初めまして、お姉様
「アンジェリ……こほん。アンジェラ・ファーガンベルク。多分、貴女の姉に当たる者よ。よろしくね? アンジェリカ」
わたしの前にいる女性はそう名乗りましま。
アンジェラ・ファーガンベルク。
ファーガンベルクという家名はこのエルケーニッヒ王国に二つと無いものであり、それを名乗るということは、偽りであるか、本物のファーガンベルクの血筋に連なるものであるかしかありません。
この際真偽はどうでもいいでしょう。お母様の面影を感じるその顔立ちも、鏡で見た私に似ている雰囲気も、この際は捨て置いてしまっていいでしょう。
肝心なのは、この女性が『アンジェラ』と名乗り、私の『姉』を名乗った事にあります。
アンジェラ。わたしのアンジェリカと非常によく似た名前。どうしてこの名前をつけられたのでしょう?
いえ、産まれの早さ的に考えて、私が彼女に似た名前をつけられたと言えるはずで、その意味は一体何なのです? 容姿という理由でアンジェラを遠ざけた事と何か関係でもあるのでしょうか? それはともすれば、わたしはアンジェラの代わりとして産まれたのではないでしょうか?
わたしは、代替品なのではないのでしょうか?
ゾクリと背中が震える感覚がしました。彼女のことを魔族だと思い込んでいた時とはまた違う、今度は魂が凍えてしまっている震えがしました。どんなに暖かな灯火でも溶かすことができない不可逆な凍結は、致命的な亀裂が走って氷片を撒き散らし、私の内側を喰い荒らしています。
そうだ、そうに違いありません。わたしはアンジェラの代わりなのです。ですからわたしに才能がなくても、最悪本物を連れ帰ってくればいいのです。わたしがどれだけ出来損ないで、期待を下回る存在でも、どうせ代わりでしかないのですから、そもそもからして期待されていなかったのです。
髪は面倒でも染めてしまえば問題なでしょう。目の色もむしろ希少なオッドアイとして魅力の一つにだって出来るはずです。
それに、わたしは気づいています。アンジェラが魔法を使ったことを。どんな理由があってかはわからないですが、アンジェラには角が生えているます。きっとそれが一番の理由でファーガンベルクから今の今まで離れていたのでしょう。そしてその角を、きっとわたしが角を見て魔族だと勘違いしてしまったから、魔法で隠してしまいました。
わたしには魔法を使う才能はないですが、魔法を見る事は人一倍出来るようで、些細な魔力の痕跡でも見分けることが出来ます。才能がないなりに、それを補うための努力の結果であるのですが、目が良くなる度に周囲の人々が使う魔法がどれだけ高度な物であるか、そしてわたしの魔法が本当に惨めで見窄らしいものなのかを叩きつけてくる非情な物でしかありませんでした。
そのわたしの目が、アンジェラが使った魔法を教えてくれていました。
光の魔法の一種、光を折り曲げて、そこにあるはずのものを見えなくしてしまう隠蔽の魔法。本の中でしか見たことのない、宮廷魔術師ならおそらく使えるかもしれない程の上級魔法。
わたしは打ち震えました。目の前に、計り知れない才能の塊が佇んでいるのですから。しかも、わたしと似た名前を持って、生まれ故郷に返り咲いてきたのです。
自分の居ない隙に産まれた出来損ない。悪目立ちしてしまうが為に作られた代替品。身代わり。それがわたしだったのです。
この胸の奥から沸き上がるようで、しかし沈み込んでいくものは何なのでしょうか。
この感情の名前をわたしは知りません。
きっと嫉妬でしょう。おそらく羨望でしょう多分憧憬でしょう。
もしかすると悲観かもしれません。ひょっとすると恐怖かもしれません。
ともすれば諦観だったでしょうし、あるいは絶望だったでしょう。
一つだけ言えることがあるなら、そこに家族愛など微塵もなかったということだけ。
両目から涙が溢れる。
止めどなく、滝のように涙が溢れる。
両手で目を押さえ、拭い、それでも涙は溢れ続け、声こそ上げていないものの、既に泣き腫らしていると言っても過言ではありません。
わたしに才能がないことがこんなにも◼︎◼︎で、彼女に才能があることがこんなにも◼︎◼︎で、わたしに出来ない事が余りにも多すぎて、期待されていない事への真相が余りにも◼︎◼︎すぎて、わたしはわたしの為に泣くことしか出来なくて。
洪水のような涙は、わたしの視界を奪うのに十分でした。だから、接近してくる彼女にも気が付かず、ただ幼な子の様に泣き続けることしか出来ませんでした。
寧ろ期待していたとも言えるでしょう。十分に肥えた家畜に対してそうする様に、最早不必要になった身代わりに取る行動などたかが知れていますから、きっとわたしはそれに逃避する様に縋っていたのです。
そっと、わたしは抱きつかれていました。わたしの抱える◼︎◼︎という感情ごと包み込んで、優しい温もりで温めてくれている気がしました。
それは凍って傷ついた心が溶け出して、同時に血も溢れ出てきてしまいましたが、汚れてしまうのにも構わず傷口を塞いでくれていました。
彼女の黒いドレスの胸元は、涙でグチャグチャに濡れてしまっています。けれどそれは些細な事だと言わんばかりに、わたしをよりきつく、より温めるように抱きしめてくれました。
わたしはお母様のことを思い出しました。あれは確か、3歳くらいのことだったでしょうか。まだわたしに勉学というものと関わりがなくて、純粋な子供でいられた頃の話。転んで怪我をしてしまったわたしを、痛いと泣き出してしまったわたしをあやしてくれたお母様の記憶。
今となっては、あの時こそが最大の親子の情を感じた出来事。
今となっては、公爵夫人と出来損ないの一人娘。
堰が外れた様に、わたしは再び涙を流し始めました。
声にならない泣き声を、日頃の成果から努めて小さく目立たないように上げていましたが、どうしてもすぐ近くにいる人には聞こえてまうわけで、彼女の耳には全て届いてしまっていたのです。
けれど、どうしようもないじゃないですか。わたしは泣きたくてしょうがないのです。わたしは◼︎◼︎で仕方ないのです。泣かせてください、どうか弱い自分に甘えさせてください。淑女にあるまじきだなんて関係ありません。わたしなんて、わたしなんて……!
「よしよし……良い子ね、よく頑張ったわね…………大丈夫、貴女の頑張りは、私も良く知っているから」
その声は、ゆっくりと染み渡る様でありながら、躊躇なく氷と薔薇で身を固めたわたしの心へと手を伸ばしました。
初めてわたしと会ったというのに、まるで全てを知っているかの様な口ぶりでわたしを慰める。それはきっと方便であり、あやすことに全力をかけてしまった所為で起きた矛盾なのでしょう。
「貴女はとても頑張っている。だから、とても良い子なのよ。ほら、泣かないで、笑顔で頑張りを私に伝えてみて」
けれどその声は、過去の如何なるわたしに掛けられてきた声よりも、深く深くわたしの心を解いていきました。
その言葉は、わたしの知らない内に、私が一番望んでいた言葉なのでしょうから。
絶対にあり得ないだろうと、とっくのとうに諦めていたつもりであっても、奥深くではその思いは燻り続け、心を焦がし続けていたのですから。
わたしに期待して欲しかった。
わたしを褒めて欲しかった。
わたしを認めて欲しかった。
わたしという存在が、ここに居てもいいのだと、言って欲しかった。
泣き止む素振りもなく、ずっとずっと泣き続けていました。
わたしはアンジェラの代わりなのでしょう。わたしはきっともう用済みなのでしょう。
けれど、こうして『姉』に甘えている甘さを、わたしは捨てられませんでしまし、手放したくありませんでした。
今はただ、一人の子供として、ただただ泣いていたかったのです。
それを受け止めてくれる優しい人の前で、泣き叫びたかったのです。