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激流荘の暴虐貴公子

作者: 黒森 冬炎

 第三次人獣大戦が収束してはや100年。平和記念式典が各地で行われている。一方で境界地区の各都市では、年々きな臭い噂も増えていった。書面上の平和で対立が無くなるわけではないのだ。


 ここオジナブは、そうした境界都市のひとつである。険しい岩山の連なるデモナ山脈の山懐(やまふところ)に抱かれた、激流の谷間に位置する町だ。人間族の住処としては些か異質といえよう。しかも村ではなく、一歩足を踏み入れれば誰もがその繁栄ぶりに度肝を抜かれるような大都市なのである。



 都市の奥まったところに建物がある。魔法科学技術の(すい)を極めた邸宅には、この地を治める一家が暮らしている。こんなところに配属されるのだから、家長は当然国境防衛に特化した人物だ。南部辺境伯レナルド・"鉄壁"・フリードリヒ・グロッケンナハト。文字通り防御に全振りした男である。


 彼の邸宅はヴィラ・シュトルツバッハ、即ち激流荘という呼び名があった。激流荘は、オジナブ渓谷を流れる「還らずの川」ダブが大きくうねった場所に建つ。ひとたび漕ぎ出したら生きては還れないほどの激流と言う意味だ。背後には大瀑布ヴァサヴァントが遥か崖上から流れ落ちてくる。


 激流荘の呼び名が付けられたのは、それだけが理由ではなかった。



「はーっ、こりゃあ絶景!」


 今この都市にやって来た小汚い旅人が、感嘆のあまり言葉を漏らす。


「話には聞いてたけど、ほんとに激流が邸宅を包んでいるよ」


 男か女かも分からないフード付きマントは、ボロボロになって元の色が推察できないほど汚れている。穴の空いた革のブーツには、魔法のひとつもかかっていない。一応は手袋もしていたが、こちらも穴だらけ。


 声は女性か少年か。細くて澄んだよく伸びる声だった。


「さて、行くか」


 目の前に流れる魔法の水は、邸宅を丸ごと覆うドームを形成している。激しい流れの間に間に、時折ちらりと建物が覗く。その隙間を狙って、旅人は手刀を放った。



 手袋の穴から飛び出している右手人差し指の付け根には、文字を彫りつけた指輪があった。ボンレス(ちょう)の真っ赤な羽毛をシュピレン蜂の蜜蝋で固めた、赤指輪(ローテン)と呼ばれる魔法の道具、即ち魔道具だ。


 指輪には短い呪文を彫りつけて、口で詠唱するよりも短時間で発動できるようにしておくのだ。その文字に魔力を込めることで、彫ってある呪文を唱えたことになる。


 彫りには、魔力に満ちた山奥に棲むシュピレン蜂の針を使う。繊細な作業故に専門の職人がいる。しかし、独自呪文は自分で彫りつける魔法使いが多かった。


「あれ、失敗した」


 指輪をはめた手は、邸宅を馳せ巡る激流に呑まれそうになった。旅人は慌てて手を引っ込める。


「あっぶなっ」


 旅人はため息をついて、面倒くさそうにマントの内側を探る。



 そこへ、大量の水と共に割れ鐘のような声が降って来た。


「何者だッ!」


 一部の隙もなく身なりを整えた魔法使いが、深緑色のマントを翻して落ちてくる。


「へっ?」


 緑マントの男の(あし)が唸る。魔法素材屈指の硬度を誇るアダマンタイトの長靴(ちょうか)を履いた、長い脚だ。コチコチの鉱物に複雑な呪文を刻みつけ、しなやかな革製品のように履きこなしていた。


「ちょっと!防衛特化じゃなかったの?」


 咄嗟に頭を腕で庇って、旅人は抗議した。


「攻撃は最大の防御、ってなあ!」


 緑マントは旅人の繰り出した防壁を避けて着地した。凶暴な目付きの大柄な男である。激流のカーテンを破って飛び出して来たが、微塵も水に濡れてはいない。



「あの、自分、こういう者であります」


 旅人はビクビクしながら薄い板を差し出した。薄紫で半透明な板である。大きさは幼児の掌に収まる程度だ。


「んん?なんだ?辞令か?」

「はい」


 旅人は掌に板を乗せたまま、背筋を伸ばした。


「ちっ、辞令通達書があるなら、なんで強行突破しようとしたんだ」


 緑マントは、深い眼窩(がんか)の底で琥珀色の瞳を光らせる。突出した厳つい鼻も手伝って、旅人はまるでドラゴンに睨まれた心地がした。


「あ、あのっ、面倒臭くて」

「何?」


 ぴっちりと撫で付けた燃えるように赤い剛毛は、ギロリと睨む顔付きに一層凄みを利かせていた。


「ひいいっ、ごめんなさい!」

「ふん、身の程を知れ」

「はい!」


 威圧感に押し潰されそうになりながら、旅人は精一杯の大声で答えた。



「ほら」

「え?」


 緑マントは旅人の手に大きな親指をかざす。旅人の手袋の穴から覗く皮膚には、魔法焼けと言われる青黒い爛れが薄らと出来ていたのだ。男の真っ黒い手袋には、指毎に異なる呪文が刻まれていた。その手袋は、鑑定阻害魔法がかけられていて素材は分からない。


「あっ、ありがとうございます。気が付かなかった」

「貴官が着任後先ずする事が決まったな」

「えっ、何でありますか」

「魔法障害認知訓練だ。ここでそんな程度の認知能力では、命が幾つあっても足りないぞ。気づいた時には魔法障害に全身食い尽くされて、人生からオサラバだ」

「はっ、面目ない」


 マント男はニッと笑った。旅人のフードからはみ出した顔半分に、ほんのりと薄紅が差す。



 ダブ川の向こう岸には切り立つ岩壁が見える。そのごつごつとした岩肌が、突然音を立てて割れ始めた。


「あっ!」


 旅人はボロボロの手袋をした手を岩壁に向ける。


「馬鹿!道具じゃ足りん!手だけじゃなくて口を動かせ!」


 赤毛の太眉を吊り上げて、マントの男は地面を蹴った。


「わっ!どこへ」


 男はそれに答えず、岩の裂け目に飛び蹴りを放つ。


「さっさと閉じやがれ!シュリース(とじろ)!」

「あああ、越境」


 ベルタは構築した防壁の強化も忘れて青くなる。


「退去せよ!」


 岩の割れ目から怒号が飛んだ。


「へっ、言われなくとも!」


 マントの男は跳びすさる。声の後から銀色のオオカミが突進してきた。オオカミの背後でバリバリという轟音と共に岩の裂け目が閉じる。


「待て!」

「退去せよじゃあねぇのかよ!」


 赤毛の男は髪の毛一筋乱れずに、ふわりとこちら岸に降り立った。


「だいたい、いきなり侵攻しようとしたのはそっちだろうが!」

「黙れ!人間!」


 オオカミは向こう岸に着地して、肩越しに岩壁を見上げた。


「ええ、腹立ちや、口惜しや、一頭も続かなんだか」

「お前もさっさと巣穴へ戻れ」

「ぐぬぬ、小癪な。(われ)一頭ではどうにもならぬ!ええい、覚えておれよ!」


 オオカミは悔しそうに叫ぶと、素早く岩壁を登って行った。


「二度とくんなオオカミ野郎」

「ひええ、民族間問題」


 吐き捨てる男に、旅人はおろおろと視線を送る。


「なーに、これしきの小競り合い、問題にもなりゃしまい」

「本当ですかぁぁ」


 旅人の声は震えている。


「戦争、始まりませんかぁぁ」

「フン!始まらないだろ」

「ええぇ」




 マントの男は大して乱れてもいない髪を両手で整えた。


「あと敬語はよせ。貴官は詠唱技官だろう」

「左様ではありますが」

「詠唱技術部は位階に組み込まれない独立部署だからな」

「しかし、その、貴殿はグロッケンナハト辺境伯家の紋章を付けておられ」


 旅人の言い分を、マントの男は遮った。


「フン、激流の辺境じゃあこんなもん、死体の識別ぐらいにしか役にたたんよ」

「しかし」

「それに貴官、敬語のわりには防壁壊して押し入ろうとするし、フードも外さないじゃないか」

「うっ、あっ、申し訳っ」


 旅人はハッとしてフードを背中に投げる。フードの下からは、モジャモジャとうねる銀色の髪が現れた。あたふたと髪の乱れを整えている顔には、煌めく薄墨色の瞳があった。


「なに、気にするな」


 男は無頓着に片手を挙げると、くるりと旅人に背を向けた。


「そうそう、俺はリゴベルト・ハインリヒ・グロッケンナハトだ。鉄壁の三男坊だよ」

「あっ、自分、詠唱技術特等技官ベルタ・カッツェンガッセであります!」

「うん。さっき辞令で見たよ。まあ、楽にせよ。軍隊式はどうにも好かん」

「えぇぇ」


 旅人ベルタは、この階級も所属も名乗らない粗暴な男の背中を細目で眺めた。身なりだけは完璧な貴公子なのに。


(残念イケメンの一種か)


 ベルタは形はいいが荒れに荒れた唇をフッと弛めた。



 リゴベルト・ハインリヒは気にするふうもなく、さっと腕を横に振る。すると激流の一部が金色に光った。


「入れ。心より(ヘルツリッヒ)歓迎しよう(ヴィルコメン)、ベルタ。ようこそ激流荘へ」

「はいっ、よろしくお願い致します!」


 ベルタは改めて顔を引き締める。


「ああそうそう、先ずやること、もう一つあるな」

「はっ、何でありましょうか!」

「いやだから、それやめようぜ」


 振り向き様にいきなり砕けた。見かけ倒しの貴公子にベルタは口をへの字に曲げた。


「ベルタ、風呂入れ。みんなに挨拶する前にな。必ずだぞ」

「ああ、臭いますよね」

「着替えはあるか?」

「はい、亜空間収納に入ってます」


 ベルタの返答に、リゴベルト・ハインリヒは盛大に顔を顰めた。



「そんなごたいそうなもん持ってやがんなら、なんで着替えねぇんだよ」

「え、だって、メンドks」


 ベルタはごにょごにょと呟く。


「あ?」

「いえ、ごめんなさい、であります」

「ありますいらねぇ!」

「はっ!」

「ああもういいから!さっさと風呂入って着替えてこい!」

「はっ!」


 ベルタはバネじかけのように跳び上がると、一目散にかけてゆく。


「うーん、瞬時に建物内部を把握して場所も聞かずに風呂場に向かう力があんのに、なんで防壁ごとき突破出来なかったんだ?あいつ。間抜けな奴だなあ」


 リゴベルト・ハインリヒは愉快そうに忍び笑いを漏らした。



「てかあいつ、女だよな?けっこう可愛い顔してやがったけど、詠唱技官は変人だらけってなぁ、本当だったらしいな」


 リゴベルト・ハインリヒが防壁を離れて広大な敷地を歩き出すと、山葵色のマントを着た青年が虚空からぬっと現れた。


「おい、なににやけてんだ、リギー」

「ん?ニックか。なんだ?」


 ニックは、無造作に束ねた藁色の髪を呆れたように振る。くすんだ緑色の瞳は半眼になっていた。


「何だじゃねぇよ。鉄壁殿がお呼びだぜ」

「親父が?」

「すっとぼけてんじゃねぇぞ?」


 細身の身体から出る割には低めの声で、ニックはリゴベルト・ハインリヒを諌める。


「戦争の火種にでもなったらどうすんだよ。国境越えるとか、もう」

「ちっ、ウルセェな。はあ、行くか」

「おう、さっさと行け」


 言い置いて、ニックはぬるりと虚空に消えた。


「はぁ」


 リゴベルト・ハインリヒは大きなため息を残して、大股にその場から立ち去った。



 その晩、激流荘はご馳走に浮かれて沸き立った。


「うおおお、肉だ!」

「あー、旨い!こんなに沢山の野菜はいつぶりだろう!」

「あの、みなさん普段は何を召し上がっておられるんですか」


 邸宅に駐屯している国境警備隊の面々が、目をぎらつかせて次々と大皿料理に襲いかかる。ベルタは若干引き気味で尋ねてみた。


「んぁ?魚かな!」

「んん、魚だな!」

「あと塩漬けの魚」

「それと魚の干物」

「そうだな、魚だ」

「魚だけ」


 ベルタは固まった。人間界きっての観光都市、オジナブ渓谷の宝石とまで謳われる都市。それがここ、オジナブである。国境に接する辺境都市であるがために、手放しで遊んでもいられない。最新魔法技術を駆使した建物に精鋭の防衛部隊が駐屯しているのは理解できる。だが。


「ご馳走なんか何でもあるんでしょう?こんなに賑わってる観光都市なんだから」

「いや、ないね」

「ないかな」

「ないよな」

「魚はある」

「うん。魚ならあるよ」

「冗談ですよね?」

「いや、大真面目だ」


 隣に陣取ったリゴベルト・ハインリヒが疑問に答えた。


「町の連中や観光客の分は確保してんだが、なんせこんな山奥だろ。魚以外は外部頼みでよ。輸送コストも馬鹿んなんねえし、山奥価格でそりゃもう、どえれぇ高ぇのよ。国境警備隊の活動費は食費を含めて国庫から出ていて、勝手に増やしちゃいけねぇし」



 ぼやくように説明する息子を、鉄壁辺境伯は厳しい顔付きで見つめていた。赤毛に白いものが目立ち始めた、恰幅の良い初老の男だ。もごもごしていた食べ物を飲み込むと、一口酒を飲む。そして、徐に口を開いた。


「リゴベルト・ハインリヒ・グロッケンナハト山岳魔法中将」

「何だよ、親父。おっかねぇ顔して」

「お前はまた、乱暴な言葉を使いおって」

「硬ぇこと言いなさんなよ」

「なんだ、親に向かって」


 低音で叱りつける父親を、目の色以外はリゴベルト・ハインリヒとそっくりな若者が宥めにかかる。


「父上だって、警備隊の新入隊員歓迎会なのに、リギーに()って仰ってますよ」


 顔立ちはリゴベルト・ハインリヒと瓜二つなのに、とても温和な貴公子である。目の色が柔らかな濃緑だというだけではないだろう。性格は正反対のようだ。


「それはそうだが、カール」

「お父様、そもそも警備隊は軍隊でも上品な職場でもございませんのよ。規律も気品もなければないで、宜しいのではなくて?」


 今度はツンと澄ました赤毛の女性だ。するりとまっすぐな髪で、瞳は三男坊と同じ琥珀色。細面なので父親や兄弟とは似ていない。


「そうは言ってもなあ、エメライン」

「兄上、姉上、私は父上に賛成です。わがグロッケンナハト辺境伯家は、国境を守る大切なお役目の傍らで、観光都市の繁栄と安全を維持して行かなければなりません。品位は保つのが望ましく思われます」

「だろう?流石はオジナブ観光長官トーマスだ」

「お褒めに預かり光栄にございます」


 トーマスは澄ました顔で父親に答えた。この人も父親や兄弟とよく似ている。瞳は父や兄弟と同じ緑系統で、色味は全体的に少し薄い。顔の作りが同じでも、性格によってずいぶんと雰囲気が変わるものだな、とベルタは思った。


(あと赤毛遺伝子つよい)



「やめやめ!せっかくの大盤振舞いだってのによ!」

「またお前は」

「いいだろ親父。無礼講、無礼講」


 ガハハと笑って、リゴベルト・ハインリヒは盃を空けた。口の端から少し溢れた赤い酒が、一筋顎から首へと落ちてゆく。ベルタは急に恐ろしくなった。


「さっき、家紋は死体の識別ぐらいにしか役に立たないって仰ってらしたけど」


 ベルタは問いかけるような、そうでもないような曖昧な口調で言った。リゴベルト・ハインリヒは横目でジロリとベルタを見下ろした。


「んん?独り言か?それとも質問か?」


 口を拭って金属のコップを置くと、彼はベルタの目を見据えて聞いてきた。


「あ、質問、です」

「ですはやめとけって!」

「リギー!」


 鉄壁辺境伯が乱暴な口調を嗜める。


「いや敬語とかより、そんなこと言ったの、リギー?今日来たばかりの若いお嬢さんに?」


 ニックがテーブルの向こうから、うんざりした声をだす。


「そんなんだから、激流荘の暴虐貴公子なんて言われちまうんだよ」

「黙ってるよりいいだろ、ニック。危険地帯なんだ。ちゃんと警戒しとかないと、すぐに命を失うぞ」

「まさかそこまでとは」


 ベルタは色を失いガタガタと震え出す。


「ほらぁ。怖がってるだろ?」

「でも、観光都市なんですよね?私も都市を通って参りましたが、みな楽しそうな様子で賑やかでした」

「そりゃ警備隊が頑張ってるからな」


 ベルタは不安そうに俯く。


「一歩間違えば、平和な旅行者たちも、あのオオカミのような暴力的な輩に襲われてしまうのでしょうか?」

「そうなんだって言ってんだろ。平和条約なんて紙っ切れだぜ。不満持ってる奴等が、お互い領土を広げようと狙ってんのさ」

「都市では獣人の方々も楽しそうに過ごしてらっしゃいましたが」


 ベルタはぐっと唇を噛む。


「そりゃまあ、平和条約結んで100年もたちゃあなぁ。対立も根強いっちゃ根強いけど、互いの文化に興味を持つ連中だって増えてもくるわな」


 ニックが豆を突きながら言った。


「友好的な獣人の方々は、好戦的な獣人から迫害されませんか?」

「それは人間だって同じだな」


 リゴベルト・ハインリヒはさらりと答えた。


「じゃあ、どうすればいいんでしょう?何に対して誰を守れば良いのでしょうか?」


 ベルタは食事の手が完全に止まってしまった。


「そりゃベルタ、俺たちの仕事は不法入国と侵攻の阻止だろうがよ」


 リゴベルト・ハインリヒは、質問の意図を捉えかねて眼を(しばたた)いた。それから、大きく切り取った分厚い肉に齧り付く。



「実際には死と隣り合わせなら、これだけの都市と観光客を、守り切れるのでしょうか」

「その為の応援要請だろ?ベルタは、辺境で使ってる防衛魔法の呪文を改良するために派遣されたんだろ?」

「そうですけど」

「だろ?正直、越境行為の防止にはそろそろ新しい視点が必要だったんだよ」

「それが、その新しい視点が、私」


 ベルタは意外そうにリゴベルト・ハインリヒの琥珀色に輝く双眸を見た。


「そうだ」

「私、か、ふふっ」

「頼りにしてるぞ」


 リゴベルト・ハインリヒが力強く頷き、ベルタの肩を叩いた。テーブル全体から歓声が上がる。誰からともなく杯を掲げた。


「詠唱技官ベルタ殿!ようこそ!」

「ようこそ!」

「ようこそ!」

「わああああ!」




 食事が済むと皆は思い思いに席を立つ。夜間訓練に赴く者、パトロール当番に出かける者、静かに部屋へと戻る者。ベルタは見学がてらぶらぶらと建物内部を歩き回る。立ち入りを禁止された場所は特にない。


「ふうん、内部にも呪文が彫ってあるのかぁ。やられたわぁ」


 窓や床、柱や敷居のあちこちに、防壁や攻撃反射の呪文が刻み込まれている。激流のドームから読み取っただけでは、一部を破壊して侵入することは不可能だったのだ。


「どうだ、ウチの防衛システムは?」


 キラーンと音がしそうなドヤ顔をキメて、リゴベルト・ハインリヒが話しかけてきた。


「あ、中将殿」

「リギーでいいって。みんなそう呼ぶ」

「左様で」

「そんで、どうなんだよ?ウチの防衛」

「単純な彫りつけですけど効果的な配置で、最小限の魔力供給で自動発動を維持している点が素晴らしいです。しかもオジナブ全域で瞬時に防壁を展開する、緊急展開システムまで連動されているなんて。先程のお食事では、魔法使いばかり20名程度といった所ですが、その人数でこの規模の防衛システムを常時稼働させているとは驚きです」


 リギーは突然の熱量に驚いた。


「お、おう。イキイキしてんな」

「まだ全てを見て回ったわけではないので何とも言えませんが、改善できるとすれば、まずは魔力供給の回数と経路ですね。そして、もしお許しをいただけましたらば、すこし彫りを加えまして、それぞれの呪文に適した字体や深さに変更したいところですね。それだけでも、立ち上がりに消費される魔力量をぐっと抑えることが出来ます」

「それは改めて報告書をまとめてくれ」


 リゴベルト・ハインリヒは仕事モードになって指示を出す。


「はい」


 ベルタはまだ何か話したそうだったが、リギーは片手をあげて押し留めた。


「今は休んでおけ。あんなにボロくなるような旅してきたんだろ?」

「あ、いや、それは」


 諸々面倒臭かったので怠けていただけである。


「とにかく明日だ」

「分りました」



 ペコリと頭を下げてベルタは自室に戻る。その小さな背中を見送りながら、リゴベルト・ハインリヒはどこか浮き立つような気持ちになった。


「あいつ、一生懸命説明して、可愛いかったな」


 思わず漏れた言葉に、リゴベルト・ハインリヒははっと口をつぐむ。急いで辺りを見回すが誰もいない。ほっと胸を撫で下ろす。それからそそくさと修練場へと向かう。


 ベルタと話していた2階の廻廊から幅広の階段を降りてゆく。踊り場に差し掛かった時、突然壁に彫られた呪文が黄緑色と青の点滅を始めた。


「あんのっ、オオカミ野郎!」


 リゴベルト・ハインリヒは今降りてきた階段を駆け上り、ベルタが去った方へと走る。


「ベルタ!」


 もじゃもじゃとした銀色の髪も見えない先から、リゴベルト・ハインリヒは大音声に呼ばわった。


「ベルタ!(わり)い!補修道具持ってついてきてくれ!」


 既に2階の自室に入っていたベルタは、何処からともなく聞こえてきたリゴベルト・ハインリヒの叫び声にギョッとした。


「うわっ!何事?」


 持ち物は全て亜空間収納に放り込んである。ベルタは身ひとつで部屋から駆け出した。角を曲がると、階段の方から赤毛の貴公子が足音高く走ってくる。


「リギー中将殿!何があったんです?」

「パトロール当番からの緊急連絡だ!ベルタが到着した時にオオカミ野郎が出てきた岩壁の近くからだ」

「えっ、もう戻ってきたんですか」

「詳しくはまだわからん。だが最悪の事態に備えるぞ!」


 銀色のオオカミは捨て台詞を残して行ったので、いずれ群れを率いて出直してくるだろうとは思っていた。だがまさか、半日もしないうちに襲撃を仕掛けてくるとは予想出来なかった。



 ベルタは亜空間収納から短い布を取り出した。かなり前を走るリゴベルト・ハインリヒが、それを目の端で捉えた。ふたりは怒鳴りあうように会話する。


「それは?」

「韋駄天の呪文が縫い付けてあります」

「彫らなくてもいいのか?」


 中将は目を見張る。尊敬と憧れ、そしてほんの少しの柔らかさが、琥珀色の瞳に目まぐるしく浮かんでは消えた。


「ええ。効果は弱いですが、短時間発動する程度なら充分な補助器具になります」


 ベルタは素早くボロ靴に紐を巻く。両足に巻きつけると、一気に距離を詰めてリゴベルト・ハインリヒの隣に並んだ。


「素晴らしい!」


 リギー中将は感嘆の声をあげた。初めて見る補助器具に目を奪われて、ベルタの靴が来た時のままボロボロなのには気が付かなかった。



 ベルタは不安を押し殺して走る。彼女は前線に出たことがない。これまでは詠唱技術研究部の工房で、日がな一日呪文を彫っていただけだ。技術力を買われスカウトされての入隊である。それなりに出世はしたが、武芸の心得がないので、前線の責任者経験が必須な管理職にはなれない。


 なれなくて良いと思っていた。平和がいちばんである。


(オオカミ、たくさん来たのかな。怖いな)


 まさか自分が国境防衛の戦場に駆り出されるとは思わなかった。辞令を受け取った時には、確かに詠唱技術の助言が任務だと書かれていたのだ。


(助言だけじゃなかったの?助言て、前線でするものなの?断れないのかな)


 今は面倒臭いよりも怖いが大きい。ここに到着した時に見た、言葉を話す銀色のオオカミが目に焼き付いて離れない。真っ赤な歯茎を剥き出して、黄色い牙を見せていた。鼻には何本もの皺が寄り、眼は恐ろしく吊り上がっていた。


 辺境ほどではないが、ベルタの住んでいた首都近郊でも、獣人を見かけることはあった。だがその人たちは、特段凶暴とは思えない。あの銀色オオカミとは全く違う。


(凶悪犯かしら。正式な軍隊や国境警備隊とも思えないし)


 あのオオカミは、無計画で衝動的に見えた。



「リギー!」


 ニックが虚空を分けてやってきた。


「おう!状況は?」


 リゴベルト・ハインリヒは走りながら尋ねた。


「やべぇよ、最悪だぜ」

「必要なことだけ言え!」

「ああ。銀色オオカミの群れだ」

「どこに?」

「大瀑布ヴァサヴァントから降ってきやがる」

「はっ?」


 中将も流石にそれは想定外だった。


「生きてるのか?やつら?」


 ベルタも気になった。



「生きてるよ。ピンピンしてやがる!」

「こっち側に来てんのか?」

「来てる!激流ドームに突っ込んで来やがったんだ。やつら、激流に乗ってドームの表面を泳いでるぜ」


 それを聞いてリゴベルト・ハインリヒの顔が険しくなった。


「パトロール当番はどうしてる?」


 ベルタはハッとリゴベルト・ハインリヒを見上げる。


「無事だ。緊急通報聞いてすぐ行ってきたよ」

「ああ、ありがとう。ニックの移動魔法は本当に便利だな」

「他人を運ぶとけっこう疲れるんだぜ」

「分かってる。しばらく休んでろ」

「はいよ、ありがとさん!それじゃベルタ、気をつけてな!」

「えっ、はいっ」


 ニックが空間をぐにゃりと開いて消える。


「私、どうしても行かないとダメですか?」


 聞けば聞くほど、ベルタは逃げ出したくなる。


「現場で有効な詠唱方法を見極めてくれ」

「はい……」


 ベルタは銀色の眉を寄せて、走るために握った拳にぐっと力を入れた。



 建物の外に並んで飛び出した時、ボロ靴がリゴベルト・ハインリヒの目に留まった。


「おいっ!」


 中将の声は割れ鐘である。ベルタは縮み上がった。


「いやっ、(わり)っ」

「あ、いえ」

「それよりベルタ、その靴で大丈夫なのかよ?」

「これで岩山越えましたから」

「いや、山越えてそれの寿命は終わったんじゃねぇ?」

「大丈夫です」

「お前なぁ、て、なんだありゃ」



 ベルタは中将の目線を追う。激流ドームの一部から、何かがにょきりと突き出している。


「銀色ですね」

「ああ、銀色だ」

「脚みたいですね」

「ああ、脚に見える」


 脚は激流に呑まれて一旦消えた。


「防壁の中で流されてんですかね?」

「ああ、流されてんだろうな」

「オオカミですかね?」

「ああ、オオカミだろうな」


 ベルタとリゴベルト・ハインリヒは足を止めた。


「内側から吹っ飛ばすしかねぇかな」

「この防壁に干渉するには、私、まだ知識がたりません」


 オジナブに刻まれた呪文のうちベルタが見たものは、まだほんの一部分だ。


「ベルタにオジナブ全域図と激流荘の見取図を」


 リゴベルト・ハインリヒが左手の人差し指に向かって喋る。手袋のその指には、通信魔法の短い呪文が刻まれていた。


(改めて見ると、この人全身呪文だらけだ。よく発動する魔法を間違えないなぁ)


 手の指だけでも10種類。両腕、両掌、両手の甲、肘も肩も呪文で埋まり、腕と脚にはそれぞれ数種類の呪文が刻まれている。服だけではなく、腕輪やブローチ、ネックレスなどの装身具にも呪文は彫りつけてある。


 それを瞬時に判断して使い分ける。並大抵の実力では出来ないことである。


(死と隣り合わせの国境警備かぁ)


 ベルタは尊敬と共に何か別の感情が湧き上がるのを感じた。中将の厳つい顔が、眩しく輝いて見える。


(やだ、どうしちゃったんだろ?私)


 ベルタの鼓動は速くなり、息が苦しくなってきた。



 リゴベルト・ハインリヒ中将がベルタの異変に気がついた。


「ん?どうした、怖いか」

「え、いえ、分かりません!」

「よし、じゃあ、まずそのデスマスやめろ」

「え?」


 ベルタはきょとんとして中将の琥珀を見つめる。リゴベルト・ハインリヒは顔を赤らめて目を逸らす。


「いやその、ある程度リラックスしてねぇといざって時に動けねぇからよ」

「はぁ」

「ほれ、言ってみな!」

「え?何を?」

「リギーだ。まずはそこから始めようぜ?」


 ベルタは呑み込めない顔をした。


「ベルタ、堅っ苦しい中将殿はとっぱらえ。だいたい肩書き付けるなんざ時間の無駄だ」

「えぇぇ」

「要件言う前に死んじまうわ」


 ベルタは違う意味で息が止まるかと思った。


「ああほれ、また脚だ」

「脚、ですね」

「おっと、鼻先だ」

「鼻先、出ましたね」

「出たな」



 ふたりが激流荘の広い前庭で水の防壁を見上げている間、銀色オオカミたちは体の一部を流れから出したり引っ込めたりしていた。


「リギー!指示をくれ!何呑気に眺めてんだ!」


 離れたところから叫んで寄越すのは、小柄ながらに筋肉質な中年女性だ。歓迎会で鉄壁辺境伯の副官と紹介されていた、金髪碧眼の女傑ミルトである。


「どう思う?ベルタ」


 リゴベルト・ハインリヒは、真剣な表情で銀色オオカミの動向を見上げている。


「オジナブ全域図で呪文の種類と配置を確認しないことには、なんとも」

「だよな」


 それだけ言うと、リゴベルト・ハインリヒは、割れ鐘声を響かせる。


「資料待ちだ!迂闊に飛び出すなよ!」

「了解!」

「了解!」

「承知!」

「おう!」

「はいよ!」

「分かってらぁ!」


 返答の言葉もまちまちで、声もそろっていない。だが、誰一人として抜け駆けや反抗の気配を見せなかった。激流荘の国境警備隊は規律より絆で統率されているのだ、とベルタは思った。


(鉄壁辺境伯もだけど、リギー中将殿、じゃなかった、リギーは凄い人なんだ)


 ベルタの鼓動はますます高まった。中将の何もかもが輝いて見える。元々見た目は完璧なのだ。顔は厳つく大男だが、長いマントを翻して堂々と立つ姿には威厳があった。ベルタは、もう赤毛には琥珀色の瞳しか合わないとまで思った。


(はぁ、素敵)


 ベルタはぼうっと上気した。ふと激流のドームから目線を外したリゴベルト・ハインリヒは、蕩ける視線に出会ってたじろいだ。


「ベルタ、その、なんだ、やめろ」


 リギー中将は首まで真っ赤に染まる。嬉しそうに口元がにやけている。



 ちらちらと横目で視線を交わすふたりの元へ、ニックが虚空から現れた。


「おいこら!リギー!イチャついてねぇで集中しろ!」

「なっ、イチャっ、ニック」


 挙動不審になりながらも、リゴベルト・ハインリヒは図面を受け取る。左手の小指でさっと触れると、2枚の図面が空中に(ひろ)げられた。


「ベルタ、こっちが激流荘内部、こっちはオジナブ渓谷全域図だ」


 リゴベルト・ハインリヒの顔が引き締まる。ベルタもすっと頭を冷やす。


「ありがとう」


 ベルタの敬語が自然にとれた。肩書き付き程度のタイムロスでさえも死に繋がる、と言うリギーの言葉が効いたのだろう。短く答えて図面に集中した。


「ここ、今誰かいる?」


 ベルタがとある一点を指す。大瀑布ヴァサヴァントは激流荘の北に位置する。滝壺から大きく東に湾曲して、ダブ川は都市オジナブへと流れ下る。激流荘は後ろに滝、右手と正面に激流、左手に岩だらけの岸辺を睨む。


「西の防壁呪文か。ニック、何か聞いてるか?」

「パトロール当番も引き揚げたし、外に警備隊は残ってねぇんじゃねぇの?」


 ベルタは青褪める。


「えっ?都市は?」

「越境があると防壁が自動展開するから心配ねぇ」

「避難誘導しないの?」

「そっちはトーマス兄貴がやってる」


 トーマスはオジナブ観光長官である。


「え?災害とか警備の担当部署ないの?」

「あ?俺たちだが?」

「なのに、観光長官に丸投げ?」

「それで上手く回ってんだから、文句ねぇだろ」

「左様で」


 ベルタは追及するのをやめた。今はそれどころではない。


「で、この西の防壁呪文、単独発動みたいだけど」

「そうだ。ここは自動展開にしちまうと、都市に呼ばれた時呪文の連鎖をとかねぇとなんねぇ」

「臨機応変の展開が求められるってことだね」

「そうだ」

「今、銀色オオカミが攻めてきてるの、激流荘だけ?」


 今度の質問には、ニックが答える。


「そうだね。今回の襲撃は激流荘一点狙いだぜ」

「じゃあ一刻も早く西の防壁を起動しないと」


 リゴベルト・ハインリヒが頷く。



「ヨハン!3人連れて町へ行け!」

「合点!」

「ヒルダ!西の防壁外側に待機!」

「あいよ!」

「フリッツ!内側から防壁呪文を起動しろ!」

「おう!」


 指示を受けた6人が走り出す。


「ベルタ、ついてこい!防壁通過の援護すっぞ!」

「はいっ!」


 ベルタの震えが止まった。怖さは消えない。激流荘をすっぽりと覆うドームの中には、灰色オオカミの群がいるのだ。安心出来る筈はない。


「これ、強化出来るか?」


 許可のない者の通行を止める呪文が、左手袋の甲に仕込んであった。


「できます」

「頼もしい!」


 リゴベルト・ハインリヒの瞳の底に、刹那恋慕の熱が揺らぐ。それは見間違いかと疑うほどの短い間に消えた。しかしベルタの心の奥には、底知れぬ安心感が芽生えたのだった。



 ベルタは中将と並んで走りながら、補修道具を亜空間収納から取り出す。一見細長い金属の針に見える。これはシュピレン蜂の針である。左手で針を構え、右手人差し指を通行止めの呪文に向ける。ベルタが侵入を試みた時に使った、ボンレス(ちょう)の真っ赤な羽毛をシュピレン蜂の蜜蝋で固めた赤指輪(ローテン)である。


「阻害退けさせて貰うよ」


 ベルタはすっかり職人モードに切り替わっていた。


(職人の顔はカッコいいな。だめだ、集中しろ、俺!)


 リゴベルト・ハインリヒは油断すると恋愛脳になりそうな自分を叱咤する。平和条約以前からこの地を護る激流荘300年の歴史の中で、今未曾有の大襲撃を受けているのだ。恋に浮かれるのは後回しである。



 対するベルタはそんな中将の葛藤などつゆ知らず、作業を粛々と進めてゆく。


フェアビーテン(するなかれ)


 ベルタは最後に認識鑑定阻害の綜合魔法の呪文を口にした。リゴベルト・ハインリヒは目を見開く。面倒臭がりのベルタが呪文を口にするのを、初めて目にしたからではない。


「そんな高等呪文、別途支払うぜ」

「なに、任務のうちだよ」


 ベルタはニッと笑った。眩しすぎる笑顔に、リゴベルト・ハインリヒの意識が一瞬持っていかれそうになる。


「恩に着る」


 慌てて気を引き締めると、到着した防壁の端に向かって腕を振る。流れに乗って出てこようとした銀色オオカミは、通行止めの魔法で押し留められた。


 西の防壁と都市防衛の(めい)を帯びた6人が飛び出してゆく。


「さて、こっちも初めねぇとな」

「何したらいい?」


 ベルタが聞くと、リゴベルト・ハインリヒはニタリと凶悪に笑った。先程までなら震え上がったベルタだが、何故かときめきを覚えた。


(やばっ、ニタリやばっ。なにこれ?え?なにこれ?心臓痛い。死にそう)

「何だ、具合悪ぃのか?」


 心配そうな声音に、ベルタの呼吸が若干速くなる。


「いやっ、いえっ、ちがっ、その、ご指示を!」

(でぇ)丈夫かよ?無理すんなよ?」


 ベルタは高速でこくこくと頷く。



 リゴベルト・ハインリヒは心配そうに真っ赤な眉を寄せる。だがすぐに切り替えて、激流荘の前庭に散らばっている国境警備隊の方へと身体を巡らせる。


「いいか!手前ぇら!オオカミ野郎を引き摺りだすぞ!やられんなよ!」

「うおおおお!」


 ベルタはポカンと前庭を眺める。


「え、なに?何する気?」


 リギー中将は豪胆に笑った。


「ガハハハ!すぐに分かるぜ!」


 中将は言うなり大地を蹴った。向かう先には銀色オオカミの鼻先が突き出している。


「おらぁ!」


 地上にまで聞こえる割れ鐘声で叫ぶと、リゴベルト・ハインリヒは銀色オオカミの鼻先を片手で掴む。そのまま文字通り激流のドームからオオカミを一匹引き摺り出した。そして大きく腕を振り、前庭の中央に銀色オオカミを投げ落とす。


「いや、え、えぇぇ」


 ベルタは呆れて立ち尽くす。



 それからはもう、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられたのである。リギー中将は飛行魔法で飛び回り、ドームからはみ出した銀色オオカミたちを引っこ抜いては投げ飛ばす。時には自ら激流の中に潜る。


「ああっ!リギー!危ないよぅ」


 ベルタはその度に生きた心地がしない。本人は返り血ひとつ浴びずにケロリとして出てくるのだが。


「リギーこっち!こっち手ぇ空いてる!」

「リギー任せろ!」

「俺今行ける!」


 地上の連中もノリノリである。投げ落とされる凶暴なオオカミたちを、魔法と道具で叩き潰し、切り刻み、燃やし、溶かす。棒切れを振り回す者、呪文を彫りつけた剣や槍を振るう者。時にはリギー中将本人が殴る蹴るの攻撃を加えて、銀色オオカミの息の根を止めている。


「うわぁ」


 ベルタは感覚が麻痺していた。余りにも突然、大量の虐殺を目にしたのだ。正気を保つために、脳が処理を拒否したのである。


 ひとつには、ベルタが立っていた場所が殺戮現場から少し離れていたこともある。流石に血飛沫がかかるほど近くにいたら、意識を手放すか精神に不具合を起こすかしていただろう。


「人間型獣人じゃなくて、まだしもだな」


 妙に冷静になったベルタが呟いた。



 激流ドームの中にいると時間の経過がよくわからない。光は透過してくるのだが空が見えないので、庭に出ても建物の中にいるような感覚だった。


(もうどれくらい経ったんだろう)


 ベルタはぼんやりと立っていた。時折、リギー中将が誰かを連れてやって来る。初めは血の色と匂いに怖気(おぞけ)を奮ったが、やがてそれも無感覚になっていった。淡々と呪文の文字を修復したり改良したりする。現実の惨状から逃げる為に作業に集中したとも言える。


 個々人の呪文を組み合わせる助言も求められた。だが、ベルタが就いたのはあくまでもサポート任務である。実際の対戦には駆り出されなかった。



「ニック、外務省には連絡ついたのか?」


 リゴベルト・ハインリヒが再び理性的な発言をした時、前庭には銀色オオカミの屍体の山が出来上がっていた。血と肉片と骨と毛皮が散乱している。その隙間で国境警備隊の魔法使いたちがあちこちで寝転がっていた。皆、疲労困憊である。だが、一人として欠けずに戦いは終わった。


 建物内に避難していたニックが、また虚空を割ってやってきた。建物の入り口からは、救護班が走り出て来る。


「ああ。あとはお偉いさんの仕事だよ」


 ニックは頬の緊張を解き、自分より頭一つ高い親友の肩を叩いた。


「お疲れさん」


 二人は拳を握ってコツンと合わせた。


「しっかしリギー、相変わらずバリッとしてんなぁ。返り血浴びるどころか髪の毛1本乱れてねぇじゃねぇか」


 ニックは呆れ顔でじろじろとリゴベルト・ハインリヒを見る。


「そういうの、後が面倒じゃね?」


 国境警備隊は軍隊ではないが、国軍の下部組織であり、公共の組織である。リギーとグロッケンナハト鉄壁辺境伯は、軍からの技術指導員として出行扱いだ。今回のような戦闘があれば、細かく報告する義務が発生する。着ていた服が汚れたり破れたりすると、逐一被害報告する規則があるのだ。


 これが時短主義のリギー中将には気に食わない。いつ凶悪な越境犯や侵略軍が攻めて来るか分からない土地柄なのだ。長々と報告書を作成している暇はない。


「最初からなんもねぇほうが楽だろ」

「いや、そうだけどさぁ」


 ニックは諦めてため息を吐く。


「それだけ多様な保護魔法を組み合わせて常時発動してるなんて、リギーの魔力はどんだけあんの」


 ベルタもときめきより呆れを感じた。


「へへ、俺、すげぇ?」


 リギーは子供のように調子に乗った。


「へぇへぇ、すげぇよ」


 ニックは笑い出す。ベルタもつられて笑った。リギーもやっぱり笑い声を上げるのだった。



 その夜、ベルタは激流荘の裏手でドームを見上げていた。その外側には大瀑布ヴァサヴァントがあるのだが、ドームの中では音も聞こえない。


「よう、どうした」


 背後から少し抑えた割れ鐘が響く。


「あ、リギー。今回、銀色オオカミは滝から落ちて来たんでしょう?」

「そうだな」

「落下の勢いを利用してドームに飛び込んできたんだよね?」

「そんなとこだろうな」

「銀色オオカミは激流に飲まれても四肢が裂けない程に強靭な肉体を持ってたけど」

「けど?」


 ベルタはドームからリギー中将へと視線を移す。


「通行禁止魔法を破る程の魔法種族が来たら?」


 リゴベルト・ハインリヒはゾッとした。


「ねえ、オジナブ全域の防衛魔法を連動させるの、危険じゃないかな?」


 ひとつが崩されれば、いちどきに全てが崩壊してしまう。


「そうだな。早速親父に相談しよう」

「そうして」


 リゴベルト・ハインリヒは大きな身体を巡らせかけて、はたと止まった。


「と、その(めぇ)に」

「ん?」



 振り向いたリゴベルト・ハインリヒは、腰を折る。


「えっ?何?」


 そっと背中に添えられた大きな掌に、ベルタの心臓は爆発寸前だった。琥珀の瞳が情熱に燃えている。


「いや、その、え?」


 ベルタは恥ずかしさで逃げ出したいが、抵抗も出来ず戸惑っていた。


「ここでの就業期間が終わっても、時々会えるか?」

「や、えと、そうだね。会おうよ」


 ベルタは自分が何を言っているのか、はっきりとは意識していない。だがその言葉は、リゴベルト・ハインリヒの心を燃え上がらせるのに充分だった。


「ベルタ!ありがとう」


 リゴベルト・ハインリヒは呪文だらけの手袋を脱ぐ。


「俺さ、ベルタに惚れたよ」

「えぇぇ、あの、嬉しい」


 ベルタの頬は熱くなる。ひんやりと大きな掌が、ベルタの頬を直に包んだ。ふたりの鼓動は高鳴って溶け合い、もうどちらの心臓なのか分からない。視線は甘く絡み合う。ふたりの顔が近づいて、自ずと瞼は落ちてきた。


 そっと微かに触れ合ったカサカサの唇はすぐに離れて、ふたりはまっすぐに見つめ合う。互いに目を逸らしたり閉じたり、また見つめ合ったりしながら、しばらく黙って抱きしめ合っていた。


「名残惜しいけど、親父んとこ行くわ」

「そうだね、早く行ったほうがいいよ」

「じゃ、また明日な」

「うん、また明日、おやすみ」

「ああ、おやすみ、これからよろしく頼むぜ」

「ふふ、こちらこそよろしく」


 ふたりは尚もしばらくもじもじした。最後にさっとベルタの唇の真ん中に口付けを落とすと、見た目だけ一分の隙もない貴公子は、大股に屋内へと入って行った。


「ふふふ。首が赤くなってるじゃない。可愛い。私の暴虐貴公子さん」


 ベルタはリゴベルト・ハインリヒがすっかり邸の中に消えてしまうまで見送った。激流ドームの隙間から、瞬きするほど短い間、勇壮な大瀑布に光を投げる三日月が覗いた。


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[良い点] 人獣大戦のあった歴史とか呪文を彫って発動している魔法とか、世界観が楽しめました。 激流荘に住むリギーとそこにやってきたベルタが、仕事や戦いを通じて自然と親しんでいき、心を通わせ、相手に惹か…
[良い点] 世界観や魔法の設定がしっかりしていてとても面白かったです。 命がけの戦いの中で惹かれ合う二人のやり取りにキュン。 面倒くさがりで怖がりなベルタがいざという時にキリッとするギャップに私もや…
[良い点] 「thanks20th企画」から拝読させていただきました。 さすがは黒森様、文章が読みやすくて、軽妙な展開が楽しいです。 [一言] リギーは同性の目から見ると「いい奴なんだけど、ああがらっ…
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