彼方より君に捧ぐ5
現場に出ているときのほうが気が楽だ。現場にいる時は現場にいる時で大変だけど、やはり体を動かさないと力が漲ってこない。体を動かした後の事務仕事なんて気が重いの極みである。全部明日に回してしまいたいという願望はあえなく善華の几帳面さによって潰えるのだった。
「ふぃー、今日も疲れましたね!」
「いつも元気そうで羨ましいわ」
私のデスクの対面にいる二人は対極の表情を見せた。やっと帰ることができるとウキウキ顔の奏芽と、浮かない顔の善華。
やっぱりいつもの善華じゃない。
「私はもう少し仕事してくから二人は先に帰っていいよ」
現場じゃ二人にお世話になりっぱなしだから、報告書ぐらい私がやらないとね。
善華と奏芽じゃないと書けないところ以外は全て私がやってる。骨が折れるし、本当に必要なのかと思うこともある。先生があんな感じだし。だけど、任された手前しっかりやらないと。
「やったー!お疲れ様でした!」
「……私も少し残っていく」
「えっ! どうしたんですか? いつもはさっさと帰るのに」
「私の勝手よ。犬さんは早く小屋に戻って水をぺろぺろしてればいいわ」
「ひど! ぺろぺろはしませんよ!」
「小屋の部分から否定しよ?」
二人のやり取りに苦笑いを浮かべる。
奏芽の言う通り、善華が残業したことなど一度もない。記憶を司る異能ゆえに事件を翌日にまで持ち越したことはほとんどないのだ。彼女が私生活を不規則にしたのは囮捜査で違法カジノを仕切ってる組織に潜入した時ぐらいだ。思えば、それが善華と私の最初の出会いだった。
「それじゃ、お疲れ様でした!」
礼儀正しく挨拶をして退出する奏芽はまさに理想の後輩だ。あれだけ善華にいじられてるのにへこたれないのだから、根性も相当なものだ。
さて、後輩自慢は置いといて、今は善華のことを考えないといけない。
「今日はどうしたの? あの部屋にいってからずっと様子がおかしいけど」
「私としたことが沙緒里に気づかれちゃうぐらい動揺してしまったようね」
「なにそれ? 私に気づかれたら悪いの?」
「いいえ……むしろ踏ん切りがついた。どうせ話さなきゃいけないことだったし。破滅の魔女を殺せるのは、沙緒里以外に考えられないから」
よく分からないワードが善華の口から飛び出してきた。
破滅の魔女?
私はそれがなんなのかを……知っている。それが途轍もなく恐ろしいものであることを知っている。
でも、なぜ?
そのワードを耳にした途端、様々な感情が湧き上がり、そしてあっけなく静まっていく。まるで波紋を描く水辺のように穏やかに、ゆっくりと痕跡がなくなってしまう。
「沙緒里、私の手を握って。世界は今、眠りについていて、みんな醒めない夢の中にいる。私はそれでもいいと思った。たとえ仮初めでも、沙緒里が幸せでいられるなら。それがこの夢を作り上げた人の本望だから。けど、夢はいずれ醒めるものだと今日思い知らされた。破滅の魔女はこの眠りについた世界で、また殺戮を繰り返そうとしてる」
善華は絶対に自分から人に触れようとはしない。触れただけで他人の秘密を裸にし、望まずとも辱めてしまうからだ。異能そのものが他者に対する冒涜なんだ。
制御できても他人じゃそうは捉えられない。恐怖といわれなき非難に晒されながら善華は一生を過ごさなければならない。
私は善華に信頼を寄せている。だけど、その手を握ることを躊躇した。記憶を見られるのが怖いんじゃない。私の知らない私がその手を通して向こう側にある。紛れも無い自分自身が。そこにいるのは風紀委員としての私じゃない。
「ただでさえ技術の発展で多様性を増す犯罪は、異能によりさらなる複雑さを帯びてる。この学園はいわば社会の縮図。ここでの犯罪はペナルティはあれど合法で、風紀委員の活躍はレポートに仕上げることにより多大な社会貢献に繋がってる。私はそうすることが私の価値だと信じて、風紀委員としてこの学園に尽くしてきた。だけど、私にもどうにもならないことが二つあった」
「革命と殺戮……」
不意に私の口からそんな言葉が飛び出してきた。
そんな事実はない……いや、ある。私たちは多くのものを犠牲にした。
犠牲……?
ダメだ。頭が痛い。
思考が真実に向かおうとしてない。虚構へと脳が辻褄を合わせようとしている。
革命、そう革命があった。私たち異能者は恐れられ、それゆえに虐げられてきた。迫害の歴史を正すために立ち上がった者がいた。
その人は私たちの敵だった。
学園を分断するほどの大規模な争いが起こった。普通の人間を排除する側と擁護する側との争い。彼の言葉はとても魅力的だった。もしも出会い方が違っていたら、私も彼の側についていたかもしれない。
彼の名前は……彼の顔は……だめだ。認識が阻害される。全てが忘却の彼方へと追いやられていく。この感覚を私は以前から知ってる。
そうだ。私はこの異能を知っている!
「沙緒里、これは必要なことなの。私の意思ではなく、沙緒里自身の意思で決めなくちゃならない。だって、沙緒里の力は私の異能を遥かに上回ってるから。本気を出せばほんの僅かな思考すらも読み取らせてもらえない。この学園で最強の異能」
「……そんなわけないよ。私の異能は空気を操る異能。戦うだけが取り柄の力で善華の異能に対抗する術なんて持ち合わせてない」
「それは、そう認識させられているだけ。沙緒里が大事にしていたあの人にそう仕向けられてる……」
「今だって大事だよ! ずっと……これからも……」
急に怒りが湧き出して大声を上げる。
私は何に怒ったの? あの人って?
一段と激しい頭痛に見舞われる。あの人のことを思い出そうとしても、輪郭がぼやけて遠ざかっていく。ただただ、その男の子が私にとって自分の命よりも大事だということだけが胸の中に広がっていく。
胸が締め付けられるようだ。
「認識を司る異能。世界は今、彼の異能によって眠りについてる。異能が虐げられる歴史と偏見に誰も触れることが出来ない禁忌の世界。でっちあげられた安息。沙緒里を守るために作られた偽りの真実」
「私を……守る……?」
私は彼に守ってほしくなんてなかった。だって、私はその男の子を守るために存在していたから。彼に人生を全て捧げるつもりだった。
自然と目から涙が溢れでる。とめようと思ってもとめられない。
「でも、それも終わりにしないと。破滅の魔女が復活した。きっと彼女はまた学園を恐怖に染める。それを止めるために沙緒里の力が必要なの。だけど、沙緒里が目覚めてしまえば、この世界にかけられた魔法も跡形もなく消えてしまうわ。世界は現実を取り戻してしまう。それでも、阻止しなければならない。この学園で起きた悲劇を繰り返させないために」
「……善華が言うなら、それは事実なんだろうね」
でも、私は躊躇している。
たくさんの人が死ぬ。善華を信じているからだけじゃない。本能的に理解している。なぜ理解しているのかは、まるで真ん中だけをくり抜かれたようにすっぽり抜けている。確かに言えることは、私がそれを認識できないだけで、すでに経験しているということだ。
善華に触れれば、私は現実に引き戻される。革命が起こった世界に、殺戮が行われた世界に……いや、なかったことにされてるだけだ。過去にすでに起こってしまっているのだ。
私は善華の手に触れなければならない。
それが大勢を救うことになる。そう、確信すらしている。だけど、震えがとまらない。怯えてる。真実を知るのを恐れてる。
善華の前に立つ。差し出された手を凝視する。
「沙緒里……どんなことがあっても、私は沙緒里とともにいる。必ず守るわ。それが私の責任であり、心からの気持ち」
その言葉が私を後押ししてくれた。意を決して、私は善華の手を握った。