが将来魔王の魂に取り憑かれ、この王国を滅ぼす一歩手前まで追い詰めた事実は伏せておかなければ、まだ魔王になってないアンジェリカを今の内にどうこうしよう、なんて考えが生まれてしまうから。
そもそもが荒唐無稽で信じがたい話であり、また間違ってもお兄様はそんなことはしないと信じているけれど、けれど万が一の可能性はあるし、何より私の目的が兄妹仲を取り持つことなのだから、それを邪魔する情報は出すべきではない。
故に私は核心から話を逸らしつつ、それでいてお兄様を納得させられるだけの話を作り上げなければならない。
私は冷静であろうとする最中で、心の奥底に熱いものを覚えていた。
私は今、とてもお兄様に注目されている。そして、何よりお兄様を欺こうとしている。
未だかつて、こんなにも楽しいことがあっただろうか? このような催しは、そもそも開く前にお兄様に兄として宥められるか、先に気が付かれてままごとに付き合うよう大人の対応をされてしまうのが大抵だった。
けれど、お兄様は私に酷く注目して、私の並べ上げる嘘の全てを見抜こうとしている。
――楽しい。
とても、楽しい。
口からは自然と笑みが溢れ、綺麗な三日月を描き上げた。
黒色の右目が妖艶に光ったと自分でもわかる。
さあ、私からお兄様への初めての挑戦だ。
とてもとても、腕が鳴る。