表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢魔ルルウォの伝説  作者: 雪ノ下セツノ
17/19

自覚

遡ること数分。ルルをなんとか追い返したヒョスロヌート。

 一人になった彼は部屋の真ん中で蹲り、乱れた息を整えようとしていた。


 周りにはまだまだルルの誘淫質の匂いが残っている。それを吸うだけで、もう本人は近くにいないというのに頭がルルのことでいっぱいになる。頭の芯が痺れるようで何も考えられない。ボーッとしてそのまま眠ってしまいたくなるのに、そのゆったりとした眠気とは裏腹に何か熱いものが身体中を駆け巡って我慢できない。


何が我慢できないのか分からない。それを見極めようとしても意識がはっきりしない。頭の奥にもやがかかっている。ただルルだけが頭の中に浮かんでくる。体の真ん中が熱い。正体不明の高ぶりに困惑する。


いや、ヒョスロヌートは分かっていた。いくら今までそれを感じたことがなかったとしても、知識としては知っている。夢魔が出した甘い匂いを吸ったことで男が昂る。夢魔の魔力吸収のための手段。魔力の活性化、生存本能の上昇。ヒョスロヌートが今感じているもの。つまりそれは性欲に違いなかった。


しかしヒョスロヌートが考えたいのはそんなことではない。

自分が夢魔の種族特性によって生物としての本能を揺さぶられているのは分かる。もちろん分かっている。そのことではない。そんなことではなく、もっと大事な何かが引っかかっているような気がする。

自分はなぜ、なぜさっき、なぜーーそれ以上まとまらない。


疑問が浮かんでいることは分かるのに、その輪郭を掴む前に霧散していく。ルルがそばにいないことが辛くて、この眠気に体を委ねてしまえば夢の中で会える気がして、もう何も考えなくていいかとゆるゆる目を閉じながら岩のテーブルに頭をもたれかけさせる。


ひんやりと冷たい感触がヒョスロヌートの頬に当たる。ゴツゴツした岩が真っ白な肌を浅く削る。ほんの少しの鈍痛が彼の頭に信号を送り、まだ完全に夢の中に入れないでいるヒョスロヌートは手を伸ばす。ズボンについていたポケットへ。指先に当たるのはカサついた薄っぺらい紙。いつでも持ち歩いている魔法陣。


ヒョスロヌートは朦朧とする頭で指先に魔力を送る。ポケットの中に光が灯る。ぼんやりとした青白い光が徐々に強まり漏れ出る。眩しいほどの光がヒョスロヌートの閉じられた目に届く。魔力の輝き。ヒョスロヌートが最も愛するものの光。彼はゆっくりと目を開けた。細く、細く。糸のように細く。部屋中を照らし出す光が目を痛いほどさす。

ヒョスロヌートは笑った。魔力。自分の心を掴んで離さないもの。悩みようがないほど、揺るぎようがないほど自分の中を貫く『一番』。魔力。彼にとっての圧倒的な欲。生存本能の前に存在する欲。魔力への途方もない好奇心。もはや愛。ヒョスロヌートに恋は理解できなかったが、魔力というものへの愛は常に感じている。愛するものの光が彼の頭にじわじわ浸透する。頭の片隅が動き出す。

目を細め、その光を楽しむように口角を上げたヒョスロヌートが、一音一音力を込めるように言った。


「風、吹き飛ばせ」


 ポケットが一気に膨らみ、そこから勢いよく飛び出した風がヒョスロヌートをグルっと囲んだ。風を纏ったヒョスロヌートは重い手をゆっくりと持ち上げる。風が彼の手に収束する。高く掲げた手をそのままに、頭の上で円を描くように回す。すると風は手を離れ、その動きに合わせるようにグルグル円を描きながら広がっていく。ゆったりと回る。甘い匂いが風に乗る。部屋中に充満していた誘淫質が全て風に巻き込まれる。

 ヒョスロヌートは手の動きを止めた。その長い腕を洞窟の入り口の方に向かって伸ばす。緩く開かれていた手をグッと握り、ほっそりとした人差し指をピンと弾いた。

 その瞬間、風は凄まじい勢いで洞窟の外へ飛び出した。狭い入り口をドウドウと通り過ぎていく。蔦のカーテンがバタバタとはためき、ヒョスロヌートの整えられた髪を容赦なく乱した。

 

 数秒で風が鎮まると、ヒョスロヌートは大きく息をつく。

 あたりの空気はすっかり元通りだった。嗅ぎ慣れた洞窟の匂い。湿っぽく、岩壁に生えた苔や部屋の隅に覗く土から立ち上る雨の前のような匂い。魔法理論の実験に失敗したときの煙が染み付いた焦げ臭い匂いや、うっすらと漂うコウルファの香り。


 ヒョスロヌートはそれらを思い切り吸い込む。頭の中にかかっていたもやが徐々に腫れていくようだった。

 

「これでやっとものを考えられますね……」


 考え事をするときの癖が復活した。疑問を整理するために独り言を呟く癖。

 先ほどまで、自分は一体何が疑問だったのかを思い出そうとする。


「まず状況を……今日はルルさんの誕生日で……偶然にも変態が……」


 状況はよく分かっていた。実際にルルが15になるには少し早い今日、たまたま変態を迎えてしまったというだけ。変態の日程はきっちり生まれてから15年後と決まっているわけでもなく、多少前後することは十分にあり得たし、今日が誕生日だと強く意識することによって体が反応してしまったというのも特に不思議ではない。

 

 では何が疑問なのか。ヒョスロヌートの中の疑問といえば、彼がいつも分からないことといえば一つしかない。大体の疑問は探求して解明することのできるかの吸血鬼がどうあっても理解できないもの。

 恋。男女関係。理性を抜きにした大恋愛。


「私はルルさんを帰した……」


 帰した。なぜ?ルルをめちゃくちゃにしてしまうと思ったからだ。理性が効きそうもなかった。


「誘淫質で混乱して……」

 

 そうだ、誘淫質で理性を吹き飛ばされた。だから首筋に噛み付きたいという本能に任せた行動をしそうになったし、それを止めるためにルルを帰しーー。


「本能……?本能に、抗った……?」


 まさかこれが?生物としての本能を煽られた状態で、なおルルを帰した。ルルを傷つけないように。これが?


「本能に抗うほどの熱烈な恋……?」


 ヒョスロヌートは自分の頭をガッと掴む。よく考えろと自分の頭に言い聞かせる。

 本当にこれが恋なのか、今までずっと分からなかった命題を解くチャンスだとものすごい勢いで頭を回転させる。恋の第一人者、リリスとバルギンから聞いた言葉をよく思い出す。


「触れたい……思いましたが、あれは誘淫質で……」


 親愛と恋の違い。相手に触れたいと思うか。

 頭を撫でるとか手を繋ぐとかただそれだけじゃなく、体の至る所を。優しく、相手の反応を試すように。そう触れたいと思った時、それは親愛ではなく恋愛なのだとリリスは言った。


 確かに数分前、ヒョスロヌートはそう思った。頭を撫でるのでは満足できず、服の下に隠された部分まで全てに触れることを欲した。

しかしそれは夢魔の能力に引きずられたのであって、一時的なものに過ぎない。恋愛ではない。

そう思いかけたヒョスロヌートは、自問自答する。徹底的に検証しなければ理論には穴が生まれる。

 本当に一時的なものか?誘淫質がすっかり消え去った今、彼女に触れたいと全く思わないのか?


 ルルを思い浮かべる。表情をクルクル変えるルル。心配そうにしていたルル。真っ白な首筋。太腿に触るとビクリと体を震わせながらも逃げようとはしなかったルル。

 あの先へ進んでいたらどうなっていたのか知りたい。

 どんな表情を見せてくれたのか、どんな反応を返してくれたのか、どんな言葉を、どんなーー。


「……これが……?」


 いや、分からない。まだ誘淫質の影響が残っているのかもしれなかったし、今までヒョスロヌートには薄かった男としての本能が芽生えているだけかもしれない。


 では、肉欲と恋の違いは?それは

たった一人を相手にしたいと思うか。他に取られたくないと思うか。

相手を唯一のものとして捉え、他の女では替えがきかないと思えばそれが恋なのだとバルギンは言った。


「他の男に……」


 今まで、ルルは他の男と結婚するだろうと漠然と思っていた。結婚はせずとも、いろいろな男と恋をするだろうと。それはヒョスロヌートにとっていつだって曖昧なビジョンでしかなかったし、明確にその姿を思い描いたことはなかった。

 ルルはまだ変態を迎える前の子供だったから。他の男と恋をするということがどういうことか理解できていなかった。概念としては分かっていても、それをルルにうまく当てはめられなかった。さっきまでは。

 

 今ならよく想像できた。甘い匂いをさせたルルに男がどうなるのか。恋をした男女の先に何があるのか。ルルの白い肌を男の汚らしい手が撫で回す。誘淫質によって理性の効かなくなった獣がルルの上にのしかかる。ルルの胸元に結ばれた細いリボンがーー。


「――ルルさん!」


 ヒョスロヌートは分かった。

自分が親愛以上の念をルルに抱いていることも、知らない男に触れられるルルを想像しただけで不快な気持ちが広がることも。ルルが自分の元を去るのが嫌だった。魔力を持たぬ研究対象としてでなくルル本人に興味を、好意を抱いている。

自分はルルに恋をしている。


「ルルさん!」


 いてもたってもいられず洞窟の外へ駆け出す。蔦に引っかかり、転びそうになりながらまろび出る。シンとした森には既にルルの影も形もない。当たり前だ。自分が追い返した。もうとっくに家についているはずだ。

ルルはどう思っただろうか。どうやって帰っただろうか。


ヒョスロヌートは空気を思いきり吸う。ルルの残り香を感じる。ほんのりと、頭をかき乱すほどではない微かな匂い。

ルルはまた来てくれるだろうか。ヒョスロヌートは思いを馳せる。もう来てくれないかもしれない。変態した彼女は、すぐに誰か他の男を見つけてしまうかもしれない。

明日にでも家に行ってみよう。まだ誘淫質の制御ができておらず追い返されるかもしれないが。そしたら明後日に。まだダメなら明々後日に。


ヒョスロヌートは晴れやかな気持ちだった。長年、自分には解明できないと思っていた疑問がついに解けたのだ。自分にも恋というものができることを知った。恋とはどういう気持ちなのかを体験することができた。この成果をきっとルルに報告しよう。ルルはきっといつも通り目を輝かせてくれるに違いない。いつも色々な研究成果を教えるときと同じように。

そうだ、プレゼントもまだ渡していない。

ヒョスロヌートは思い出す。あれほどの研究成果をまだ渡していないではないか。

ヒョスロヌートは気分が高揚する。彼女に二つも研究成果を渡すことができる。一体どんな顔で喜んでくれるだろうか。

ヒョスロヌートは期待する。自分が愛してやまないものが二つできたのだと。魔力の探究だけでも十分に満ち足りていた生活にもう一つ灯ったルルという明かり。それがどれほど自分の人生を照らしてくれることだろうか。


ヒョスロヌートは大きく息を吸う。

生まれ変わったような自分の中が、甘い匂いと森の匂いでいっぱいになる。

ゆったりと吐き出す。空気の入れ替えと一緒に体の隅々まで作り変わっていくような気がする。

もう一度、大きく息を吸う。ルルの匂いだ。ルルの匂いと森の匂い。


「……おや?」


 違和感を感じた。もう一度息を吸う。今度は注意深く、違和感の正体を探るように。


 ルルの匂い。甘い誘淫質の匂い。森の匂い。いつもと変わらぬ匂い。木から、葉から、花から、実から。様々な匂いが混ざり合う森独特の匂い。

 吸血鬼は特別鼻が効くわけではない。むしろカビくさい洞窟で暮らしたりして嗅覚は鈍っていることが多い。特別強いか嗅ぎ慣れた匂いでなければ細かい違いなど感じることはないであろう種族。そんな種族が唯一嗅ぎつける匂い。

 一つしかなかった。血の匂いだ。

 甘い匂いに混じって、微かな、本当にするかしないか分からないほどの血の匂いが流れてきていた。


「ルルさん!」


 ヒョスロヌートは泡を食って駆け出す。血の匂いがルルのものかどうかは分からない。そこまで嗅ぎ分けられる量の匂いではない。仮にルルのものだったとしても大した量の出血ではないからこれほど薄いのかもしれない。

しかし、ルルの可能性がある。ルルが怪我をしているかもしれない。

泣いているかもしれない。

そう脳裏に浮かんでしまったら止まれない。


ルルのもとへ行かなくては。焦った足がもつれそうになりながら走る。ルルは家に最短で向かったに違いない。大通りを通る危険が、聡い彼女には分かったはずだ。

森の中を突っ切る直線コース。川に近づくにつれてルルの匂いが強くなるのがわかる。

いる。これならまだ川を渡っていない。いる。同じところに留まっているようだ。いる。

男を強く惹きつける甘い匂いにむせ返りそうになりながら進む。だが血の匂いはそう強くない。怪我はそうひどくないようだ。ヒョスロヌートはホッとした。ちょっと転んで擦りむいたくらいだったら良い。

川の轟々と流れる音がすぐそこまで迫り、斜面に出たその瞬間。


夜目が効く彼の視界に入ったのは。


旅人のような格好をした薄汚れた男の下から覗く、真っ白なワンピースの裾とほっそりした足だった。


ヒョスロヌートは何かを考える前に魔法陣を握った右手を前へ突き出していた。


「風、蹴散らせ」


 一切の温度なく発されたその声に従い、魔法陣から吹き出した風が細く鋭くより合わさって男の脇腹にぶつかる。男は回転しながら吹き飛ばされ、声もなく川の中に消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ