ファーガンベルクの娘
わたしこと、アンジェリカ・テレーゼ・フォン・ファーガンベルクは、その名前が示す通り、ファーガンベルク公の一人娘です。
けれど、わたしにはファーガンベルク城での居場所はありません。
この家には、わたしの居るべき場所がありません。
わたしが居てもいいと思えて、思ってくれる相手が、居ません。
わたしという存在は、ファーガンベルクに必要ありません。
わたしには才能という物がありません。かと言って無能と言う程でもない……とは思う。身勝手ですけれど。
わたしに勉強を教えた先生は、わたしのことを努力ができる偉い子だと言ってくれました。確かに、わたしは自分でもよく努力を重ねてきたと思います。常々から気を抜かずに、お母様の言う立派な淑女になれる様、努力を重ねてきたつもりです。教養を身につけて、何処に出ても恥ずかしくない様に自分を磨いてきました。けれどそれは、結局の所凡人の領域を出ず、自分の身を研磨すればする程本当に優秀で才能のある人間との違いが浮き彫りになって、わたしがどんな恥ずかしいなまくらなのかを思い知るばかりでした。
お父様とお母様は言うまでもなく、知り合った友達も殆ど全員が何らかの才能を持っていて、わたしの両手と見比べる度に、一体この手には何が出来るんだろうと自問し続けて来ました。
人は自らが持っていない物にこそ羨望すると言うけれど、ならばわたしはこの世の全てに対して嫉妬色の視線を向け続けれなければいけないというのでしょうか。
比較というのは当然、お兄様も比較対象で、輝かんばかりの才能は羨望や嫉妬が起こる前に、「ああ、そう言う物なんだなあ」と、そもそもからして石ころであるわたしと、宝石であるお兄様との違いをただ染み入るだけでした。
魔法にしたってそうです。寧ろもっと酷いかもしれません。
わたしには当然魔法の才能がありませんでした。そもそもの始まり、努力以前の問題としての入り口に立つ資格が才能で決まる魔法というものに、わたしは初めから愛想を尽かされていました。半乾きの髪を絞り上げてようやく一滴の水が滴り落ちるかの様に、無理をすればわたしにも魔法は一応扱うことが出来ましたけれど、そんな無理をしてなんになるのでしょう? 非才が必死に足掻いて、結局虫唾が走った土の跡だけ残す、そんな惨めな思いをする必要が何処にあると言うのでしょう?
夜空に輝く一等星は、どうしていつもいつもお兄様を照らしているのでしょう?
わたしには、独房の中から覗き見える泥がお似合いという事でしょうか?
いつの日からか、わたしは努力を程々にし始めました。どれだけ努力を重ねても、わたしは結局平々凡々でしかありません。努力する天才には、逆立ちしたって敵いません。だからもう、自分を惨めに感じたくなかったから、努力を諦めました。
これ以上、嫌な思いをしたくない。
これ以上、悲しい思いをしたくない。
これ以上、自分で自分を傷つけたくない。
わたしはそんな後ろ暗い思いを抱えながら、自分からも逃げ出してしまいました。それがもっとわたしを傷つける事を知っていながらも。
わたしが努力を諦めた直ぐ後、先生はそれに気づいて、けれど何も言わず、勉強の量を減らしてくれました。元より同年代の子供より勉強量だけは多かったそうで、今更少し減らしたところで大して問題はないそうです。わたしは空いた時間を使って城の中を散策しました。普段は行かないような場所へ出向き、兎に角体を動かしながら、気の赴くままに見て周りました。使用人やお父様とお母様、そしてお兄様に見つからない様注意していたのですけれど、きっと、とっくに気がついていて、それでも尚気づいていないフリをしているんだと心の何処かでわかっていました。
わたしが秘密でする事なんてすぐにバレてしまうのが常であって、ことファーガンベルク城の中で隠し事など出来ないのですから。
それでもわたしは努力を諦め続け、遊びに呆けました。そして遂には崩れた塀を見つけ、木を伝って外に出る方法を編み出しました。外、とは言っても城の周りの壁と、更にもっと外にある私有地であることを示す本当の外壁との間にある、ちょっとした林だったのですけれど、わたしは見栄を張って森と呼んでいます。
それでも、この初めてと言ってもいいファーガンベルクへの明確な裏切りに、少しばかり興奮を覚えていました。勉強を放り投げ、努力を諦め、遂には人の目を盗んで外出をした。わたしはそんな自分に酔っていたのです。
それは実にちっぽけで、しょうもない反抗。人間の耳元で飛ぶ羽虫が、己を遠ざける為に腕を払わせた程度のくだらない煩わせ。
真に家を出た事の無いわたしが、どうしてこの程度の事で興奮を覚えずにいられましょうか。
側から見れば実に滑稽。けれど、わたしにとっては一世一代の大冒険だったのです。
そうした逃亡を続けていている様でありながら、その実家という範囲からは一歩も踏み出せていない日々が過ぎていき、そして今日もまた、わたしはまた外に出ようとしていました。
いつもの場所で、木を伝って崩れた塀から外に出ようとしていました。
そこに、一人の人間がいる事を知らずに。
…………いや、あれは人間なのでしょうか?
木の上に立つは女性の人影。真っ黒で光沢の無いドレスを着ていました。
左半分は、わたしやお兄様と同じ金色の髪。わたしの髪よりもずっと長いそれは、まるで刺繍に使われている金糸の様に煌めいて見えて、眩しくて目が眩みそうな程です。
けれど、右半分は夜を切り取ったかの様な黒い髪だった。漆黒のそれは、全ての光を吸い込み、艶やかな光沢を宿しています。
二つの相反する色を同時に携えたその髪は、少し不気味であったのですけれど、直ぐに憧れの感情へと塗り変わりました。
あれは特別な容姿です。
あの美しい色が染めて作れるはずも無い。
ならばあれは天然の色なはずです。
才能とはまた違って、そして同類な、天に与えられた生まれた時から持つ、特別な物。
よくよく見てみれば、その両眼すら左右で色が違っています。左眼は夏の青空を写し取ったかの様な青色の眼。サファイアの様に輝くその瞳は、お兄様のと同じく奥底から溢れる気品に満ちています。
そして右眼は、髪と同じ暗黒色。黒眼は大して珍しい物では無いですけれど、しかし目の前の女性が持つ黒眼はただの黒色なんかではなくて、深い紅色が混じっている風でありながら、紺色が混じっているかの様にも思えて、見ているだけでとても不思議な気分になる色です。
全ての絵の具を混ぜると黒色になると言いますが、この女性の眼の色は正しくそうなのでしょう、極彩色でありながら、その正反対に位置する漆黒の眼。わたしはその眼に魅了されていました。わたしという存在が、眼という極小の暗黒に飲み込まれていく感覚がしていました。わたしは目の前の女性に目を奪われ、微動だにせずに見つめていたのです。
とても長い間見つめていた様な気がしましたが、時間にしてみればほんの数秒の事でした。わたしは視線が吸い込まれているのに気づき、不躾に見つめてしまっていたという失礼に思い至りました。そもそもなんで木の上に登っているのでしょうかとか、女性はファーガンベルクの関係者なのでしょうかとか、そうでないなら不法侵入で所謂賊という奴なのでは無いのでしょうかとか、そんな考えは弾けた泡の様に消し飛んでいて、ただただ、目の前の女性に対する言い訳を頭の中で並べ立てていました。
淑女に失敗はあってはいけません。瑕疵を残してはいけません。万が一等起きてはなりませんが、仮に起きてしまったとするならそれを速やかに修正しなければなりません。
どうしましょう、美しいから見惚れてしまった、とでも正直に言ってしまいましょうか? けれど、それはそれで少し誤解を生みそうだけれどしかし、ええと、ええと…………。
焦り始めた内心は、ある意味で眼の呪縛からわたしを解放してくれていました。きっとあの眼差しは、無心であればある程より強く視線を惹きつけるのでしょうから。
よって、わたしが女性のもう一つの身体的特徴に気がつくのは必然と言えました。
それは――わたしより断然大きい女性的な部分ではなく――頭の右側、黒く染まった烏の濡れ羽色の如き髪、その側頭部と頭頂部の間、斜めの場所。
一本の、角が生えていました。
まるで枯れ枝の様な。
まるで削り出した黒い水晶の様な。
左右で違う髪の色や目の色は、まだ非常に珍しいというだけであり得なくはないものです。
けれど、角は違います。これは決して人間にあるはずのない部位なのです。故に、角を持つということは人間ではないということになります。
動物か、あるいは魔物か。
しかし、目の前の女性は……そう、目の前の角を生やした存在は、女性と呼べる通り人型をしています。
ならば考えられるのはただ一つしかあり得ません。
魔族。