めでたしめでたし
ルルは斜面を駆け降りてくるヒョスロヌートを見つめていた。顔が熱い。ヒョスロヌートがあんなにカッコよく見える日が来るなんて。そう思いながら目で追っていると、木の影になってその姿がかき消えた。
「ルルさん!」
ぬかるみに足を取られそうになりながらヒョスロヌートが駆け寄ってきているのが分かった。バシャッと音を立ててルルの足元にしゃがみこみ、ルルの顔を覗き込むようにしているのを感じる。
「大丈夫でしたか?怪我は?あの男は?吹き飛ばしてしまいましたが、あっ、そうです誘淫質は……」
喋りだすといつものヒョスロヌートだった。先ほど一瞬見えた真っ赤な温度のない目が嘘のように優しい、いつも通りの声音。ただ少し動転したような早口だけがルルには意外だった。この魔力命吸血鬼にも人の心配をして焦ることがあるのだと。期待が頭をもたげる。少し嬉しい。嬉しいのだが、その前に。
「ヒョスロヌート」
「なんですか?どうしましたか?傷が痛みますか?」
「明かりを、付けてくれんか?」
ルルは、いつも通りの声を出そうと努めて言った。
「……暗いと、主の姿が見えん」
意識して意識して普通の声に聞こえるように。しかしどうしても語尾が震えてしまった。その姿が影に見えるのだ。頭では違うと分かっているのに、見えないと真っ黒な影が迫ってくるようで怖い。見慣れたヒョスロヌートの姿をすっかり照らし出してしまえる強い明かりが欲しかった。
だが、怯えていると悟られるのが恥ずかしく、それを隠そうとする。別に恥ずかしい事はないのに、自分が恥ずかしがるような事はないはずなのに、なぜだか無性に恥ずかしい。怯えるような目にあったことを理由もなく隠したくなってしまうのだ。
向こうにはこちらの姿が見えているのだろう、と思ったルルは無理やり笑おうとする。強張った口角をなんとか持ち上げ、主だけ夜目が効くのはずるいじゃろ、と付け足す。冗談のように。明かりを付けてもらうのはなんでもないことかのように。
どう見たって強がりだった。人の機微に疎いヒョスロヌートにもそれが分かった。焦点の合わない目でこちらを見つめながら、自分の体を抱えるように腕を回し、少し身を引いているのがはっきりと見えたから。怯えた目をしている。無理やり作ろうとした笑顔はひきつり、痛々しくて見てられない。
ヒョスロヌートは急いでポケットに手を突っ込み、魔法陣を取り出した。端的に「光」と呟くと文様が書き込まれた紙から真っ白な光が溢れ出す。
光で照らされたルルは随分ひどい状態だった。真っ白なワンピースは泥で汚れ、胸元の青いリボンは歪に緩んでいる。ゴロゴロ石が転がる地面についていた肘には擦り傷がつき、うっすらと血が滲む。リリスが編み上げた髪はほつれて台無しになり、両親の思い出の品である髪飾りは今にも落ちそうだ。
二人は暫く無言で見つめ合った。
ヒョスロヌートも走って来たから髪が乱れていた。濡れた地面も気にせず膝をついたせいで新品だったろうズボンは泥に汚れてしまっていたし、いつもニコニコ浮かんでいる笑みはすっかり消え、焦燥とか心配とか不安とかそういう感情がごちゃ混ぜに乗っていた。しかし、ヒョスロヌートも笑おうとしていた。生まれてからこのかた意識して笑おうとしたことなんかないような吸血鬼が、ルルを安心させようとぎこちなく口角を上げ、困ったように眉を下げていた。
ルルは見慣れたヒョスロヌートの見慣れぬ姿を見て、硬くなっていた心が一気に解けていくのを感じた。張り詰めていた心が、閉ざしかけた心が、ヒョスロヌートが浮かべた下手くそな笑顔一つで緩む。
ルルの顔がくしゃりと歪んだ。目から大粒の涙が溢れ、手の甲で拭っても拭っても追いつかなかった。嗚咽が漏れ出る。息がうまく吸えず肩を大きく震わせ、口を歪めて全身で泣いていた。
ヒョスロヌートはそれを見て、恐る恐るルルに手を伸ばす。躊躇いがちにポンと手を頭に置いた瞬間、ルルの泣き声が一際大きくなった。ルルはしゃくり上げながらヒョスロヌートににじり寄り、その首に腕を回してしがみつく。縋り付くように。ギュウギュウと力いっぱい抱きつき、ヒョスロヌートの肩に顔を埋めて泣いた。
ヒョスロヌートは抱きしめ返したかったが、それはいいのか悪いのか判断がつかないまま、背中に手を回し、曖昧にポンポンと叩いてやる。
「ひょす、ヒョスロっ、ヌート……」
ルルがしゃくり上げながら、息を吸う合間に声を発そうとする。呼吸が乱れ、息が続かない。流れる涙がヒョスロヌートの肩に染み込んでいく。
「こわ、こわっ、こわかった……」
ヒョスロヌートは無言であやすように、背中を一定のリズムで叩き続ける。優しく、鼓動の三倍くらいゆったりと。焦らなくていいと言うように。
誘淫質の拡散は収まっていた。ルルがコントロール出来ているのか波があるのかは判別がつかなかったが、先ほどまで溜まっていたものも風によって霧散し、わずかに首筋から甘く香るのみになっている。
ルルは暫く、唸るように泣いていた。悔しさとか無力感とかそういうものを噛み砕くように。ヒョスロヌートの鼓動に体を預け、体温と嗅ぎなれた埃くささに包まれるうちに体の芯が少しずつ少しずつ温まっていく。
初めは息を吐けないほど乱れていた呼吸は、背中を叩くリズムによって次第に落ち着き、スンスンと鼻をすする音が響くようになる。息を吸うたびに痙攣するかのように小刻みに震えていた体は、鼻をすすり上げるタイミングで時折大きく肩が上がるのみになった。
うーと発していた声も小さくなり、呼吸も戻ってきた頃。ヒョスロヌートの肩に顔を押し付けたままのルルがくぐもった声を出した。
「……父が今日、言っておった」
まだ鼻をズビズビ鳴らしているものの、話せるようになったことにヒョスロヌートはホッとした表情を浮かべ、背中を叩いていた手を止める。
「はい」
聞いていますよ、といった風に返事をして先を促す。
ルルは一瞬口を噤んだ後、顔をさらにギュッとヒョスロヌートの肩口に押し付けると少し迷うようにし、モゴモゴと言った。
「男は、みな、狼じゃと…」
ヒョスロヌートはその言葉に少し目を見張り、それから苦笑した。
バルギンが今日その言葉を言ったのなら、その狼とは間違いなく自分のことを指していたのだろうと予測する。
しかし自分は確かに狼にはなりかけたが、恋を自覚するのがほんの少し遅かったために獲物をわざわざ帰してやって、みすみす他の狼に食わせるところだった間抜けな狼だ。バルギンの警戒には値しなかった。
かと言って、あそこでルルを帰さずに狼になってしまっていれば良かったとも思えない。帰したからこそ恋を自覚したとも言えたし、帰さなかったら自分が何をしていたかも分からなかった。それだけルルの無自覚に撒き散らす誘淫質は強力で、ルルの気持ちや自分の気持ちなど考えずにただ性欲のはけ口としてしまったろうことは想像にかたくない。
もしそうなっていたら。
ヒョスロヌートは思う。
もし理性のかけらなくルルを襲ってしまっていたら、先程のルルの怯えた目は自分に向けられていたのではないか。今腕の中で絶対の信頼と共に体を預けてくれているこの少女が、自分に恐怖と恨みの目を向け、永遠に手元を離れてしまっていたかもしれない。
そんなこと考えるだけで恐ろしく、恋を自覚した今となってはこの少女にいかに気に入られるか、どうすれば隣にいることを許されるのかということしか頭になかった。
だからヒョスロヌートは、「男はみんな狼」というルルの言葉にどう反応して良いかわからず、ただ躊躇いがちに「はい」と頷いた。
すると、ルルがそろそろと顔を上げ、少し体を離してヒョスロヌートの顔を覗き込むようにする。
「主もか……?」
ヒョスロヌートをやや下から見上げるようにするルルの目は先程まで流していた涙で潤んでおり、しっとりと濡れた金色のまつげが艶かしい。ヒョスロヌートにはその微かに揺れる瞳が男を誘うような甘さを含んでいるように見えた。
いつからか周囲には甘い匂いが漂い始め、それは鼻を微かにくすぐる程度ではあったものの、ヒョスロヌートは体がじわじわと熱を帯びていくのを感じた。ルルの目を見ているとなんだか胸のあたりがゾワゾワして落ち着かない。
顔が近すぎる。ヒョスロヌートはそう思った。今までそんなことは思ったことがなかったのに、急にそんなことが気になる。こんなに顔が近いと、なんだか、何か不埒なことをしてしまいそうだ。何をしてしまうのかは分からないが、とにかく何か、口付けたり、そういう……ヒョスロヌートは飛んでいきそうになる思考を押さえるようにグッと目を瞑る。
ルルの顔を見ないようにして、ルルの質問に答えようと頭を巡らす。
なんだったか。ルルは主もか?と言った。主もか?
主も狼か、ということか?
ヒョスロヌートはその質問に正直に答えるのが望ましいことなのか幾分迷ったが、迷った末に、もしこのまま隠していたらルルは安心して暫くはそばにいるのかもしれないが、変態を迎えた以上これまでの関係のままずっといられるわけではないのだから、正直に言ってみて、それでもし警戒されてしまってもそれはそれで寂しいが、その時はその時でまた一から関係を築き直せるのではないか?なんていうことを考えて、渋々、いたずらがばれた少年のような往生際の悪さでたっぷり溜めて頷いた。
「…………はい。私もその一員です」
抵抗する頭を無理やり縦に振ったヒョスロヌートは、吹っ切れたように目を開くとルルと顔を合わせて気弱に笑った。認めたことで気が楽になったのか、まるで魔力の状態について説明するときのように自身の現在の心境を正確に続ける。
「正直なところを言ってしまえば今も、手が、口が、あなたに不埒なことをしてしまいそうになるのを必死に抑えているところです」
ルルはヒョスロヌートを驚いた顔で見つめながら、しかし首に回した腕は離さずに瞬きを繰り返した。まさかこの吸血鬼が頷くとも思っていなかったのだ。いつもみたいに苦笑しながら、私にはそういう本能が薄いようで、なんて言うとばかり思っていたから続けられた言葉がうまく処理できない。
手や口が何を?不埒とはどういう意味だった?
そもそも、そう言った気持ちは全く分からないと首を傾げていなかったか?
混乱するルルをよそにヒョスロヌートは続ける。
「恋、というものが分からないと私は常々言っていたわけですが。つい先ほどそちらに決着がついたんですよ。どうやら私はルルさんに恋をしているようなんです。リリスさんやバルギンさんに教えてもらったことがやっと理解できました」
恋。この吸血鬼が、自分に恋を?
影を吹き飛ばし、自分を救ってくれたこの優しい吸血鬼が、研究の対象としてでなく異性として自分を見ているというのか?
ルルは顔に熱が集まってくるのを感じる。まさか、さっき芽吹いたばかりの恋がこんなに早く実ることがあっていいのか?
「あなたに知らない男が触れているのを見たら自分でも信じられないくらい強い感情が湧き上がってきました。それに、私自身はあなたに触れたいと考えています。頭や背中でを撫でるとかそういうことではなく、もっと深いところを。
ああ、実は今あなたにしがみつかれているのも落ち着かないのです。あなたの許可なく手を伸ばしてしまいそうで。ルルさんにとっては嫌かもしれませんがーー」
「――い」
ヒョスロヌートの長い告白が遮られた。ルルのか細い声によって。聞き取れなかったヒョスロヌートはキョトンとして言葉を止め、ルルの顔を見返す。
ルルはサッと目をそらすと、俯いて小さく言った。
「……触っても、よい」
「へ」
ヒョスロヌートは固まった。「へ」だか「え」だか「ひょえ」だか、形容し難い声が漏れた。
触っても、良い?
ヒョスロヌートの理性がグラグラと揺れる。甘い匂いがする。
脳内を映像が駆け巡る。真っ白な肌。ルルのうなじ。潤んだ瞳。ピンクに色づく唇が少し開き、吐息とともにーー。
「あや、つにっ」
現実に引き戻されたヒョスロヌートは目を瞬かせた。泣き止んでいたはずのルルの瞳からまたボロボロと大粒の涙がこぼれ出していたからだ。ルルは手の甲でグイグイ拭いながら強い語調で言う。
「あやつに、影に、触られたところが……っ、気持ち悪い……!」
拭っても拭っても溢れ出す涙に苛立つかのようにルルが乱暴に目をこする。
「じゃが、ヒョスロヌートなら、触られても、嫌じゃ、ない……から、触っても、良い!きょ、今日は、たんっ、たん、誕生日、じゃった……の、に、あやつで終わる、なん、ふっ、ううぅうぁあ……」
涙が止まらなくなったルルはもう言葉を続けることもできず、またヒョスロヌートにしがみつこうと手を伸ばした。
するとヒョスロヌートはその伸ばされた手を捕まえてキュッと片方の手にまとめ、そのまま下ろす。行き場を失ったルルは相変わらず涙をボロボロと流したまま困惑したようにヒョスロヌートを見つめる。しゃくり上げながら何かを尋ねようとしたルルを止めるようにヒョスロヌートが手を伸ばす。ルルの顎に。優しく手を添えクッと持ち上げると、そこから滴る涙をペロリと舐めた。
「へ」
今度はルルが「へ」とも「ほぇ」ともつかない声をあげる番だった。
一瞬何をされたか分からず惚けた後、ぼぼぼっと顔を赤くする。
「な、な、な、なんっ」
言葉が出ないルルを見つめてヒョスロヌートがへにゃりと笑った。
「血とは、少し味が違いますね」
「そん、あ、当たり前じゃ!赤くないじゃろう!」
「結構似た味ではありますよ?」
「あ、味が知りたくて、な、めた……のかの?」
「いいえ。涙が止まるかと思いまして」
ルルはボンっと音を立てそうなほど顔を真っ赤にして固まる。何かを言おうと口をハクハクと動かすが言葉が出てこない。
涙は確かに止まっていた。
ヒョスロヌートは単に、驚かせるとしゃっくりが止まるのと同じように考えただけだった。あごでも噛もうとそのきめ細やかな肌に顔を近づけ、間近に見てこれに傷をつけるのは悪いかと踏みとどまり、代わりに舐めてみた。
それくらいの認識だったのだが、ルルはそうは取らなかった。
娼婦たちが話すいろいろな男の話を聞いて育ったルルは、この行動が「キザ」と言う評価に値するものだと思ったし、そういう行動は「落としたい女にするものよ」とミーシャに教わったから。
ヒョスロヌートは本当に自分のことを異性として落とそうとしているのだと実感して、そのらしくない振る舞いに不覚にもドキマギする。
自分もこの吸血鬼に恋をしている、と再確認する。
ヒョスロヌートが顔を真っ赤にしたルルの目の下をスルッと撫でた。
そのままルルの反応を窺うようにゆっくりと手を広げ、掌で耳から頬、顎のあたりを包み込むようにする。ルルは嬉しそうに目を細めるとその手に顔をスリッと擦り付けた。
「本当に、嫌じゃありませんか?」
ルルはコクコクと頷く。
それを見たヒョスロヌートは少しだけ親指をずらし、ルルの唇をツーっとなぞる。
いつも通りのニコニコした笑顔のまま、細めた目を赤く妖しげに光らせ、丁寧に、落ち着いた声を発する。
「いくら私が相手でも、男に触って良いと言うことが、どういう意味だか分かりますか?」
ルルの頬にサッと朱が差す。いつもとは違う。いつも通りの笑顔で、いつもとは違うヒョスロヌート。ルルは少し躊躇って、それから深く頷いた。
「ヒョスロヌートなら……よい」
ルルがそう答えた瞬間、ヒョスロヌートはルルをサッと横抱きにして持ち上げた。ヒョロっとした体のどこにそんな力が隠されていたのかというほど軽々と。
アワアワと焦るルルの耳に口を寄せ、低い声で囁く。
「では、続きは私の家で」
夜は更けていく。ルルの長い長い人生のまだ序章。
恋に憧れた夢魔と恋を知らなかった吸血鬼。二人に実った最初の恋。
ヒョスロヌートの首にギュッとしがみつくルルは、痛いほど暴れる心臓と火がついたように熱い耳を意識しながら心地よいリズムに体を委ねる。ヒョスロヌートの一歩一歩に合わせてユサ、ユサと揺らされ、期待に膨らむ胸を自覚する。
ルルは自分から誘淫質が流れ出しているのが分かった。
それは自分の意思の下、もう自由自在に操れるものだった。
それでもルルはあえて止めない。期待に高まる胸が命じるまま。踊るように流れ出していく誘淫質に踊り出したい自分の気持ちを乗せて。
すぐ近くにあるヒョスロヌートの顔をじっと見つめれば、視線に気付いたヒョスロヌートがニッコリと笑う。見慣れた顔のはずなのに、妙にドキドキして暴れる心臓が飛び出しそうになる。こんなにかっこよかっただろうか。ルルは自問しながら、ひたすら幸福の中にいる。
ヒョスロヌートはルルの緩んだ顔を眺めながら、その笑顔を曇らせないように気持ちを抑える。涼しい顔で紳士的に振る舞っていながら、その実、かなり限界に近かった。
何がというと。理性の限界が。
先ほどから復活しているの誘淫質の匂い。暴走させていた頃と比べれば控えめではあるが、程よく甘く香るそれにヒョスロヌートの思考回路はおかしな方向に流れていこうとする。それを悟られないよう、いつものニコニコした笑顔を貼り付けて、ルルに優しくしようと自身を戒める。
(私の理性……どうか頑張ってください……怖い思いをさせたら、わかっていますね。優しく、優し……はて。先程ルルさんは私になら何されてもよいと言ったのでしたっけ……?ああ、なんだ良かったそれならめ………はっ!?いや、「触ってもよい」でした。何されてもではな……何されてもよいだったら何をし……)
夜は更けていく。森はそよそよと揺れ、洞窟へ向かう二人を見送る。
収穫祭の一日目。
二人の恋物語は、今日幕を開けたのだった。