暗闇
館の右手を包む森は、すでに夜の闇の中に沈んでいた。
さして大きな森ではない。林と言っても差し支えない程度の、ささやかなものだ。
しかしジュグラの館から漏れる明かりは木々の葉の表面を照らすばかりで、その奥に泥のように沈む暗がりを照らし出そうとはしなかった。
女の悲鳴のような声はこちらの方角から聞こえてきていたはずだ。だが、今は何の物音もしない。
奇妙な静けさ。
不自然なのは、虫の声すら聞こえないことだ。
この一角は、まるで死に絶えた世界のように静まり返っていた。
「ここですか」
ソニアの感じている不可解さなど全く意に介している様子もないレスリーが、木々の枝を見上げる。
「夜に鳴くとは、百薬鳥というのは夜行性の鳥なのですな」
呑気なことを言いながら、ランプを掲げる。
「うーん、何も見当たりませんな」
ソニアは無言で彼の背中を見ていた。枝を見上げることもしたくなかった。
見上げて、もしもそこにいる悲鳴の主と目が合ってしまったら。
その時は、正気を保っていられるか分からない。
そんな予感があった。
「もうよいではございませんか」
ソニアは言った。
「人が来たので、逃げてしまったのでしょう。戻りましょう」
「そうですか……」
レスリーは名残惜しそうになおもランプを揺らした。しかし羽ばたきの音一つしない森に諦めたように振り返る。
そして、青ざめた顔のソニアを見て微笑んだ。
「ここにいるのが怖いのですな。そのようなお顔も可愛らしい」
こんなところで可愛いなどと言われても嬉しくはなかったが、ソニアは彼の感情を利用してでも、この場所から一刻も早く立ち去りたかった。
「ええ、怖いのです」
ソニアは甘えるようにレスリーを見上げ、露わな肩を両手でさすった。寒いわけでもないのに鳥肌が消えなかった。
「明るいところへ戻りましょう」
「仕方ありませんね」
ソニアのしなに庇護欲をそそられたらしいレスリーは、優しく彼女の肩を抱く。
「震えている。戻って、温かい飲み物でも持ってこさせましょう」
「ええ」
レスリーとソニアが踵を返しても、異国の騎士はその場から動かなかった。
暗い目で、森の奥を見つめている。
「どうした、騎士殿」
揶揄するようにレスリーが言った。
「何か見えるか。ナーセリの騎士は、夜目が利くか」
「いえ」
ハードは振り返るでもなく、短く答えた。
「どうぞ、お二人はお戻りください」
レスリーは、小さく舌打ちした。
「一人だけで、ここに残って何をする気だ」
足を止め、険のある笑顔を浮かべる。
「百薬鳥を独り占めする気か、ええ?」
「見方によっては、そうなりますか」
ハードは否定しなかった。
「いずれにせよ、これは私の獲物であると存じます」
「なんだと」
レスリーがその言葉を聞き咎めたときだった。
つんざくような、女の悲鳴が森の奥から響き渡った。
「うっ……」
館の壁越しに聞くのとは、桁違いだった。
ソニアは思わず耳を押さえてうずくまる。
「どうしました、ソニア嬢」
慌てて肩に手を置くレスリーにも、暗い目で森を見上げているハードにも、その悲鳴は聞こえていないようだった。
とすれば、あれは。
ソニアは森の奥に目を向ける。
やはり百薬鳥の鳴き声なのか。
だが、森の奥に生き物の動きはない。
金切声のような悲鳴は、やがてかすれて途切れた。
「いるのですな、この奥に」
異国の騎士が、感情のこもらない声で言った。
初めて出会った時から、感情の起伏の少ない男だとは思っていたが、今のハードはまるで感情の抜け落ちた仮面のような顔をしていた。
「待て」
森へと歩き出したハードを、レスリーが慌てたように呼び止める。
「独り占めは許さんぞ」
まだそんなことを。
ソニアはレスリーの服の裾を掴む。
「レスリー卿、行かないでくださいませ」
「ええ。いや、しかし」
恋する女の傍にいてやるべきか、それとも商売のタネがみすみす他人の手に渡るのを阻止しに行くべきか、レスリーは迷った顔をした。
そのとき。
「どこへ行かれますか」
突然の声に、ソニアは顔を上げた。
「あ、いえ」
レスリーが慌てた顔で取り繕う。
「少し夜風を浴びに」
彼らの背後に立っていたのは、ジュグラの腹心のドバルだった。
「ここに立ち入ることを、ジュグラさまは望まれておりません」
静かで丁寧な口調だったが、ドバルの顔には一片の笑みもなかった。
「館へお戻りください」
「ええ、もちろんです」
レスリーの返答は早かった。
「そのような大事な場所とは気づかず。失礼いたしました」
曖昧な商機よりも、目の前の重要な取引相手の機嫌の方が大事なのは、火を見るよりも明らかだ。レスリーはきびきびとした動作でソニアを助け起こした。
「さ、ソニア嬢。だからこんなところにいては叱られると言ったではないですか」
しれっと自分のせいにしたレスリーに、ソニアは内心腹を立てたが、あえて反論はしなかった。
そんなことよりも、ここを離れることの方が先決だった。
寄り添うように歩き始めた二人を見ても、ドバルは眉一つ動かさなかった。この恰幅のいい中年男は、ぞっとするほど冷たい目でハードの背中を睨みつけていた。
「あなたもです。戻りなさい」
ドバルの太い声が響いた。
けれど、ハードは森を見つめたまま微動だにしなかった。
「聞こえませんか? それとも言葉が分からない?」
反応のない男に、ドバルの口調に苛立ちが混じる。
「ここを去りなさいと言っているのが、分かりませんか」
「あ、あの」
ソニアはとっさに助け舟を出した。
「ドバル様。あの方は異国の騎士様なので、私たちとは習慣が」
助けにもならないような言い訳だったが、それを聞いたドバルは対応を変えることにしたようだった。
「異国の騎士殿」
そう呼びかけながら、ドバルはずしずしと大股でハードに歩み寄る。
「ここを去りなさい。聞けぬのならば、この館からも出て行ってもらうぞ」
丸々と肉のついた手を、ハードの肩にかける。
その時、不意にハードが振り向いた。
相変わらずの感情のない顔。しかし、目だけが熱に浮かされたように妙な光を放っていた。
「おかしな人だ」
ハードは言った。
「なに?」
ドバルが眉を顰める。
「誰がおかしいと? まさか、この私のことを言っているのではあるまいな」
ずしりと腹に響くような、太い声。レスリーが思わず首をすくめるほどの圧力があった。
ドバルはジュグラの腹心として、海千山千の取引相手や商売敵とやり合ってきた男だ。その凄味が垣間見えた。
しかしハードは彼の言葉も威迫も意に介さず、首を曲げてドバルの目を覗き込んだ。
「土地が変われば、人も変わる」
ハードは呟くように言った。
「しかし、そうか」
ハードが笑う。
ソニアは息を呑んだ。とっさに、目を背ける。
見てはいけない。
そう思うほどに、邪悪な感じのする笑顔だった。
「土地が変われば、魔も変わるのか」
「さっきから、何のつもりだ。何を言っている」
ドバルの問いに、ハードは答えなかった。代わりに、低い笑い声を漏らした。
「この国には、この国の魔の形が」
そう言うとハードはドバルに一礼し、館へと歩き出す。
「戻りましょう」
再び、悲鳴。
「いい夜ですな」
ハードは言った。