思い出と共に。
風が、紅葉を静かに揺らしていた。
木々の隙間から差し込む光が、墓標の輪郭をぼんやりと照らしている。
両親の墓の前で、俺は一人、これからのことを考えていた。
父のことを尋ねたのは、随分昔のことだった気がする。
王国の騎士だった父は、俺が生まれる前にこの森へ移り住んだらしい。
人里離れたこの場所なら、母の体に少しでも穏やかな日々を与えられると信じて――。
その願いは、ほんの少しだけ報われた。
母は俺を産み、弱った体で7年間生きた。
騎士だった頃の話はあまり語らなかった父だが、
一度だけ、子どもみたいな笑みでこう言ったことがある。
「それなりには強かったんだぞ」と。
あの時の父の表情が、ふと脳裏に浮かんでくる。
頼りなくて、でも誇らしげで――俺は、その時の父がどんな想いだったのかわからない。
「騎士、か……」
父から教わった剣と魔法。
俺もあの背中を追って、歩いてみるのも悪くないかもしれない――
そう思いかけた瞬間、視界の隅に蒼い影が映り込んだ。
ヒラリ、ヒラリと空を舞う、一匹の蝶。
その羽は透き通るような青で、秋の紅葉に溶け込まず、むしろ鮮烈に浮かび上がっていた。
「……綺麗だな」
この時期に、蝶なんて珍しい。
それに、どこか懐かしい気配がある。
まるで父さんと母さんが――ここにいるような、そんな気がした。
この森は、二人と過ごした思い出がすべて詰まっている場所だ。
無理に離れる必要は、今はまだない。
もう少しだけ、ここで――
母の十年目の命日も近い。
それまでは、このぬくもりの残る場所で、ゆっくりと考えていよう。
今後のことは、それからでも遅くはないだろう。
蒼い蝶が、陽の光を受けながら高く舞い上がっていく。
その姿を見送って、俺は静かに墓前から背を向けた。
それから三日が過ぎた。
穏やかな時間に包まれていたはずの森が、その日、突如として喧騒に染まる。
「ゴァァァァァァァ!」
空気を震わせる咆哮に、反射的に家を飛び出す。
森の入り口で、陽を遮るように立ちはだかっていたのは、全長三メートルを超える竜の姿だった。
重々しく蠢く体躯。
魔力は感じないが、こいつは体内のガスを火花で引火させるタイプだ。
家の近くで暴れさせれば、一発で灰になる。
忌々しげに舌打ちしながら、俺は剣の柄に手をかけた。
「……面倒な奴が来たな」
何度か父と倒したことがある。
肉は硬く、臭みも強く、狩ったところでサイズ的に食いきれない。
加えて今のこいつは、異様に荒れている。
敵意がなければ、やり過ごす事もできただろうが。
よく見ると、体のあちこちに斬り傷や裂傷が走っていた。
「誰かに襲われて逃げてきたってわけか……」
とばっちりもいいところだ。
仕留め損ねて他所へ逃がすなど、三流の所業だ。
しかし今さらそんな文句を言っても仕方がない。
こいつをここで止めねば、第二、第三の被害が出るだけだ。
竜の喉元から、微かにガスの匂いが立ち昇る。
火を吐くつもりか。
瞬間、地を蹴り、竜の懐へ滑り込む。
その口を――一閃。
火打石の役割を果たす歯を下顎ごと斬り落とす。
「アアアアアアア!!」
苦痛の叫びを上げて竜が後退する。
「これで火は吐けないな」
俺は一歩、足を踏み出した。
竜の黒い瞳に、ほんの一瞬だけ恐れの色が映った。
勝ち目もなく、分の悪い戦いだと理解したのだろう。
逃げ道を探すように、竜は大きな翼を広げ、空へと浮かび上がる。
だが――
「逃げられると思うなよ」
左手をかざし、魔力を一点に集中させる。
放たれた冷気が、竜の翼を凍てつかせる。
そのまま、竜の巨体は音を立てて地へ叩き落とされた。
地鳴りのような衝撃の中、俺は一歩ずつ歩を進める。
飛べない、炎も吐けない、動きも鈍い。
もう、ただの巨大なトカゲだ。
竜は最後の抵抗とばかりに尻尾を振り回してきた。
だが、下から上へ振り上げた一撃が、その尻尾を根元から断ち切る。
「……ヴ、ウア……」
満身創痍。
それでも竜は、なお突進してきた。
無闇に殺傷をするつもりはないが。
「……仕方ない」
俺は一息だけ、言葉を飲み込む。
そして、胸元へと剣を突き立てた。
切先に氷の魔力を流し込む。
剣に掛かる重さが、命の終わりを知らせる。
「……悪かったな」
深く息を吐き、剣を引き抜いた。
地に崩れ落ちた竜はもう動かない。
不本意ではあるが、奪ってしまった命の責任は取らざるを得ない。
「命を奪ったなら、その責任は忘れるな」
――父の口癖だ。
不味くても、食うしかないか。
俺は竜の死骸を見下ろし、苦笑しながら呟いた。
竜の処理をどうすべきか悩んだ俺は、ふと思い出して書斎へ向かった。
父がかつて使っていた、小さな部屋だ。
病を得てからはほとんど使われていなかったせいか、埃の匂いが鼻を突く。
書棚に並ぶ本も、どれも見覚えのあるものばかりだ。
今さら新しい知識が転がっているとも思えない。
「やっぱり、ないか……」
諦めかけたとき、窓際に差し込んだ光が、一冊のノートを照らした。
机の上にぽつんと置かれたそれは――父の日記だった。
「……覗き見は……良くないよな…?」
俺が日記の書き手なら、人様に見られるなんてごめんだ。
だが、背に腹は代えられない。
目を閉じ、胸に手を当て、一呼吸入れる。
「我が親愛なる父よ。この愚息を……どうか、お許しください」
冗談混じりにそう呟いて、俺はそっと、日記を開いた。