未来の妹、未来の兄
……永い、永い夢を見ていた気がする。
私は海に揺蕩う様な浮遊感を全身で感じながら、気怠げな瞼を閉じたままその場に居た。
そこは夢の中なのだろうか。
或いは、もっと別の場所なのだろうか。
例えばそう、死後の世界とか。
「…………っ!」
脳天を針で貫かれた様な鋭い痛みが走る。その針は私の頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱し、ヨーグルトの様に零れ出る脳みそを幻視できるほどだった。
私はふと、視界の端に黒色の髪があるのに気がついた。
私の髪といえば、両親や兄と同じく透き通るような金髪であり、それがとても誇らしく、自慢に思えていた。
けれど、右端に見えるその髪は、どう見ても私の頭より生えているだろうその髪は、夜空よりも尚黒い、漆黒の色をしていた。
途端、私の痛みは消え去り、寧ろ快感のようなものすら覚え始めた。
けれど、私はそんな物はまやかしであると知っている。
……何故?
それはきっと、経験があるからだ。
私のものではない、私に取り憑いた何かが、私の底暗い、本当なら望んではいけないような望みを表出化させ、悪辣にし、非道に変えてかつ快楽を覚えてしまうような、致命的に善性の欠けた人間へと作り変えてしまうと、私は知っているからだ。
……魔王。
再び頭痛に苛まれる。しかし、それは以前ほど苛烈なものではなく、酷い寝不足の時の様なジンジンした鈍い痛みだ。
私は……魔王になって一体何をしていたのだろうか?
初めの頃のことならば覚えている。四肢から骨髄までを満たすような全能感。私の思うがままに力を振るい、思うがままの結果を引き起こした超越感。高笑いしたことを覚えている。これからすること全てが上手くいく気がして、実際、私が何をどうしようと止められる人はいなかったし、何もかもが思い通りになっていた。
これなら、皆んなを見返せる。
これなら、皆んなに認めてもらえる。
これなら、皆んなから尊敬してもらえる。
これなら、皆んなから恐れ――――――――。
胸に何か巨大なものがつっかえた様な、ともすれば呼吸すら困難に思えるしこりがある。それはきっと、心を突き刺している細い細い針だ。目に見えない程細くありながら、確実に私の心を傷つけている。そして心からは血が涙の様に流れているのだ。
どうしてだろう? わからない。私にはわからない。けれど、その痛みは取り返しのつかないことをしてしまったのだと、切に訴えかけてくる。
左の頬から涙が伝った。
右の目からは、何も流れていない。
後悔から流れる悲しみの涙。哀叫から溢れる慟哭の涙。沈痛から滲み出る苦痛の涙。私の感情はこれほどまでに揺れ動き、止めどなく涙は流れ続けているというのに、けれど、魔王となった私は、その真っ黒に変色した眼からは、一滴たりとも流れない。
私は、どうしようもなく、手遅れで、どうしようもなく、終わっている。
「ふふっ」
自然と笑い声が口から溢れ出た。これは強がりであり、同時に諦観からくる嘆息だ。
私にはきっと救いはない。
いや、救いようがないのだ。
どうすれば救えるという?
この、例え記憶が朧げであろうと、焼きついて離れない他人の苦しみを、一体どうやって私は味わった?
どうやって、至極の料理を味わうかの如く、舌鼓を打った?
私はそれが恐ろしい。
私でなくなった精神性が、私の体に未だ根付いているだろうことが悍ましい。私はまだ正常なのか? 正常なフリができているだけの恐ろしい化け物ではないのか?
この事を確かめられないことが恐ろしい。私が私なのかわからないことが恐ろしい。
どうか私を殺してほしい。
私がまだ、私で居られる内に。
瞼が、ゆっくりと開いた。
私が居た場所は確かに夢だったようで、目を開けた先には現実があり、そして、お兄様がいた。
お兄様。
私の血を分けた家族、実の兄。
アルガリアお兄様。
どうして泣いておられるのでしょう?
アルお兄様は格好いいのですから、キリリとした表情と、穏やかな笑顔こそが似合っているのに、泣いてしまっては台無しですわ。
だからほら、お笑いになって。
私などの為にお顔を崩されてはいけませんよ。
お兄様は格好よく、素敵であり、そして誰よりもお強い。それは剣の腕ではなく、ましてや腕力でもない。その高潔な精神こそが、最も尊く、強いものなのですから。
それは目も眩むほどに輝かしく。
隣に立つ私には、影の中こそが本当に居心地が良く思えてしまって。
それが、きっと私の罪なのでしょう。だから、罪を犯した私は罰されなければならないのでしょう。
断罪する者が兄であるのは、ちょっとばかり堪えてしまうけれど。
私の手が、だらりとぶら下がっていただけのはずの手が、お兄様の頬へと向かって動く。
どれ程血に染まった手であろうと、いか程罪深い者の行いであろうと、私はこれだけはやらねばならない気がした。
そのまま包み込むように手のひらを当て、泣いて崩れてしまっている表情を笑顔へと整える。
ほら、やっぱり、笑っている顔が、お兄様にはお似合いです。
私の意識は、そこで途切れた。
胸はとても冷たく、凍えてしまいそうだったけれど。
それでも、暖かさを感じていた。