未来の魔王、未来の勇者
そこはファーガンベルク城。かつては栄華を誇ったその城は、今では見る影もなく寂れ、綻び、崩れかけている。
だがそれでもこの国、エルケーニッヒ王国では最も優美な城だ。何故なら本来頂点にあるべき王城はとっくに瓦礫の山と化し、ヴィンドミナの荘厳な劇場も、ウルブスの偉大な図書館も、プルーサの絵画の如き港町、グロッケントゥルムの堅牢なる砦も、その悉くが灰燼へと帰している。
比べるべき建物が、最早この王国には存在しないのだ。
恐るべき悪霊が住まうと言われても違和感をまるで感じないその城には、一人の存在が住んでいる。
それは悪霊よりも尚恐ろしく、強大であり、死を感じさせる。
それは魔王。
それは太古の昔から存在する、魔物達の王。
それは肉体が滅び、どれ程磨耗しようと決して終えなかった魂が、人間に取り憑いた姿。
アンジェリカ・フリューゲル・フォン・ファーガングベルク。
それが魔王に取り憑かれた人間であり、エルケーニッヒ王国最後の城に住まう人間である。
一言で言うならば、彼女は暴虐の限りを尽くした。
人を人と思わず。
我が儘を押し通し。
肉親に情など無く。
友人など露にも思わず。
他人の不幸は蜜の味であり。
滅亡になんら忌避を感じない。
魔王となったアンジェリカは、まるで積年の恨みを晴らすが如く、人間達を絶望の淵に陥れた。
凄惨たる殺戮の嵐は、亡くなった人間より生きている人間を数えた方が早い迄に人間を貶めた。
けれど、人間は抗い続けた。
かつて甦った魔王を再び討ち取った勇敢なる者の様に、魔王の討伐を掲げた人間達がいた。
ある者は剣を振い、またある者は杖を掲げ、魔王を打ち倒し、安寧を取り戻すことを誓った。
勇敢なる者。それは勇者と呼ばれ、人間の期待と希望を一身に背負い、魔王に抗った。
ある者は魔物の牙に斃れ、またある者は瘴気の病に斃れた。勇者はその数を減らしていき、遂には片手で数えられるまで減ってしまった。
けれど、勇者は諦めなかった。
勇者の中の一人、かつての居城にして今の魔王の居城、ファーガングベルクの跡取りにして、魔王アンジェリカの実の兄、アルガリア・ペーター・ヴォルフガング・フォン・ファーガングベルク。
彼は魔王となった妹にその手で決着をつける為、決して諦めず、勇ましく戦った。その背に呼応して、共に戦う為立ち上がった者達と一緒に戦った。
「ようやく会えたね、アンジェリカ」
天井の崩壊したファーガングベルク城の最上階。
そこで一人の魔王と一人の勇者が対峙していた。
「あら、お兄様? お一人で私に会いに来てくださったのですか?」
まるで愛し合っている家族が久しぶりの再会に喜ぶ様な、そんな喜色を湛えた声でアンジェリカは答える。
けれど、それにアルガリアは静かに怒り狂った。
「……ああ、仲間、いや、友人と一緒に来たんだけどね。この城は広いから、逸れてしまって」
「そうなのですか? でしたら、私も一緒に探しに出ましょうか?」
アンジェリカはニコニコと笑っている。それはかつて妹が浮かべていた優しい笑みとまるで変わらないと言うのに、酷く冷たく見えた。仕草の一つ一つが愛しい家族と、愛しい妹と同じに見えるのに、何か致命的な掛け違いがある様に見えた。
アンジェリカは一歩近づく。
「ねえ、お兄様。久しぶりにお会いしたのですし、ゆっくりお話ししましょう? お茶会、そう、お茶会をしましょう! お兄様は男だからといつからかお茶会をしてくれなくなってしまったけれど、久しぶりに会った今日くらいなら、付き合っていただけるでしょう?」
ふふふと、喜びを隠しきれない様に笑う姿は、正しく妹だった。
――けれど、ああ、アンジェリカよ。
その美しい金髪が、右から半分が真っ黒に変わってしまった髪は、染めたにしては些か悍ましい様に見えてしまう。
その美しい青い目は、右目が跡形もなく深淵の如き黒色に染まってしまった目は、一切の光を、私を見返してはくれないのだろうか。
その美しいドレスは、我が家には無かった物のはずで、まるで血肉を編み込んだ様な蠢く黒々しさはなんと私に説明してくれるのだろう。
その茶会の席に既に汲んである紅茶の何と赤々しいことか、君はどうしてそう美味しそうに飲むことができるのか?
口の端に付いて残った紅茶は、赤色は、まごう事なき血の跡でしか無く。
私――違うな、俺は自然と剣を抜き放っていた。
「ああ、待ってお兄様。まだケーキが届いていないのにナイフを取り出しては危ないですわよ?」
妹の姿をした魔王は俺を窘める様に言った。剣がナイフなどと、面白くもない冗談だ。それは余裕の表れというのか、魔王よ。だが、それは同時に驕りでもあるのだ。
正眼に構えたまま、俺は必殺の機会を窺う。相手は魔王。単なる魔物や魔族と訳が違う。何せ魂だけの状態で何百年と存在し続けた規格外であり、単に首と胴を切り離すだけで死ぬとは思えない。故に、魔王がどれほど強大な存在であろうと、一撃で葬ることができる様に、俺は剣に魔力を込め続ける。
魔法を使うのではないそれは、ある意味で力みに近い。魔力による敵の防護の突破や、魂を滅する為の莫大なエネルギーとしての利用という、合理的な理由は勿論ある。
けれど、これは力みなのだ。緊張に震える兵士が強く槍を握り込む様に、俺は魔王、そして妹を目の前にして酷く魘されている様な気分だった。
白状しよう。俺は妹を斬る心構えが出来ていない。俺は妹を未だに
「何をウジウジしているのですか? お兄様。ほら、見てください、ケーキが届きましたわよ?」
ポトリ。と星空のよく見える空から一つの物体が落ちてきた。それは狙い済ました様に茶会の席、用意された大皿の上に落ちてきた。
着地して、血が飛び散る。
衝撃で皿は割れ、物体は跳ねて床に落ち、ゴロゴロと転がった。
それは今日、俺と共にファーガングベルクの城へ乗り込んだ仲間の一人だった。
虚ろな瞳は、偶然か必然か俺を見つめていて、何かを訴えかけている様に見えた。
……違う。その内容は、陳情は、責苦は、哀願は。
志半ばに倒れるその悔恨は、未だ腹を括れぬ仲間に対する憤怒は、己が生きて帰ることが出来なかった絶望は。
俺を貫いて、糸繰りの人形の様に揺り動かした。
「その顔でっ! その声でっ! これ以上話すな!!」
それは俺の妹のものだ。魔王よ、決してお前のものではない。
そして俺は馬鹿だったのだ。どうしようもない間抜けで、この期に及んで妹を助けようだなんて考えていた。
妹は、もうどうしようもなく魔王に乗っ取られてしまったというのに。
頭が真っ白に白熱する。沸き立つ血肉は沸騰しているようで、目の前の光景すらまともに見れやしない。
けれど、討つべきは非常によく見えている。
それは本島なら俺が守るべき顔であり。
決して目を逸らしてはならないものだった。
戦いの記憶は朧げで、あまり憶えている事はない。魔王が強く、必死であったのもあるが、やはり、血を分けた家族を手にかけるその瞬間を覚えていたく無かった俺自身の甘さもあるのだろう。
ただ、結果だけは明白であり、それは俺に一つの事実を突きつけた。
真っ赤に染まった俺の剣は、滴る血に塗れている。
手にある感触が残っている。それは切り裂く感触だった。それは貫く感触だった。それは、命を奪う感触だった。
俺は魔王を――妹を、殺したのだ。