甘く匂いたつ夜
襲われる描写があります。
未遂ですが、苦手な方ご注意ください。
ルルは、ヒョスロヌートの住む洞窟の前にたどり着いていた。
今日は誕生日、今日は誕生日と唱えながら実に楽しそうに坂を走って登ってきた。そのせいでやや弾んだ呼吸を深呼吸して整えていく。入り口のすぐそばに流れ落ちる小さな滝から涼しい風が吹き、ルルの前髪をサラサラとそよがせた。何気ない風でさえもその輝かしい日を祝ってくれているかのように感じ、ルルは嬉しくてクルクルと回る。
今日は誕生日。
大人になる日。
甘いものが食べられて、こうしておめかしもして、その上あの吸血鬼が何かプレゼントをくれる。
こんなに嬉しい日があろうか。
ルルはニマニマと上がってしまう口角を手でギュッと押さえる。
目を閉じて気持ちを落ち着ける。
そうだ、いつもみたいに走ってしまったけれど髪は乱れてないだろうか?頭を軽く撫でつけて確認する。大丈夫だ。リリスに結ってもらったまま崩れていない。
ウキウキしてスキップしそうになるのを堪え、意味もなく拳をギュッと握りしめ、ルルはやっと洞窟へと足を踏み出した。
何層にも垂れ下がった蔦のカーテンをかき分け、どんどん奥へと進んでいく。
手の先に何もなくなった次の瞬間には、ルルの体は開けた空間に飛び出していた。
「いらっしゃい、ルルさん」
「お邪魔しますなのじゃ!」
ルルのテンションは最高潮に達していた。
部屋はいつもより明るい。普段はヒョスロヌートの目が疲れてしまうから置いていない、例の光を発する魔法陣が隅に設置され、薄暗い雰囲気を払拭していた。
部屋の中央。白く照らし出された大きな岩のテーブルには可愛らしい刺繍の入った布が綺麗に広げられ、その上にカットされた果物や小さなお菓子がこまごまと並んでいる。
コウルファを生けてある花瓶は細かな装飾が施された見たことのないものだし、椅子にもふんわりしたクッションが置かれている。
「娼館の方々が手伝ってくださいまして……」
そう言いながら笑みを浮かべるヒョスロヌート自身も、普段とは違った。
いつもボサボサの髪はきっちり撫でつけられ、三つ編みにされた先には細い赤のリボンが結び付けられている。髪型をしっかりすればイケメンだと言う酒場の男たちの言葉は正しかった。鬱陶しい前髪で半ば隠されていた真っ赤な目がすっきりと覗き、柔らかに細められた様は誰がどう見ても美青年だった。
また、いつでも黒のローブを纏い代わり映えしなかった服も見たことのないものに変わっていた。さっぱりしたシャツ。細身のズボン。シンプルな格好ではあったが、背の高いヒョスロヌートにはよく似合っている。その手足の長さが目立ち、ただ立っているだけでも様になる。
ルルは部屋の飾り付けとヒョスロヌートの服装に感極まった。
自分のために用意してくれたのが一目でわかったからだ。
せいぜい甘いものを一緒に食べるくらいだと思っていたのに、それだけでも楽しみだったのに、ここまで力を入れて準備してくれたなんて。
嬉しくて嬉しくて、ルルはすぐには動けなかった。人は、予想を遥かに上回る喜びが到来した時、案外分かりやすいリアクションは取れないものだ。全身が機能を停止し、限界を超えるほどの喜びがだんだん体に馴染むのを待つ。
ルルは、ここに来る道中で上がりに上がっていたテンションがさらに跳ね上がってしまったのを、震える頭で感じ取っていた。感謝を伝えたくて、ヒョスロヌートだけじゃなくこの世の全てに謝辞を述べたいような気持ちになって叫び出す。いや、喉がカラカラになって声が出ない。嬉しい。とにかく嬉しい。頭の中が嬉しいという気持ちで支配される。
指先が動いた。気持ちが追いついてきた。
腕が動いた。ヒョスロヌートに向かって伸ばす。
動いた。足が、腰が、全身が。
ルルは思い切りヒョスロヌートに飛びついた。
ギュッと腕を回し、声にならない喜びをヒョスロヌートの胸にグリグリグリと押し付けると、パッと顔を上げ満面の笑みを見せた。
「……ありがとうなのじゃ!」
礼を言われたヒョスロヌートはホッとした。ルルが部屋と自分を見て固まってしまったものだから、期待に添えなかったのかと不安に思っていたところだった。笑っているのを見て、どうやら喜んでくれたらしいと安堵する。
良かった、とルルの頭に手を伸ばして撫でながらその頭を抱き込むと、その白い首筋に牙を突き立てーー。
「――おや?」
ヒョスロヌートは動きを止めた。なんだか頭の奥が痺れるような感じがする。
牙?首筋から血を吸おうとした?自分が?
ヒョスロヌートは困惑する。
首から血を吸うことはない。多すぎる量を吸ってしまう可能性があるから。吸血鬼は他種族に死んでもらっては困る。吸血は手首から。基本だ。首筋から吸おうとするなんて理性の飛んだ吸血鬼しか――。
「ヒョスロヌート?大丈夫かの?」
ヒョスロヌートの腕の中でルルが不思議そうに尋ねる。
いつもならルルが飛びつき、ポンポンと頭を撫でているうちに落ち着いたルルが離れるといった具合だ。抱きしめ返されることなんてない。
ルルの頭を抱えたまま一言も発さないヒョスロヌートに、具合でも悪いのかと心配になる。
「立ってられんのか?椅子に座るかの?」
ルルが頭に回された腕を外そうとすると、ヒョスロヌートはそれを拒むかのようにますます腕に力を込め、ルルの首筋に鼻を寄せる。
何かがおかしい。
ヒョスロヌートは痺れる頭の奥でどうにか自分の行動を分析しようとしていた。
なんだか自分が自分でないみたいだ。
首筋から漂う甘い匂いが堪らなく恋しく、感じたことのない情動が体の真ん中から溢れ出そうとしている。
ルルを離したくない。
この腕の中の少女を閉じ込めて、首筋に牙を立て、甘やかな匂いのする肌にーー違う違う違う!
ヒョスロヌートは必死でおかしな方向に流れる思考を制御しようとした。
うまく考えがまとまらない。しかし、このままでは良くない。それだけは分かった。
「る、るさん……」
「なんじゃ?どうしたのじゃ?」
心配そうなルルの声にヒョスロヌートはすまなく思いながら、この状況をなんとかする解決策を口に出した。
「すみません……誕生日パーティーは、えん、きです……おそらく、ルルさんの変態、が、始まっ……」
うまく言葉がつながらない。
「延期?変態?……主が今苦しそうなのは、妾が誘淫質を……?」
ルルも混乱しながら、両親にかつて聞いた話を思い出す。母が誘淫質を撒き散らした笑い話。隣にもう一人夢魔がいたから笑い話で済んだ話。
もちろん誘淫質自体は危険なものではない。しかし、うまく制御できない状態では大変なことになる可能性がある。特にルルは夢魔の間に生まれた奇跡の子。サラブレッド。その種族特性がどう働くかは未知の世界。
強すぎたのかもしれない。制御できていないのかもしれない。
今ヒョスロヌートを苦しめている。
ルルはそのことに気づくと、ヒョスロヌートから離れようとした。自分の強すぎる匂いから遠ざけなければならない。そう思うのに、頭を抱え込む腕はガッチリと固まり、ルルを離そうとしない。
「私を、突き飛ばしてく、ださい……ひどいことを、してし、まい、そ……」
ヒョスロヌートは、自分の体が思うように動かないのを自覚していた。
なりふり構わずルルに襲いかかりたい気持ちと、ひどいことをしてはいけないという思いがせめぎ合い、意識が飛びそうになる。息が荒くなる。手を離そうとするのに体が全然言うことを聞かない。手は自分の思わないように動き、ルルの白いワンピースの裾に伸びーー。
ルルがビクリと震える。
「ヒョ、ひょすろぬ」
「つき、飛ばしてください」
耳元で囁かれた二度目の言葉に、ルルは大きく息を吸い込むとドンっとヒョスロヌートの胸を押した。
ヒョスロヌートはそのままヨロヨロと下がると、くたりと崩れ落ちる。思わずルルが駆け寄ろうとするのを手で制して言った。
「できるだけ走って、家に。続きは、また」
ルルは苦しげなヒョスロヌートに泣きそうな顔をし、しかし自分が離れることが一番良いのだと理解しているからジリジリと下がる。
フサッと蔦のカーテンを背中に感じたルルは、ギュッとそれを握る。
「また、来る」
暗闇に消える直前ルルの目に映ったのは、テーブルの上に並べられた可愛らしいお菓子と、なんとか顔を上げたヒョスロヌートのぎこちない笑顔だった。
6章 影
ルルは走っていた。森の中を。
通りに向かう道ではなく、家への最短経路。リリスとバルギンに禁止されている森の中の一直線。
普段は守っている言いつけを今破っている理由はもちろん一つ。
緊急事態だからだ。
一刻も早く家に帰らないとどこで誰に出くわすか分からない。大通りなんてもってのほか。川の上の近道だってダメだ。人がいるにはいるをさっき知ってしまったし、自分の誘淫質がどれほど強いのかも分からない。どれくらい人に影響を与えるのか。どれほど離れていれば良いのか。何から何まで分からない。
分からないから、どこよりも安全な、たった一つの場所を目指す。
両親の待つ家へ。
できるだけ早く。
ルルは川に行き当たった。普段見るよりも数段勢いのある川。暗がりで轟々と鳴るその水音は、まるで何人も通さないという意思を強硬に主張しているかのようだ。
ルルは、歯を食いしばって斜面を降りる。橋がどこにあるかも見えない。真っ暗な闇の中で唸りを上げる水音だけが存在を主張する。橋はあるはずだ。ルルは必死に目を凝らして探す。足音がぬかるんでいる。水際に近付きすぎている。こんなに下ではなかったはずだ。登らなければ。水気に足を取られ転びそうになりながら、ルルは上を向く。もう少し、もう少し上――。
見上げた先に、人がいた。
いっぱいに広がる木々の隙間に、わずかに差し込んだ月明かりに照らされる影が。
どうしてここに人が。
こんな村はずれの森、道を間違えた旅人だって迷い込まない。
ルルはどうして良いか分からなくなる。あそこに橋があるのか。
だとしたら、だとしても。あの人物がどこかへ行くまで近づくことはできない。
どうか、早く行って。
ルルは硬く拳を握る。歯をさらに食いしばって、ギュウギュウと拳を握りしめる。
そのまま影が通り過ぎることを強く祈る。
お願い、行って。
影がだんだん大きくなる。
家に、帰らせて。
影が目の前に立つ。
顔は見えない。
荒い息が聞こえる。
ルルは腕に力を入れすぎて、ブルブルと震える。体は動かない。
影は、ルルに向かって手を伸ばした。
「ひっ」
ルルは動けた。足が動いた。影から突き出る真っ黒な手から逃れようと、一歩下がった。
パシャっと水音が響いた。水際だった。
その水音で、ルルを縛っていた全身の強張りが解けた。
あとはもう、ルルは自由に体を動かせた。手をめちゃくちゃに振り回して、影を寄せ付けないようにした。後ろには逃げられない。影の横を走って通り抜けようと勢いよく暗闇に飛び込もうとする。
次の瞬間、ルルは土の上に倒されていた。
何が起こったのかルルには分からなかった。
分かるのは、今影が自分の上にのしかかり、腕と足を押さえていること。
ジタバタともがいてもびくともしない力がルルの細い手足にかけられていた。
逃げられない。動けない。
帰れない。
ルルは諦めそうになる。なんとか気持ちを奮い立たせようとしても、ほとんど視界がない上に体を一切動かせない状態で、もはやどうすれば良いというのか。
変態をしたというのなら夢魔としての種族特性が使えやしないか。必死に何か思い出そうとしても頭が回らない。誘淫質。出している。出しているからこんな目に。変身。多少外見の操作ができるだけだ。屈強な男に変身するとか、大きな魔物に変身するとかそういう便利なものじゃない。役に立たない。侵入?近くに家がなければ。浮遊?まず振り払わないと。
脳内に浮かんでくる能力を次々と切って捨てる。
どうする。そうすれば良い。
頭がガンガンする。
「――ね」
声が聞こえた。
影から、荒い息の間から声が聞こえた。
ルルは見えないと承知していながら影を睨む。
何を言うのか。どうにか切り口をーー。
「夢魔、だよね?ずいぶん、小さいんだね。こんな小さいのに、もう大人なんだね。15歳の誕生日、だったっけ、大人になるのって……こんな淫乱な匂いを撒き散らして……」
愕然とした。
誕生日。
なぜ影がその言葉を知っているのかとか、夢魔の変態をどこで知ったのかとかそんなことはどうでも良くて。ただ一つの事実。
自分は今日誕生日だったからこんな目に合っているのだ。
そう思ってしまった。
あんなに楽しみにしていた誕生日だったのに。今日だってすごくウキウキして坂を登ったのに。さっきまで、ついさっき川を渡らせてもらった時まで何もかもに心躍らせていたのに。全てが輝いていたのに。川に浮かぶ無数の光も、滝の前で吹いた風も、洞窟に入ったときの高揚感もたくさん並んだ菓子もヒョスロヌートの格好を目にした時の驚きも感謝も喜びも。
何もかもが台無しになった気がした。
誕生日だったのに。誕生日だったから。
今日、大人になってしまったから。
だから影を、自分がこの影を惑わせた。
ルルはもう抵抗する気が失せていた。
そうだ、自分は夢魔なのだ。夢魔はこういうことが好きなはずだ。
何を嫌がることがある?
むしろ降って湧いたご褒美かもしれない。自分から動かずとも餌が寄ってきた。
これこそ誕生日プレゼント、という、やつ……。
「ふぐっううぅ……」
ルルはボロボロ泣いた。そう簡単に気持ちを切り替えることなんてできなかった。涙は止めどなく溢れ出た。影に声も聞かせたくなくて必死に唇を噛んだが、わずかな隙間から空気が漏れ出るのを抑えることはできなかった。
「泣いて、るの?大丈夫、優しくする……」
影がねっとりした声を出して手をルルの太腿に這わせる。ルルはなんの反応も返さないよう体を固くしていたにも関わらず、思わずビクリと震えた。背筋にゾワゾワ這い上がってくるものがあった。嫌悪だった。
そこで、ルルはつい数分前の出来事を思い出した。さっきヒョスロヌートに触れられた時にも、体が震えた。
でもあの時の震えはこれとは違ったのだと、ルルにははっきりと分かった。
あの震えは戸惑いだ。いきなりで驚いてしまっただけだ。嫌悪感なんてまるきり湧いてこなかった。
ヒョスロヌートに触られるのは嫌ではなかった。そのことに今気づいた。
だったら。
その先を思った時、ルルは急に心が凪いでいくのを感じた。
何日も前からずっと騒ぎっぱなしだった心が、ウキウキやワクワク、ドキドキ、驚きと焦燥、絶望と忙しなく変化していった心が、どうにも静まり返ってしまった。
だったら。
もう戻れない過去を思う。
嫌じゃ、なかったなら。
「ヒョスロヌートと結ばれてしまえば良かったのにのう……」
ポツリとこぼされた小さく静かなその願いは、ゆらりと揺れて空気の中に溶けていく。誰にも聞き届けられないまま。静かに、静かに。森の中に、ただ影の息遣いだけがこだまする。
ルルはもう何も聞きたくなかった。
耳障りな呼吸音もねっとりした声も衣ずれの音も何もかも。
意識を手放してしまいたかった。
この救いのない時間を詳細に覚えていたくなかった。
何も聞きたくない、何も見たくない、何も考えたくない、何も感じたくなーー。
「風、蹴散らせ」
一陣の風が吹いた。ルルの荒れた心の表面を撫でるかのように。冷たくルルの鼻先をかすめ、その前髪を優しく舞い上げる。
ルルはいつの間にか硬く閉じていた目を緩め、そっと開けた。
ルルは、何が起こったのか分からなかった。何がなんやら分からないのは二度目だった。
今回分かったのは、もうルルは押さえつけられていないということだった。
影は吹き飛ばされていた。
誰かが助けてくれたのだ。そうルルは思った。
一体誰が助けてくれたのか。
体がギシギシと軋むのに構わず上体を起こそうとする。声がした方を、風が吹いた方を見る。
そこには、背の高いシルエットがあった。右手が真っ直ぐ前に差し出され、その指先には紙のようなものが挟まれている。数瞬前に巻き起こした風の残りに三つ編みした髪がパタパタとはためき、少し乱れた前髪の間から赤く輝く瞳が覗いている。かつては人に興味を向けることのなかった細い目が、強く、強く見開かれていた。明確な意思を持って。未知の世界に踏み出したかのように。
ヒョスロヌートだった。確かにヒョスロヌートだった。どこか抜けたところのあるあの吸血鬼。ボサボサ髪で背の高い、いつもにこやかな吸血鬼。
しかしルルには、それとは違う何かに見えていた。
今までヒョスロヌートに感じていた安心感とか、ホッとするような気の抜けた親愛ではないものが胸に生まれるのが分かった。
ルルはヒョスロヌートに、ドキドキしていた。
自分が絶体絶命の瞬間に助けに現れた。これは、劇的な出会いだ。
自分が最後に思い描いた人物が現れた。これは、運命だ。
恐怖を打ち払ってくれた。素敵だ。暗闇で輝く赤い目が素敵だ。すごい魔法が使える。素敵だ。素敵だ、素敵だ、素敵だ。
ルルは、「キュンキュン」という言葉が理解できた。月明かりに照らされるその姿を見るだけで、胸が締め付けられるような苦しさを感じた。この人でなくてはならない。この人と一生を共にしたいと、心からそう思った。
ルルは、夢魔の子が、誕生日を迎えてついに恋を知ったのである。
対してヒョスロヌート。人の心を解さない、研究命の吸血鬼。
ルルへの気持ちは「好き」ではないのだと幾度となく確認してきた吸血鬼。
なぜここに現れたか?
それは、やはりそれも、誕生日だからだった。