鳴き声
「ソニア嬢、少しお時間よろしいですか」
ジュグラから離れた後でそうソニアに持ち掛けてきたレスリーの目は、どこか据わっていた。
「ちょっと、二人きりでお話が」
「……ええ、構いませんが」
戸惑うソニアの手を引いて、レスリーは大広間の出口へと歩き出した。
「レスリー卿、いったいどちらへ行かれるのですか」
自分の手を引いたまま、速度を緩めることなくホールの外へと出たレスリーに、ソニアはついに非難めいた声を上げた。
「お話なら、大広間でもできるではありませんか」
「なあに、ちょっとした余興ですよ」
振り返ったレスリーは笑顔だったが、その表情には余裕がなかった。
「ジュグラ卿への挨拶は済ませた。あとはいつもと変わり映えのしない面子ばかり。そうでしょう」
「それはそうですけれど」
ソニアの頭をよぎったのは、ナーセリから来たという静かな目をした騎士の姿。
珍客と言えば彼くらいのものだったが、今はその姿は見えなかった。
「だから、退屈しのぎにちょっとした冒険をしようじゃありませんか」
「冒険?」
「百薬鳥」
レスリーは、その言葉を口にした途端ソニアの表情が強張るのを見て、軽い笑い声を上げた。
「先ほど、ジュグラ卿がおっしゃっていましたね。男には聞こえぬ鳴き声を上げる鳥だと。しかもどうやら、夜行性の鳥のようだ」
レスリーは玄関ホールで足を止め、耳に手を当てる仕草をしてみせた。
「私には、大広間の喧騒以外何も聞こえません」
そう言って、やや青ざめた顔のソニアの顔を見る。
「ソニア嬢には聞こえるのでしょう、その鳥の声が。どちらの方角から聞こえるのですか」
「まさか」
さすがのソニアも、声を微かに震わせた。
「その鳥を見に行こうというのですか」
「聞いたこともない鳥ですし、百薬にも勝るというその肉は高く売れそうだ」
レスリーは微笑んだ。
「何か、新しい商売に繋げられないか。あなたのご両親ならそうお考えになるのではありませんか」
「私の父母なら」
そうだろうか。
手堅く細心な父の慎重さと、新奇なものに目がない母の柔軟性。それがリッカード商会という車を動かす両輪だった。
だが、あの母とて興味を示すだろうか。
今も聞こえているあのおぞましい声を発するような鳥などに。
「ジュグラ卿は、男性には聞こえないとおっしゃいましたが、本当にレスリー卿にはお聞こえにならないのですか、あの声が」
「何にも」
レスリーは首を振る。
「どんな声なのですか」
そう言って、もう一度耳に手を当てる。
「女の声のようだと言っていましたね。何か言葉のようにも聞こえるのですか」
「いいえ」
ソニアは首を振った。
「悲鳴です。ずうっと、苦し気な悲鳴を上げております」
その言葉に、レスリーは一瞬絶句した。
「それは耳障りな」
「ええ。ですから、やめましょう」
ソニアは自分の腕を抱いて、手でさすった。
「気味が悪いですもの」
「ますます興味が湧きました」
レスリーは言った。
「実物をこの目で見たい」
「嫌ですわ」
ソニアは首を振る。
「どうしてもとおっしゃるのでしたら、どうぞお一人でお探しになって」
「私には鳴き声が聞こえないのですよ。あなたに来ていただかなければ、どこへ行けばいいのかも分かりません」
レスリーは執拗だった。
普段は明るくて社交的なこの青年貴族を、こんな陰惨でつまらないものにいったい何が駆り立てているのか。
ソニアは奇妙に思った。
「どうしてそこまでなさるのです」
「不安ですか、私と一緒でも」
不意にレスリーは自分の筋肉を誇示するように、太い腕をソニアの腰に回して彼女を引き寄せた。
「あなたに何かあろうとも、守れるくらいの力はありますよ」
「それはもちろん存じております」
ソニアはさりげなく彼の厚い胸板を押して距離を取ろうとした。
けれど、レスリーはますます強い力でソニアの身体を引き寄せる。
「アレン公の銀鉱山は、私のいくつもある出資先の一つにすぎません」
レスリーは言った。
「収益が出ればすぐに手を引きます。ずるずるとはいきません」
その言葉で、ソニアはレスリーが先ほどのジュグラからの警告を気にしており、それによって自分の面子が潰れたと感じているのだと気付いた。
「ええ、そうでしょう。もちろん」
ソニアは相槌を打ち、今度はもう少し強くレスリーの胸を押した。
「商売とはそういうものですもの。レスリー卿に限って、失敗などなされませんでしょう」
それを聞くと、レスリーはようやく安心したように腕の力を緩めた。
「ええ、そうですとも」
「ですから、あんな気味の悪い鳥のことなど忘れて、大広間へ戻りましょう」
ソニアは努めて明るい声で言った。
「私、エルハド卿にもご挨拶しなければいけませんの。レスリー卿も付き合ってくださいますか」
「それはもちろん」
レスリーが頷く。その笑顔に険しさがなくなったのを見て、ソニアが安堵した、ちょうどその時だった。
「失礼」
背後から聞こえたのは、低く陰気な声だった。
振り返ると、そこにあのナーセリの騎士が立っていた。
「百薬鳥の鳴き声がすると言われて、ここまで来たのですが」
感情の読み取れない表情のまま、ハードは言った。
「私には聞こえぬので教えていただけませんか。声は、どちらの方から」
「……百薬鳥だと」
一瞬呆気にとられたレスリーだったが、すぐに口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「それを聞いてどうするんだ」
「我が国にはいない鳥ゆえ」
騎士ハードの声は、あくまで陰気だった。
「旅の記念に、この目で拝んで帰ろうかと思っております」
「やめておいた方がよろしいですわ」
とっさにソニアはそう言っていた。
「物見遊山で見るものではないと思います。きっと良いことはありませんわ」
「ええ、そうでしょうな」
ハードは、ソニアの答えを予想していたかのように淀みなく頷いた。
「だからこそ、です」
そう言ったときの、ハードの目。それを見た瞬間、ソニアは全身が総毛立った。
ぞくりとする、などという生易しいものではなかった。
全身から、一瞬にして血の気が引いたかのような心地がした。
ハードの目に浮かんだ、底のない沼のような闇。
それはごく一瞬で消えたが、ソニアはエドの不吉な言葉を再び思い出した。
あの連中が来るところには、魔人が出るような気がするんですよ。
「またとない機会です。ぜひ、この目で見てみたい」
その言葉に、静かな熱意が込められていた。
「お教え願いたい。声は、いずこから」
「貴殿、見るだけでは済まないのではないか」
レスリーが言った。
警戒するように、ソニアの前に立つ。
「百薬鳥を、どうするつもりかね」
レスリーが視線を落とす。ソニアもそれで気付いた。
ハードの腰には、先ほどは佩いていなかったはずの剣が提げられていた。
一目でわかる、使い込まれた柄。
それは、やはり彼がナーセリの騎士と呼ばれる、戦いを生業とする人間であることの証のようだった。
「その剣で、どうにかするつもりではないのか」
「あるいは」
ハードは否定しなかった。
「そうなるやもしれません」
その言葉がレスリーの商魂に火をつけたようだった。
「騎士と名乗りはしたが、ずいぶんと目敏いのだな」
レスリーは挑戦的に言った。
「百薬にも勝る霊鳥の肉なら、さぞかし高く取引されることであろう」
ハードは曖昧に首を傾げる。
「ソニア嬢、私に教えてください」
レスリーは言った。
「この異国の男に横取りされるわけにはいきません」
「方向を教えていただくだけでいいのです」
一方のハードは、あくまで淡々としていた。
「後は大体分かりますから」
なぜ分かるのか。何が分かるのか。ソニアには、それを聞くのはためらわれた。
無言で二人の男を見るソニアの耳に、またあの耳障りな悲鳴が響く。
「多分」
思わず、ソニアはそう口に出していた。
「出て右手の森……」




