ソニア
馬車は、舗装された市街地の道を抜けて郊外へと出た。
未舗装の道に、馬車はがたがたと揺れる。
「お嬢様、少し揺れますぜ」
御者のエドは悪い人間ではないが、少し気が利かないので、もうとっくに揺れ始めてからそう声を掛けてくる。
「ええ、大丈夫」
傍らの手すりを握って、ソニアは答えた。
「あそこへ行くのは、もう五度目だから。この辺から揺れるなっていうのは知ってるわ」
「ああ、そうですな」
ソニアは窓の外を見た。
この時間、こんな場所を歩いている人間はもういないだろう。
国でも有数の大商家の娘としては無作法であることを承知で、ソニアは馬車の窓を開けて顔を出した。
夕方の冷たい風が気持ちよかった。大きく息を吸うソニアの髪が揺れた。
着いたらまずは髪を直さないと、とは思ったが、もうしばらくこの風を浴びていたかった。
「お嬢様、そんな子供みたいなことを」
案の定、エドは困った声を上げた。
「あっしにはお嬢様の髪は直せませんぜ」
「分かってる。大丈夫よ」
何もできない貴族のご令嬢ではない。自分の髪くらい、馬車の中で一人で直してみせる。
「やっぱり誰か侍女も連れてきた方が良かったんじゃねえですか」
エドはまだそんなことを言っている。
自分だけでは明らかにこのお嬢様の面倒を見切れないことを心配しているのだ。
「いいのよ。みんな、あの屋敷には行きたがらないから」
これから向かう屋敷の、何とも言い難い奇妙な不気味さ。
それは、エドのような男性にはあまり伝わらないものらしかった。
だが、ソニアの連れてきた侍女は誰もが一度行くとしり込みしてしまい、二度目は行こうとしなかった。
最も気丈な侍女のタミアが二回同行してくれたが、その彼女ですら、どうかもうご勘弁を、と許しを乞うてきたのだ。
理由は、定かではなかった。ただ、あの場所に行くと理由もなく胸がざわざわして、声を上げて逃げ出してしまいたくなる。自分が自分ではなくなってしまいそうになる、と彼女たちは口々に言った。
「何がいかんのでしょうなあ」
エドは呑気に言った。
「あっしには立派なお屋敷にしか思えませんが」
「そうね」
ソニアも、決して愉快な場所ではないと感じてはいたが、それでも行かなければという使命感の方が勝っていた。
両親が大きな取引で国外にいる今、重要な商売相手であるこの屋敷の主人の晩餐会に招待されたら、断るわけにはいかない。
ソニアは、でこぼこの道の先に目を向けた。
小高い丘の上に立つ館の、窓に灯る明かりだけが見えた。
「どうしてジュグラ様はあんな不便なところにお住まいなのかしら」
「偉い方の考えることは分かりませんなあ」
エドはのんびりと答える。
「あっしでしたらジュグラ様くらいのお力があれば、街のど真ん中にでっかいお屋敷を建てますがね」
「ど真ん中は私も嫌よ。毎日色んな人が通って落ち着かないじゃない」
「おや、そうですかい。人が多けりゃ強盗にも入られねえと思うんですがね。だいたい、狙われる家ってのは一軒だけぽつりと立っているようなところなんですよ。街の真ん中でいつでも人の目がありゃ、そりゃ多少はやかましいかもしれませんが、よっぽどのことが無けりゃ強盗なんぞは……おや」
急にエドが口をつぐんだ。
その理由は、ソニアにも分かった。
道を、一人の男が歩いていた。
旅装らしきその服は、この国のものとは少し違った。
外から来た人だわ。
エドが手綱を引いて、馬車を少し右に寄せる。
馬車はまたがたがたと揺れ、ソニアの尻の下で座席が跳ねた。
男は、馬車を振り返るでもなく静かに歩き続けている。
どうやらソニアたちと同じジュグラの屋敷へと向かっているようだった。
この道の先には、ジュグラの屋敷しかないのだから。
馬車が男を追い越す前に、ソニアは窓から顔を引っ込めた。
さすがにこんな子供じみた真似をしているところを、同じ屋敷に行こうとしている男に見られるわけにはいかない。
馬車が横を通り過ぎると、男がちらりと御者のエドを一瞥するのがソニアにも見えた。
ソニアの目を引いたのは、意外に若いその男の整った横顔ではなかった。
ソニアが思わず息を吞むほどに、男は暗い目をしていた。
「……変な男でしたな」
男を追い越してしばらくしてから、エドが言った。
道の先の屋敷はもうだいぶ大きくなってきていた。
「お嬢様もご覧になりましたか」
「ええ。外国人だったわ。どこから来たのかしら」
「腰に剣を吊るしておりましたな」
「そう? そこまで見ていなかったわ」
馬車の窓から見えたのは、その横顔だけだ。
「あっしは昔、リモンの港で働いていたことがあるんで、ああいう剣を持った人種を見たことがあるんですがね」
エドの声には、微かな嫌悪感が混じっていた。
「ありゃ多分、ナーセリの人間ですぜ」
「ナーセリ……」
「ええ。呪われた土地ナーセリ。豊かで大きな国ですが、隣のシエラと並んで魔人の生まれ故郷なんて言われてるところでさあ」
「魔人?」
「お嬢様もおとぎ話なんかで聞いたことがあるでしょう。人の形に似ているが人じゃねえ。そんな化け物のことですよ」
「化け物……」
ソニアは呟いた。
魔人がどんなものかはよく知らないが、確かに幼いころからそれがとにかく恐ろしい魔物だとは聞かされていた。
「ナーセリの騎士ってのは、とにかくもうでたらめに強いんだそうで」
エドは話し続ける。
「年がら年中魔人と殺し合いをしているような人間ですから、そりゃ強いことは間違いないんでしょうがね。だからお偉い貴族の旦那衆は、あの国の騎士が来るとありがたがってお屋敷に招待したりするんですが、あっしはいつもそれはやめたほうがいいと思っていた」
「どうして?」
「だって、不吉じゃねえですか」
エドは吐き捨てるように言った。
「あの連中が来るところには、魔人が出るような気がするんですよ」
「でも、エド」
ソニアは御者の言葉に微かに笑う。
「ナーセリの騎士って、魔人を討つ人たちなんでしょ? 魔人の仲間じゃなくて」
「同じようなもんですよ」
エドは嫌そうに首を振る。
「ナーセリとシエラの騎士は、すぐに分かる。あいつらからは瘴気の臭いがするから。リモンで仲の良かった運送屋が、よくそう言ってましたよ」
エドの口調は辛辣だった。
「たとえば森の中で、狼と蛇が殺し合ってるところに出くわしたら、どっちかの応援をしますかい。そんな危ないところからはさっさと離れるでしょう。その後に生き残った狼が森から出てきたら、よくやったと誉めて自分の家で餌をやりますか。そんなことはやめた方がいい。あいつらはあいつらの理屈で生きてる。関わらねえ方がいいんだ」
エドのたとえはどこかずれている気がしたが、それでも言わんとしていることは何となくソニアにも分かった。
「エドの言う通りかもしれないわね」
ソニアは言った。
ただでさえ気が重かった、今晩のジュグラ邸で開かれる晩餐会。
それが、今の男のせいでさらに憂鬱になってしまった。