未来の妹、過去へ舞い降りる
鼻がこそばゆい。
一度、二度と空気を吸い込んで、
「へっくしょんっ!」
花も恥じらう乙女として、なかなかに落第点ではなかろうかと自問する。
それとは別に、なんだか久しく嗅いでいない匂いもしていて、それはなんだか緑色の草の匂いと、茶色の土の匂いで、更には色とりどりの花の匂いが香って来ている。
とても懐かしくて、きっと一度は手放した香り。
目を擦って開けてみると、鳥が飛び立っていくのが見えた。きっと私の高くもなく低くもない、丁度良い整った高さの鼻を止まり木代わりにしていたのだろう。
小さくなっていく鳥を尻目に、私はのそりと起き上がった。
なんだか、空気がとても美味しい。私は両腕を挙げて伸びをした。まるで風邪で一週間寝込んだ後にようやく体を動かせた時の様な開放感を感じる。
どうやら、私が倒れていた場所は森の中らしい。森といっても、そこまで鬱蒼とせず、深くもない、どちらかというなら林の様であり、森と言った方が通りが良いから森と言っているだけのような、ちょっとした散歩にはうってつけの場所であり――。
と、そこまで考えて私は大きな疑問を抱いた。
この森は、私が知っている場所だ。それは当然と言えば当然のことであり、何故なら私が生まれ育ったファーガンベルク城のすぐ裏手にあるからである。私も子供の頃はよく従者と共に森の中を駆け回ったものである。
だからこそ、疑問でしかない。
この青々とした森は、辺り一面の緑を敷いたこの森は、私手ずから焼いて灰にしてしまったはずなのに。
そこまで考えた途端、私は頭痛に襲われた。頭の奥から圧が広がって、孵化した雛のように頭を割ろうとしてくる。
徐々にだけれど、思い出してきた。私は魔王に……魔王になった、なってしまった。
魔族の王、恐るべき破壊と暴力の化身。肉体が滅び去ろうと魂のみが現世にしがみつき続けた妄執の魔族。
魔王の魂が私の体に取り憑いて、私が魔王の肉体の代わりになった。最初こそ、魔王本人の意識など欠片もなく、ただ溢れ出てくる力を好き放題に出来ていた。魔王としての力を振るい、その強大さに感動し、これなら何でも出来ると思った。実際私のしたかったこと、やりたかったことは誇張なく全部できた。どんな邪魔がされようとも、意に解するまでもなく貫き通すことができた。
故にこそ、私は非常に、驕ってしまった。周囲に対しては当然、自分に対しても。
それは致命的な付け込む隙だった。流れる水がいつしか泥の一部になってしまうように、私という意識は徐々に魔王のものへと乗っ取られてしまったのだ。
少しぼうっとしている時間が伸びたことから始まり、次第にそれは昼過ぎから夕焼けが沈む間の記憶がまるでない事態まで進み、朝起きたと思ったら就寝しようとしていたこともあった。
そして気がついた時には、私は私の裏側で、魔王がしている所業を見るだけとなっていた。
いくつもの悲鳴が、私の手によってこだました。
いくつもの悲劇が、私の手によって起きてしまった。
もう止めて、もう嫌だ、もうそんなものは見たくない。そう願う度に私の目の前で不幸が繰り返された。何よりも親しんだ私の手で。
――身震いが起きる。いつの間にか両腕を脇に回し、上体も屈めて体を抱え込んでいた。私は今、本当に私なのだろうか? 私は今、魔王なのではないのか?
少なくとも、体は自由に動かせている。私は私のままでいる。
けれど、明日は? 明後日は? 一週間後は? あるいは五秒後は? その時になって、私が私のままでいる保証はあるのか?
恐る恐る、私は自分の手のひらを見た。我ながら陶磁器のような美しい肌であるけれど、しかし、そこには夥しい赤色を幻視した。
堪らず顔を背け、目を瞑る。それでも瞼の裏からこびりついて離れない。
私は意を決して手のひらを前に向ける。
体の中を、私の魔力が巡る感覚がわかる。
それは以前覚えた、知る魔法が全て児戯に等しく思える様な隔絶した力ではなく、極めた見慣れた、私の色をした魔力。
肩越しに見える黒色の髪を見るに、私の体は魔王の魂の影響を受けた後のまま一部が変わったままであるけれど、どうやら魔王の魂は私の体から消え去っているらしい。そしてどういう訳か、消え去った魂のあった場所――物理的な空間では無く、魂の収まる器の様な目に見えぬ物――の空白を満たす様に、私の魔力が溢れかえっている。
これは…………喜んで良いのだろうか?
確かに私の元の魔力は、お兄様どころか他の誰と比べても見窄らしい程の少ない物だった。だからこそ、わたしは才能を、魔法の才能を渇望したのだし、そうした身の丈に合わぬ願いがもたらした破滅こそが魔王だ。
そして今、残滓こそ身体的特徴として残されていても、精神にははっきりと影響は出ていない。
…………うん。やはり魔力は余り使わないでおこう。少なくとも、かつての私が扱えた程度の、雨漏りの様な魔力だけにしよう。
よしと言いながら、何がよしなのかわからないままに立ち上がる。
私は見覚えのある場所を通り、森を抜けていく。あちらの幹に傷がつけられた木は、私がかつて絵を刻んだものであるし、こちらの花は私が他所から持ち込んだ花が根付いた挙句に群生し始めたものである。
それらの悉くが灰となっているはずの私の記憶。
現に青々とした生命力を感じさせる森の様子が実際の現状。
この食い違いは、乖離は如何ともし難いけれど、答えの出ないままに、私は遂にファーガングベルク城の正面へ辿り着いた。とはいっても、見張りに見つからない様、遠くの木陰に隠れているのだけれども。
それは非常に見慣れた、私の家だ。
それは廃墟と化していた筈の、私が廃墟に変えてしまった筈の、私の家だ。
ゴクリと喉を鳴らす。本当はまだ夢を見ているのではないか? 魔王が見せている質の悪い冗談なのではないか? 等と、私は此の期に及んで尻込みする。
とうとう私は踵を返してしまった。
逃げる様に森の中へ入っていく。その間に見かける多くの物が、私にはとても馴染んだ懐かしい物である事は、より私の猜疑心のみを深まらせていった。
当て所なく彷徨っていた私であるものの、ふと、ある事に閃いた。 私がこの森で遊んでいた理由は色々とあるけれど、出掛ける機会の大半は一人で抜け出しての事だ。常に勉強と魔法の訓練を課され、自由時間など殆どなかった私が遊んでいることが出来たのも、単に勝手に遊んでいたからだ。
塀が少し崩れて低くなっている場所、木が中と外両方共に近く生えており、その崩れた場所を隠している。私は木を登ってそこからよく出入りをしていたのだ。
いつもの様に木に登ろうとして、自分の体が昔よりも大きくなっている事に気がついた。
記憶の中よりも登るのに苦労したけれど、ようやく塀を越えれる高さまで辿り着いた。そしていざ塀を越えようというその時。
ゴンッ、と、頭に固い物がぶつかった時の様な音が響いた。
痛い、けれど我慢できないほどではない。どちらかといえば、靴を履いたままつま先をぶつけた様な感じがする。
しかし、いったい私の体のどの部分がぶつかったのかがまるでわからない。まるで、頭から何か突起物でも生えているかの様な…………。
そわり、と頭を撫でる。
こつん、と指とソレがぶつかる。
にぎにぎ、とぶつかったナニカに触れてみる。
それは、角だった。
紛れもなく、角だった。
黒く染まった髪の右側、枯れ枝の形をした一本の角が、そこから生えていた。
あまり長くはないらしい。先端は刺さる程鋭くもないらしい。ゴツゴツしているけど、不快な感じでもない。捩れ曲がった様な形をしているけど、一体どんな動物、いや魔物に似たのか見当がつかない。
いや、いやいや。
そうではなくて、そうじゃなくて。
髪の毛はまあ、奇抜なファッションでまだ通るかもしれないけど。
この角は?
私は悶々と悩んだ。悩みに悩み悩んだ。頭を抱え、角を避けながら掻き毟り、「うーあー、むー」と人のものとは思えない呻き声を上げながら、悩んだ。
乗り移った木の上から降りる間もなく、ずっと悩んでいた。
だからその出会いは必然だったのだろう。私がここに陣取っている以上、彼女との邂逅は避けようのないものなのだから。
今この場で出会ったのは幸か不幸か、込み入った事情を話す前なのは私に大きく有利に傾いたけれど、だからと言って全てが丸く収まるわけでもなし。
「え………………」
消え入る様な、か細い声。
一番耳にした、聞き覚えしかない声。
「なん、あ……あなた…………角? え……?」
けれど、その声が発される場所は、いつも自分の口元であったからして、見下ろした先にいる人間から出てくるのには、違和感を拭い切れない。
「………………人の、魔物? …………魔族……!」
恐怖に顔を引き攣らせた、これまた見覚えのある顔。
その顰めっ面は、非常に不本意だけれど、非常に似合っている。
板についているともいうけれど。
――アンジェリカ・テレーゼ・フォン・ファーガンベルク。
私が、私を。
私と、私が。
見つめあっていた。