よろしくお願いね、妹
突然『私』――もう自分のことはアンジェラと名乗ったのだし、アンジェリカでいいだろう――が泣き出してしまった。理由はよくわからないが、その深刻な顔は嫌になる程見覚えがある。どんなきっかけにせよ、アンジェリカがあんな顔で泣き出す理由は一つしかない。
だから、私は慰めることにした。なるべく優しく抱きしめて、やっぱり強く抱きしめた。何故なら見ている私の方が辛くなってきたから。彼女が今まで経験してきたことは当然私だって経験している。だから、彼女が泣く理由には心当たりしかないわけだし、ついにそのたが外れて洪水を起こしてしまったのも無理はないことだと思う。
私は私がやって欲しかったことをやってみることにした。
即ち、私を慰めること、私の努力を褒めること。
こんな単純で簡単なことであっても、周りにそれを求める事ができなかったのがアンジェリカという少女だ。私はまだこの時にはその想いをこんな風に溢れさせてはいなかったけれど、こうして目の前で起きてしまった事を無視するわけにはいかない。
彼女は私なのだから、彼女の気持ちは痛いほどわかる。
実際に私が生きてきた時間の大半は、苦痛に苛まれているのだから。
私だからこそ、私が求める事がわかる。私だからこそ、私を慰める事ができる。
本当なら他人に、それこそ両親かお兄様にやって貰いたいことだけれど、頼めないなら仕方ない。私がやる、私がやらねば誰もやってくれない。
涙を流し続ける彼女を抱きしめながら頭を撫でる。撫でる度に、私の奥底から溢れ出す感情の渦が、アンジェリカの事を羨ましいと妬んで止まない。
そう、本当に、羨ましい。
アンジェリカには、私という慰めてくれる相手が出来たのだから。
私には、結局誰一人として居らず、そんな機会は巡って来なかったのだから。
どうして慰めている側の私が泣きそうになっているのだろう? 不思議だ、本当に不思議だ。ああけれど、こうして胸に彼女を抱き留めている内は、潤んだ目には気づかれない。
もう少し、もう後ほんの少しだけ抱きしめていよう。
これはアンジェリカの為なんだから。
決して私の為ではない。
わかっている。そんなの傷の舐め合いで、むしろ惨めさをより際立たせる虚しい行いでしかない。
けれど、そんな虚しい行いであっても、どこかで救われている気持ちがある。たったこれだけのことで、満足しかけている私がいる。
しばらくの間、二人の姉妹はその場にしゃがみ込み、抱き合い続けていた。
「さて、もういい加減に泣き止んだ?」
「………………はい」
すっかり泣き腫らして、目の周りを真っ赤に染めたアンジェリカ。
けれどその顔に翳りはなく、どこか吹っ切れたような清々しさを感じさせる。
「さて、私は貴女の姉であると名乗ったわけなのあけれど……突然貴女の姉と言われても納得できな」
「はい、よろしくお願いしますね、お姉様」
「……ええ、よろしくお願いね、アンジェリカ」
そしてどういうわけか、アンジェリカは姉という存在を受け入れてしまっている。もう少し説得力を持ったでっち上げの説明をする必要があるかと思っていたのだけれど、どうやらその必要はないらしい。
なんだか納得いかないような、手間が省け嬉しいような、複雑な気分だ。
けどまあ、上手くいっているならそれでいい。いいことにしよう。
ならば次の段階だ。
お兄様に会おう。
アンジェリカはこれから四年後に魔王の魂に取り憑かれ、それからたった一年の内にこのエルケーニッヒ王国を滅ぼしかけてしまう。幸いなことにお兄様という勇者のお陰で私は見事討ち倒され、世界に平和が戻るのだが……そんな不幸なことは、起こしたくない。
国のためにも、私のためにも、そしてお兄様のためにも。
何でもできて、私なんかでは比較にもならない優秀なお兄様だけれど、それでも家族の情を完全に捨て去ることは出来ないはず。どれだけ不出来な妹であっても、それは妹に変わりない。お兄様に、家族を切り捨てるなんて経験はさせたくないし、何よりこれからのアンジェリカに不幸な目に遭って欲しくない。
そんなのは私一人で十分なのだから。
当初の予定では、お兄様と私の仲を完全に冷ますつもりでいた。いくら私に居場所がなくても、いくら私が不真面目になっても、それでも家族として接してくれていたのがお兄様なのだから。
その家族としての最後の一線を消し去ってしまえば、お兄様は躊躇なく私を討てるだろう、そう思っていた。
けれど、この五年前の世界には、当然の様に五年前の私もいた。
私と同じ様に懊悩して、全てが行き詰まり、何もかもを投げ出したのちに、魔王に取り憑かれてしまうような、アンジェリカが居た。
思わず私はその手を掴んでしまった。後悔はしてないけれど、確かに少し軽率だった。そのお陰で今後取るべき手段は様変わりしてしまったのだから。
取るべき手段とは、当初の予定の真逆も真逆。
お兄様と、アンジェリカの仲を取り持ち、仲の良い兄妹にするのだ。
今の私には、そこまでアンジェリカの様な苦悩はない。望みを完全に捨て去ってしまったわけではないけれど、放っておくだけでひび割れて崩れてしまうような危うさはない、はずである。
故に最優先はアンジェリカ。未来の私と同じ結末を迎えさせない為、アンジェリカの居場所を無理矢理にでも作る。
勿論アンジェリカの側にも改善すべきことは山ほどあるけれど、それでも、お兄様からの歩み寄りをより強くする事ができれば明るい未来に繋がりやすくなる。
「ねえアンジェリカ。良ければ貴女のお兄様の所まで案内してくれる? 私も姉として挨拶しておかなきゃ」
「……やっぱり、アンジェラお姉様はお姉様なのですね?」
アンジェリカは少し顔に翳りを落としたが、すぐにそれを振り払った。
「わかりました。今は自室で勉強をしていると思うので、そこまで案内いたします……そういえば、アンジェラお姉様と、お兄様はどういう関係なのでしょう?」
「私とアルガリアは双子の姉弟よ。私が先にお母様から取り上げられたから、私が姉なの」
私の方こそが姉であることを強調してアンジェリカに伝える。
こういう細かな部分で意識に刷り込むことで、より私が姉であるという認識を強める事ができるのだ。
「そうなのですか! お兄様には双子のお姉様が居たなんて、初めて聞きました」
「それはそうね、だってこの髪色ですもの。お父様やお母様からしてみれば、こんなものを人前に見せられなかったのでしょうね」
何故ならこれは魔王の魂の影響なのだから。生まれた頃からという嘘を混ぜたにせよ、とても褒められた容姿ではないのは確か。けれど、魔王という繋がりを見せずにこの容姿だけを出したのなら、案外世間にも受け入れられるんじゃないかと軽く見ている自分もいる。
なんだか少し格好いい気もするし。
角もあるけれど。
「そうなのですか……でも、こうして戻って来られたのは良かったですね。今日からこちらに住まわれるのですか?」
「うーん、そのつもりなのだけれど……」
アンジェリカからしてみれば、私はお兄様の生き別れの姉弟に見えるけれど、それらは全てでっち上げの嘘だ。突けば簡単に崩れる砂上の楼閣以上に儚いもので、一体どこで矛盾を起こしてしまうか気が気でない。
それも全て、お兄様に会って話を通せば何とかなると、思っているのだけれど……。
――もう、ね。私とアンジェリカはとっくに入城して城内を歩いているわけですけれど、既に何人もの使用人や見回りの衛兵に見つかっているのです。見知らぬ私という人間が城内に城内に居る事に対して全員がギョッとして、そして隣で手を繋いで歩いているアンジェリカに見開いたままの目を向けていて、少々ならず恥ずかしさが湧いて出ています。アンジェリカは仲の良い姉と一緒に散歩しているかのような楽しげな雰囲気であり、そこにそこに水を差すのは躊躇われてい増田。私も私ですれ違うたびに使用人相手であろうと笑顔を向ける完璧な淑女を演じ、お母様やアンジェリカと似た顔立ちだからか彼らの邪推を促し、結果として今に至るまで声をかけられていないのです。
けれど、後ろからぞろぞろとついてくる足音が、いやもう気配だけでわかる彼らの追跡が気になって気になって仕方ない。
けれどアンジェリカはそんな物々しい雰囲気に微塵も気がついていないのか、笑顔で私に話しかけ続けている。
全く、なんて仲のいい姉妹でしょうね。