出立
その痛みは、自分も受けるはずの痛みであった。
その栄誉は、自分も受けるはずの栄誉であった。
だが、騎士ハードは何も手にすることなく、ただ恥辱と汚名のみをその身に刻んだ。
武勇の国ナーセリに“詩人”と綽名される恐るべき魔王が現れ、国中を恐怖に陥れたとき。
ナーセリ王は魔王を討つために、麾下の数多の騎士の中から、最も優れた七人を選抜した。
すなわち。
ナーセリ第一の騎士アーガ。
ナーセリ騎士の精華ユリウス。
百戦錬磨のラザ。
若手騎士の筆頭ロイド。
飄々としたテンバーとそのライバル、ゴーシュ。
そして、最も年若く、将来のナーセリ騎士を背負って立つ男と期待されていた騎士ハード。
魔王の出現したトリーシャの街へと向かう道中は、騎士達が経験したことのない濃密な漆黒の瘴気に覆われていた。
ほとんど役にも立たない松明の明かりを頼りに、一行はトリーシャへと近付いていった。
だが、その途中でハードは動けなくなってしまった。
今まで騎士として、どんな魔人を前にしても恐れを感じたことなどなかった。
強敵相手に負傷したことも幾度もあったが、怯んだことなどなかった。
それなのに、どす黒い瘴気に包まれているうちにハードの心には言いようのない恐怖と虚無感とが生まれた。
それは時を増すごとに大きくなっていき、ついには彼の足を止めさせてしまった。
「自分でも、どうしようもないのです。得体の知れない恐怖で、身体が竦んでこれ以上一歩も前に進めぬのです」
泣きじゃくるハードの肩を、ユリウスが優しく叩いた。
「進めぬのならば、戻ればよい。真っ直ぐに太陽の光の差すところまで戻れ。そうすれば、貴公の心に元の勇敢さが戻ってこよう」
六人の騎士は、魔王を目指して去った。
その後、一人でとぼとぼとどうやって道を戻ったのか、ハードはあまり覚えていない。
瘴気の外で待機していた兵たちと合流した後も、何を訊かれ何を話したのか、その当時の自分の記憶は曖昧模糊としている。
ただ、はっきりと覚えていることがある。
不意に瘴気が晴れ、人々は騎士達が魔王を討ったことを知った。
ハードは、兵たちとともに彼らの救助に駆けつけた。
荒れ果てたトリーシャの街で見た、六人の騎士の姿。
三人は死に、三人は生き残っていた。
「おう、ハード。貴公も来てくれたか」
座り込んでいたユリウスが、そう言って右手を上げた。
「魔王は討ったぞ」
晴れ晴れとした顔だった。
他の生き残った二人、ロイドとゴーシュも、澄んだ笑顔をしていた。
死んだアーガとラザ、テンバーは、いずれもその傷のひどさに似合わぬ穏やかな顔で眠っていた。
全員が、騎士としての本分を全うした誇らしさに包まれているように見えた。
その光景を見たとき、ハードは、自分はこれから一生今日のこの光景に縛られるのだろう、と思った。
死ぬまで、自分は決してこの光景を忘れることはないだろう、と。
足が震えるほどの悔恨に、ハードは襲われていた。
自分もこの場にいるべきだった。
何があっても、齧りついてでも、魔王のもとに辿り着くべきだった。
生き残るにせよ、死ぬにせよ、自分は騎士としてこの場所にいなければならなかった。
任務を果たせず帰ったハードを、王は温かく迎え入れた。
ほかの騎士達も、優しかった。
だが、周囲のその気遣いがかえってハードを追い詰めた。
むしろハードは、詰ってほしかった。
臆病者が、魔王の元にすら辿りつけずにおめおめと逃げ帰ってきおって。
何たる腰抜け、何たる卑怯者。
よくもまだ生きていられるものだ。お前さえ逃げ帰ってこなければ、死んだアーガやラザ、テンバーのうち誰かは生き残ることができたであろうに。
なぜ、勇敢な彼らの代わりにお前が死ななかったのか。
なぜ死ねなかった。なぜお前はまだ生きている。ハード。
お前は何のために騎士になった。それでもお前は騎士なのか。
実際には、誰一人としてハードにそんな言葉を投げかける人間はいなかった。
ただハードだけが、ハード自身を責め続けた。
おそらく、ハードという騎士は死んだのだ。
明るく、若さと自信に満ち溢れた、あの日までのハードは。
今この世に留まっているのは、あの日新たに生まれた別の何かだ。
魔人に受けた屈辱は、魔人を討つことで雪ぐ。
それは騎士にとっては不文律とも言える当然のことであった。
だが、ハードにはそれすら許されなかった。
それは、魔王が討たれたからだ。
魔人は、姿を消した。
ナーセリと隣国シエラに同時に現れた二体の魔王が相次いで討たれたことにより、他国に比べてはるかに魔人の出現する瘴気の沼が発生する頻度の高いこの両国に、十数年ぶりの平和な日々が到来していた。
ナーセリの国民たちは、魔人に怯えることのない生活を謳歌し、騎士達も魔人との死闘に忙殺されることなく、来たる武術大会に向けて互いの技を磨いていた。
穏やかに流れていく日々。
ひとり、ハードだけが地獄の中にいた。
民を苦しめる魔人の出現を熱望するなど、騎士としてはあってはならないことだ。
だがハードはそれを求めていた。
今すぐにこの剣を、この無念を、ぶつけることのできる相手を。
その怨念に似た渇望は、たとえ相手が第一の騎士ユリウスであろうと隻眼の騎士リランであろうと、同じ騎士同士では解消できるものではなかった。
そして、ハードは国を出る決心をした。
ナーセリとシエラほどの頻度ではないが、他の国にもごくまれに魔人が出ることは知られていた。
そういうとき、ナーセリに騎士の派遣を乞う使者が来ることがある。
魔人との戦いは、普通の人間同士の戦いとはまるで違う。
それに慣れたナーセリやシエラの騎士は、やはり他の国の騎士とは別格だった。
魔王が滅び、あと数年は魔人の出現が期待できないこの国にいるよりは、自ら魔人を求めて歩こう、とハードは考えたのだった。
屈辱に苛まれる騎士の願いを、同じくかつては魔人を討つ騎士でもあった王は聞き届けた。
出立の朝。
王都の門まで見送りに来てくれたのは騎士ユリウスと騎士リランの二人だった。
「どうしても行かねばならんか」
ユリウスはまだその口調に無念さを滲ませていた。
第一の騎士として、後輩の気持ちを汲み取ることができなかった自責の念に駆られているようであった。
「王には、いずれ私の力が必要になる日が来るとおっしゃっていただきました」
ハードは答えた。
「ありがたきお言葉にございます。そのような日が本当に来るのならば、それまでに必ずやこの心の中の悪鬼を滅ぼして帰ってまいります」
「本当に来るならば、などと卑下する必要はない」
ユリウスは言った。
「貴公の力は、この国の誰もが認めている」
「はい」
ハードは微笑んだ。
「ですが私自身が認めておりません」
柔らかい笑顔だったが、その奥には決して揺らぐことのない狂気にも似た執念が潜んでいた。
それを見てとったユリウスは、深い溜息を吐いた。
「先輩騎士として、言わせてもらおう」
ユリウスはハードを真っ直ぐに見た。
「貴公の武運を祈っている。いいか、何があっても必ず戻ってくるのだ。いつであろうと、どんな姿であろうと、我らは必ず貴公を仲間として再び迎え入れるだろう。忘れるな。貴公の剣は、ナーセリの王と民のために欠かすことのできぬものなのだ」
生まれながらの騎士とまで言われるユリウスらしい、率直な餞別の言葉だった。
「ありがとうございます」
ハードは、二人の魔王を討ったこの半ば伝説に近い騎士の心遣いに感謝した。
「ハード」
もう一人の騎士リランは、もう少しひねくれた男だった。
魔人との戦いによって片方だけになってしまった目を細めて、ぶっきらぼうな口調で言う。
「“詩人”との戦いに、俺は貴公と違って王に呼ばれもしなかった。行かせてくれと名乗り上げもしなかった」
「それは」
負傷のために一度は騎士を引退したからでしょう、とハードは言いかけたが、リランは、ふん、と鼻を鳴らした。
「だから俺など、貴公よりもよほど恥じ入らねばならん立場だ。死闘になると分かっていながら、黙って領地で成り行きを見守っていたのだからな」
「リラン。それは違う」
ユリウスが顔をしかめて口を挟んだが、リランは気にすることなく続ける。
「それでも俺は今こうして、のうのうと後進の指導なんぞに当たっている。若い連中に、騎士たる者は、などと講釈を垂れている。俺と貴公との差は何だ。俺はそんなもの、図々しさがあるかないかだけだと思っている」
ハードは首を振ったが、リランは、だが、と続けた。
「貴公の気持ちも分かる。俺も貴公くらい若ければ、同じことを考えたかもしれぬ。だから行くなとは言わん。その代わり、必ず帰ってこい。そこはユリウスと同じ気持ちだ」
リランはふてぶてしい笑顔を見せた。
「帰ってこなかったら、騎士ハードはよその国で女を作って、とうとう国の危機にも帰らずじまいであった、とそう言い触らすぞ。それが嫌ならば、必ず帰ってくることだ」
リランらしい言い草だった。
「ありがとうございます」
ハードは二人の騎士に感謝を込めて、首を垂れると、それから自分の馬に跨った。
「それでは、行ってまいります」
「気を付けてな」
「思う存分やってこい」
二人の騎士が見守る中、ハードは王都の門をくぐり、茫漠とした平原の彼方へと姿を消した。